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「メアリ・ヴェントゥーラと第九王国 シルヴィア・プラス短篇集」 シルヴィア・プラス

柴田元幸 訳  集英社


「すばる2022年8月号」(集英社)…シルヴィア・プラスの未邦訳短篇「ザ・シャドー」と柴田元幸×小林エリカ対談から

短篇集に収録の「ミスター・プレスコットが死んだ日」という作品は、知人の男性が亡くなって葬式にきた「あたし」が、知らずに故人が最後に使っていたグラスで水を飲む。

 死ってそんなに遠いところじゃなくて、グラスに口をつけるだけですぐそこにあるものなのだとあの文章を読んで思いました。
(p177)


小林氏の発言。
柴田氏は短篇集に「五十九番目の熊」か「ザ・シャドー」どちらを入れるか悩んで、結局前者にした。このすばる2022年8月号では「ザ・シャドー」の方が読める。
(2023 05/07)

というわけで「ザ・シャドー」
対談両者が言うように、ラストの母と娘の対話が印象的。アメリカの第二次世界大戦当時(直前?)、語り手の娘の父はドイツ系(グダンスク回廊出身)。で収容所に入れられる。ある程度はプラスの体験踏まえている(上の水を飲むシーンも実体験らしい)。いつもの日常に実は空いている様々な穴を、そこから覗き込んでいる感じ。なんかこんな比喩を、前どこかの作家で書いたような…
(2023 05/08)

「シルヴィア・プラス短篇集」から「ミスター・プレスコットが死んだ日」


まずは上記対談にもあった「ミスター・プレスコットが死んだ日」から。

 何かがなくなって、これで自由だって思うのに、気がつけばその何かが腹にしっかりと居すわって俺のこと笑ってる。なんか親父がほんとに死んだ気がしなくてさ。俺のなかのどっかにいてさ、起きることを見てるんだよ。ニタニタ笑って
(p49)


上記の、死んだプレスコット氏が最後に口をつけたグラスで水飲んだ後の、プレスコット家の息子ベンの言葉。柴田氏の解説には、「共同体の慣習と和解する方向」とあるけれど、そこまでは言い切れないかもしれないけど、このベンの言葉も「父親はいつも自分の中にいる」とかいう意味より、コップで飲んだ水と同じように「違和感」の存在なのだろう。
この短編の「味」として、二度変形して繰り返す表現というのがある。例としては「誰だってそれが精いっぱいよね」とか「安らかに逝かれる」(これは結構変形されている)とか。でも、この技法?はこの作品だけではなくて、現代の短編、特にアメリカではありがちにこの後なったのか。
先の柴田氏解説では、この作品とは逆の「主人公が共同体の規範から離れて自立へ向かう」のが、表題作らしい…

おまけ(ただの妄想…ドノソ「別荘」参照)
p39、まだ語り手とその母親がプレスコット家へバスで向かっている時に、母親が「人間を豚みたいに丸焼きにする、とかヘンな話はやめてちょうだい」という。結構唐突に入る(他の作品と繋がって…とかはないよね?)言葉だけど…さすがに「ヴェントゥーラ」という短編集に入っているだけなことはある。
(2023 08/31)

「メアリ・ヴェントゥーラと第九王国」

ということで?表題作。
すばる掲載の「ザ・シャドー」やこの間の「ミスター・プレスコットが死んだ日」と違って、これは幻想的なブッツァーティ的な作品。両親に列車の一人旅をさせられた女の子が、自分の意志で、目的地とされた第九王国の前の第七王国に非常紐を使って強制的に降りる、という話。この列車が何なのか、第九とか第七王国とか、メアリに脱出方法を教えてくれる女とか、それから結末とか、一切の謎はそのままだが、確かに「主人公が共同体の規範から離れて自立へ向かう」(訳者解説)短編ではある。

 でも、忘れちゃ駄目よ、代償は払うのよ。いずれすべて代償は払うのよ。
(p21)

 「じきに慣れるものよ」と女性は独り言のように言った。「ほかのいろんな馬鹿げた区分とか下位区分とか分類とかにも。要するにみんな、適当なのよ。根拠なんかない。でも近ごろは誰もそういうことがわかっていないみたいね。何かひとつ動いたら、誰かがちょっと積極的にふるまったら、全部あっさり崩れ落ちるのに」
(p22)


両方ともメアリの隣に座って最終的に脱出を手助けしてくれる女の言葉。これはまだメアリが意を決する前の時。普通の列車の旅の風情に、唐突にこういう言葉が挟み込まれる(でも、物売りのバートとの会話は読み返してもよくわからなかった)。
2019年に、シルヴィア・プラスの未発表短編が発見、出版されたものの中の一つ。この作品は雑誌発表を断られていたという(それ以前にはいくつか掲載されてはいたが)。とにかくこういうわけで、この作品が松本零士によって「銀河鉄道999」となった、というのは単なる妄想(笑…宮沢賢治を思い起こさないのは自分の限界(笑))。
(2023 09/02)

「十五ドルのイーグル」

今日は2編。「十五ドルのイーグル」と「ブロッサム・ストリートの娘たち」。ともに1959年の作品。
「十五ドルのイーグル」はタトゥー職人の店で観察している話。タトゥーという文化は自分にはさっぱりだけど、一つの文化を覗き見してる感覚が、柴田氏の訳文調子と相まって楽しい。p70からは突然「JAPAN」が出てきてびっくり。この水兵が希望したという文字、イーグルが捕まえるという図式、アメリカではこんな感じ。一方、タトゥー職人カーミーは全身タトゥーだが、その妻ローラは一切なしの白い身体。そこも謎なのだが、カーミーはローラに頭が上がらないらしい…
(謎は謎のままにしておく方が…)

 このあたりで、妙な感覚をあたしは自覚する。水兵の腕から強い、甘ったるい香りが漂ってきている。赤と緑の混じりあいからあたしはさっと目を動かし、左側にある屑カゴの中身にじっと見入る。色鮮やかなキャンディの包み紙、煙草の吸い殻、どろどろに染みた古いクリネックスの塊がひっそり交じりあった山を見ていると、その上にカーミーがぽいと、出てきたばかりの赤をぐっしょり吸ったティッシュを放り投げる。
(p66)


で始まる箇所で「あたし」は気絶してしまう。今まで出産や闘牛などで出血には慣れっこなはずだったのだが…というこの箇所も、実は「ミスター・プレスコットが死んだ日」の死ぬ間際に口をつけたコップで水飲んだのと同じ、プラスの実体験だという。

「ブロッサム・ストリートの娘たち」


プラス本人も一番推しの作品。訳者柴田氏も同意。
5年前に自殺未遂した時に治療を受けたマサチューセッツ総合病院。そこでプラスは働いている(この辺奇妙な感じもするけれど)。この作品と「ジョニー・パニックと夢聖書」の2作品(どちらもプラスの短編の代表作ともなっている)はその病院勤務の体験が生かされている。
さて作品は、ハリケーンが迫る病院の1日。ミーティング、同僚の末期癌、見舞、その死とカルテ室のビリーの死。ちなみに「ブロッサム・ストリート」とは、病院からの死体が運ばれる場所。

 「さあさあ、皆さんどうしたの? お葬式みたいじゃないの!」。天井から下がった銅のランプボウル四つの電球がパッと灯り、魔法のように部屋じゅう明るくなって、遠くの嵐の空がしかるべく遠くへ追いやられ、ペンキで描いた舞台装置みたいに無害になる。
(p86-87)

 と、自在ドアがゴトンと開いて、看護師がコーヒーメーカーの載った金属のフードカートを押して入ってくる。ゴム底の靴が、生きている鼠でも踏んづけてるみたいにキュッキュッと鳴る。
(p94)


本人評の「ユーモアにあふれ、人物は色彩豊か、リズミカルな最良の会話」というリズミカルな運びを引用してみた。p86-87の文は台風の時などによく実感する描写。p94の文は「鼠でも踏んづけているみたい」という比喩が目を引く。こういう言葉が素で出てくるとすると、先の「十五ドルのイーグル」で気絶してしまう描写もわかる気がする。それと「自在ドア」って何?
ここでも視点人物(語り手等病院で働く女性たち)に対するネガの焦点人物ビリーの挙動は謎のまま。
あと、この作品の終わりの少し前にミセス・トモリーリョという高齢の患者が出てくるのだが、先の「十五ドルのイーグル」でカーミーの助手にミスタ・トモリーリョというとても小さい男が出てくるのだが。親類?
(2023 09/16)

「これでいいのだスーツ」


シルヴィア・プラスが書いた、児童向け物語の一つ。「これでいいのだ」は柴田氏のセンス(原題は問題ないスーツ? 主人公マックス・ニックスは、ドイツ語での「問題ない」とかけてる)。名前がドイツ語圏なのだけど、プラスの父親がドイツ系だからか。他の作品(例えばすばるに載ってた「ザ・シャドー」)と違って戦争やナチスは関係ない平和な世界。
(2023 09/18)

「五十九番目の熊」


イエローストーン公園での熊遭遇。プラス夫妻も実際に同じような体験をしたというが、結末は異なる。プラス夫妻の方では監視員が熊を追い払ったが、こちらの小説の方は…結末に迎えたものと恍惚とした最後、そして湖など、なんか自分は「英雄たちの夢」(ビオイ=カサーレス)思い出したり…

 足下の地面が、鳥の頭蓋骨みたいに脆く感じられた。正気と儀礼が作る薄い殻のごときその地面のみが、停滞した泥と煮えたぎる湯との源たる大地の暗いはらわたからノートンを隔てている。
(p140)


繊細な書き方だな、と思う。この短編の語りはプラスには珍しく三人称なのだが、実情は特に妻セイディに繊細さとともにプラスが乗り移っている感じ。でも最後には夫ノートンにも入り込む(結末も暗示している)から、だから三人称なのか。

 頭痛がまた戻ってきていた。頭痛と一緒になって、別の何かがノートンの心の片隅を叩き、忘れてしまった歌詞のように彼をじらしていた。何かのことわざか、ずっと昔に埋もれてしまった記憶か。頭の中を漁ってみるものの、何も出てこなかった。
(p155)


実際に(食べ物を)漁っているのは熊なのだけど…
「別の何か」って何だろう?ひょっとしたら、作者プラス自身にもわからないままだったのではないか。

「ジョニー・パニックと夢聖書」


これまた今までの短編とまるっきり違う飛んだ短編。「ブロッサム・ストリートの娘たち」と同じく病院勤務から生まれた作品だけど、こっちは主題が夢の記録。カダレ「夢宮殿」かキシュ「死者の百科事典」かそれとも…

 透明は透明だが、時を超越した下水利用農場である。
 で、何世紀にもわたってこの湖にはいろんな夢がどっぷり浸ったまま放置されてきたわけで、当然ながら臭いはひどいし湯気も立ってる。ひとつの街に住む一人の人間のために、一晩中の夢の小道具がどれだけスペースを食うものか、考えてみてほしい。
(p165)


臭いはするが、普段は孤立した人間がつながっている、下水…それが夢なのだという。
(2023 09/19)

今日は、「ジョニー・パニックと夢聖書」と「みなこの世にない人たち」を読む。
「ジョニー」の方はまだ昨日読んでいたところはまだわかるが、後半今日読んでいる方は飛び過ぎ(笑)で何が何だかわからない。昔の患者の夢や病歴を読むのが好きで、ある日病院から帰らずに病院にいて語り手が生まれた頃のカルテや夢記録を読もうとしていたら、何かの結社?に連れていかれる…というあらすじ。

 顔は雄牛みたいにどっしりして、相当な数のほくろがあり、喩えて言うなら、長時間水中にいたせいで藻がいっぱい肌に付着して煙草の葉みたいな茶と緑のシミがついたという趣。これらのほくろが妙に目立つのは、周りの皮膚が異様に青白いからだ。
(p171)


最後の妄想?にも登場するミス・ミルラヴェッジの描写。なんか養殖の牡蠣のついた棒(棚?)でも引き上げたかのよう。

「みなこの世にない人たち」

「みな」というのがどこまで含むのかが気になる。とある家で家族と知り合い含め4人で、亡くなった人や幽霊に会った話などをしている。その後、家の台所に一人戻ったネリー・ミーハンは、今の家の元の持ち主で亡くなったメイジー・エドワーズの亡霊を見るが…

 ため息のようにゆっくり息を吐き出しながら、大皿の繊細な青い柳の模様が、自分の透明な手を突き抜けてはっきり見えていることをネリーは見てとり、あれこれお喋りしながら待ちわびる影たちのヒソヒソ声が響く丸天井の廊下を木霊してくるかのように、背後の声が彼女に呼びかけるのを聞いた。
(p203-204)


ネリー自身もまた幽霊であるとすれば、先の会話に加わっていた他の3人も? そしたら「みな」は…
この短編はプラスの中でも早い方の作品らしいので、この短編的な考え方は、のちの彼女の作品風景の原体験となっていると思われる。
(2023 09/20)

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