狂気にならないように書くことの重要性

ここでは無理やり二つの文章をつなげるという懐かしいことをしてみよう。まずは二つの文章を確認しよう。

何を忘れているか、何にこだわっているか、この二つによって理解が促進されるということ、それは不思議なことではないだろうか。忘れていることを発見すると私たちは批判する。こだわっていることを発見すると私たちは称賛する。しかし、批判と称賛は反転しうるのだから真の問題は「忘れる」と「こだわる」が実質的に同じであることだろう。

私は文学が読めない。私は哲学が読める。この違いは何に由来するか。とてもくだけた言い方をするなら、私は哲学を舐めていて文学を舐められない。だからこそ文学は読めないし哲学は読める。もう少し真剣に言うとするならば、文学にはリズムがある。しかし、哲学には反復があるだけである。反復からリズムに跳ぶのに私の読み方は向いていない。おそらくそういうことであると思う。

上の文章をAと呼び、下の文章をBと呼ぼう。Aは「忘れる/こだわる」と「批判/称賛」が重ね合わされ、後者が反転しうることから「忘れる/こだわる」が「実質的に同じ」であることが指摘された文章である。後者は「哲学」が「読める」のは「反復」しかないからであるのに対して「文学」が「読めない」のは「反復」だけではなく「リズム」があるからであるのは「私の読み方」が原因なのではないかということが指摘された文章である。

さて、確認した上でまず手かがりになると思われるのは「私の読み方」は「こだわる」ことによって作られたものであると考えられるということである。もちろん、精確に言えば、「どうしようもなくそう読んでしまう」ということの「そう」が「私の」になるのであって、その意味で私が「こだわる」のではなく「どうしようもなく」そうなったのを「私の」で引き受けたことを「こだわる」と呼んでいるのである。だから、ここには「批判」から「称賛」への反転もしくはそれに似たものが見出せるように思う。この反転がそれであるのはここに「引き受ける」があるからである。

さて、なんとなく先は見えた。ただ、その先に存在しないものが一つだけある。それは「忘れる」である。そもそも「忘れる」とはなんなのだろうか。

問題の核心にまっすぐ進むとすぐ無口になってしまう。「私の読み方」は「リズム」を「忘れる」ようなものである。私は一文、一部に拘泥してしまって、しかもアクセントであるようなそれに拘泥してしまって、いや、アクセントですらないところになぜかアクセントを見てしまって、そうであるからそれは異物であり、私はその異物によってもはや読み進めることができず、栞は挟まれたままになる。そして私は読み直すことができない。異物も含めてすべて「忘れる」からである。文学というのは問題集に似ている。ある意味では。

哲学でそういうことがあっても虫食い問題のようなものになるだけである程度の推測力さえあればなんとかなる。実際にはなんとかなっていないときもあるかもしれないがなんとかなったことになる。しかし、文学はそうではない。飛ばせばいい問題が飛ばせないのだ。私は。しかも文学は一つのテスト、その中にある問題ではない。困ったことに私にはそのようには思えない。

哲学はたしかにたくさん問題を出してくる。しかし、その問題は同じ解法で解ける。「解けた」が同じ仕方で現れると言ってもいい。もしくは「解けた」が多様であると言ってもいい。文学はそうではない。「解けた」とならないものが蓄積していく。沈殿していく。私はその沈殿物に塗れ、深海に落ちるのだ。奇怪な深海魚ですら生きている。エネルギーの出入り、滞留がある。私にはそれがない。私は物になるのだ。

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