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架空序詞集(その10)


読んできたなかで、それだけで味わい深い文章を集めたページ。
よく、本の中のタイトルページの裏とか、各章始まる前のちょっと下がった辺りにある、古今の本の引用。自分の本を出す予定も計画もまるでないけど、もしあったら、こんなの使ってみたい…




 比類もなく、どこに始まりがあるのか見定めもつかずー末端はまた発端と綯いまぜられているのは、さながら言い知れぬ畏怖と羞恥の念いから、互いに呼びかけあうのを避けようとしているかのようであった。
(ホーフマンスタール「影のない女」)


 一方、人間は言語に恵まれているので、常人以上に理知を働かせることもあれば、その逆に理知を失うこともある。
 言葉は、賢者にとって計数機である。賢者は言葉を用いて計算しているにすぎない。ところが愚者は、言葉をむやみにありがたがる。
(ホッブズ「リヴァイアサン」)


 「じきに慣れるものよ」と女性は独り言のように言った。「ほかのいろんな馬鹿げた区分とか下位区分とか分類とかにも。要するにみんな、適当なのよ。根拠なんかない。でも近ごろは誰もそういうことがわかっていないみたいね。何かひとつ動いたら、誰かがちょっと積極的にふるまったら、全部あっさり崩れ落ちるのに」
(シルヴィア・プラス「メアリ・ヴェントゥーラと第九王国」)


 記号は対象に一致するものではないという事実をことさら強調する必要があるのは、なぜなのか。記号と対象の同一性[…]の直接的自覚のほかに、この同一性が不適切である[…]ことの直接的自覚も必要だからである。このアンチノミーは不可欠である。なぜなら、矛盾なくして概念の動きもなく、概念と記号との関係は自動化してしまい、出来事は停止し、現実も自覚できなくなるからである
(「ヤコブソン・セレクション」訳者あとがきよりヤコブソン「詩とは何か」)


 言葉数が多くなるほど、逆に有限の感覚が強まるという逆説。無限の感覚を出すには、書かれない真空の深さを想像させるほかありません。膨大な量の有限よりも、ゼロのほうが無限に近いということです。
 まったくその通りだと同意しながら、ここでぼくは「ずるい」と感じてしまうわけです。それでもなおかつ語り尽くそうとすること、描写しようとすること、言語化しようとすることが、近代小説の生命ではないのか。
(「日本の作家が語るボルヘスとわたし」より星野智幸の言葉)




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