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「夢宮殿」 イスマイル・カダレ

村上光彦 訳  東京創元社

タビル・サライ


アルバニアのイスマイル・カダレの作品。 カフカに近い作風の作品と聞いていたが、役所という設定こそ似ているものの、なんか違う肌触り。カフカが共時的作家とすれば、カダレは通時的作家?そんな感じ。 
作品タイトルの夢宮殿、標題に掲げたタビル・サライとは国民全ての夢を管理・選別する(架空の)役所なんですが、昔はユルドゥズ・サライと呼ばれていたらしい。この名前だった頃は星から何らかの徴候を読み取る機関だったが、タビル・サライとなってからは個人の夢から徴候を探るようになった。ここなど、「多神教と一神教」読み終えた目には内面に立ち入る宗教成立を連想させる。

 さきほど遠くから円屋根を見たとき、たぶん湿気で生じたらしいしみが目についたが、彼らの制服にもそれと似たしみが見分けられるような感じさえした。 
(p10)


空、宮殿の建物、そして制服となんだか作品世界全てがくすんだ薄水色…しみが入れ子構造のごとく規則的に現れる…のか?しみは夢の強迫観念の繰り返し? 
(2011 08/04) 

民族の不眠症?


「夢宮殿」今日は第2章をさらりと。
主人公の青年?の出身はなかなかの名家…どころじゃなく、武勲英雄詩を代々奉じられて吟遊詩人が歌いにやってくる…そんな家系(実在したらしい)。だけど、伝説にどっぷりつかったような家風ではなく、どっちかというと近代合理的な?感じ。夢宮殿の組織も解体しようとしたらしいけど、それはうまくいかず、反対に夢宮殿が重視され始め、それに対する策が主人公の夢宮殿への就職?らしい。 

さて、そんな家の親戚たちの会話…に、標題のような言葉が出てくる。不眠症の民族はその直後になんらかの騒ぎ・暴動を起こす、と。いちおうのこの小説のモデルとなっているオスマン帝国で「民族」という言葉・概念がどのくらい行き渡っていたか、という問題もあるが、それにしてもオスマン帝国以上に、作品執筆当時のアルバニアを連想させる。 …そして、今の日本も? 
(2011 08/09) 

解釈へ

 ただし顔ではなくて、からだのまんなかあたり、つまり、もし面前にいる相手がドアだったとしたら、取っ手がついているはずのあたりに目をやったのである。
(p82)


「夢宮殿」より第3章「解釈」 えと、主人公マルク=アレムも選別課から解釈課へ。今日はこのタビル・サライという建物が人体というか神経系に思えたり…
冒頭に引用したのはマルク=アレムを呼び出した長官或いは次官の描写。さっきの人体という比喩を連想するのもこんな箇所なのだが、逆にドアというのもなんらかの象徴的なものを隠し持っているのかも。 多分102ページの文には大規模官僚制の薄怖さがしみ出ている。人間のやることはみんな自身の身体の裏返し? でも、なんか、この小説全体が、作家の創造過程を表している…なんて気も、してきた。
(2011 08/11) 

二つの世界… 


「夢宮殿」4章と5章の途中まで。
タビル・サライに勤め出して初めての一日休み(案外、激務だな)。ところが、以前には彩りに満ちていた実世界が、彼マルク=アレムにはもう薄っぺらい世界にしか見えなくなっている…夢の世界のなんと生き生きとしていることか… そんな彼に叔父の大臣は何か核心から遠回りの会話ながら「こちら側」から物事を見るように、と諭しているよう。果たして夢を制御しているのはどっちの世界か… 
5章は文書保管所。古代夢とかオスマン初期から盛期皇帝の見た夢、大戦乱の前夜に見た夢など、読む側の空想も広がる。実際に古くからトルコ民族は夢を重視していたのだろうか?
(2011 08/12) 

個人か群衆か


「夢宮殿」第5章文書保存所の残りを読み終え。

 おい、おまえは向こうで、ひとりきりでなにをしているんだ…なぜおれたちの仲間入りをしないんだ。仲間は大部分こちら側にいるんだぜ… 
(p168)


夢宮殿の地下にある文書保存所から出てくる時に聞こえてくる声なのだが、発した人?が誰なのかが不明なので、おまえが誰でおれたちが誰なのか、この間書いた二つの世界のどちらからどちらへのメッセージなのかよくわからない。けど、なんとなく死者からの叫びのような感じがする。

 彼は目の隅で、人々の横顔をそっとうかがううちに、彼らの頬になんらかの熱病の火照りが感知できるように思った。彼らの頭蓋骨の内側深く埋もれたまま燃え盛る白熱の反映なのか。 
(p175)


こちらはこちら側の人々。でも、夢宮殿に勤務して経験を積んだためでもあろうか、各個人の頭蓋骨の内側の風景を読み取っている。その熱が外部に漏れだして、或いは引き合って、群衆全体の熱となっているのか。
夢(或いはなんらかの思いも含むのか)が個人的体験か、群衆として共有されることもあるのか…は、ちょっと前に出てきた1300年台のコソヴォの戦い前夜の夢にも繋がるこの小説全体を貫くテーマの一つ。 今思ったけど、このタビル・サライという官庁が全体主義的体現者かどうかというも一つのテーマは、自分には読んでいてあまり感じないところ。ここでもカフカとの違いの方が目立つか。官庁自体は小説主体ではなく、(単なる?)舞台装置の一つの変種に過ぎない気がする。別の舞台装置でも、小説世界はあまり変わらない…ま、まだ途中だけど。
(2011 08/14) 

夢宮殿クライマックス…


「夢宮殿」は第6章晩餐会…
だけど、その最中に叔父のクルトが連行され、連れてきた吟遊詩人達が殺害される。元々は主人公マルク=アレムが二度ほど夢宮殿の中で見た、橋の近くで牛が暴れ回っているという夢が、どうやら主人公の一家キョプリュリュ家が反乱を起こそうとしている、とされてしまったらしい。ところが、キョプリュリュ家の大臣も反撃に出て…なんだかわからない混乱のうちに第6章終了。 

争点は、晩餐会内で受け継がれている例の叙事詩が、セルビア語(スラブ系)かアルバニア語(非スラブ系)かで、それにロシアとオーストリアが絡んで…というところ。 昨日は、夢宮殿なる官庁にあまり全体主義的なものを感じないと書いたが、やっぱりそういう新たな国家主義というより、古代からの地続きさの方を感じる。キョプリュリュ家の方でも、あれだけ災難の元となっている叙事詩を捨てられないのは、やはり同じところからだろう。カダレが生まれた地方ではギリシャの三途の川が流れている、との伝承があるくらいだし…

春は近い?


第7章になる終章は「春近し」というタイトル。 
前に述べたクライマックスの夜から明け方にかけて、結局何が起こったのか、マルク=アレムにも読者にもわからないままいきなり、マルク=アレムは「親夢」課課長になり(ちなみに「親夢」とは毎週金曜日に皇帝に献呈する夢のこと)兼長官第一補佐(だけど長官病気で出てこないから実質長官)ともなり、一方叔父のクルトは処刑されてしまう。なんだか一貫してなくて異様にもやもやしてしまうが、これが現実というものだろうか? 

ラストは、もう高官じみてしまった(と自分でも感じている28歳)マルク=アレムが自分専用馬車で帰宅途中、アーモンドの花ざかりな通りを見て、今までになかったような身を乗り出して外を見て、春を感じる、という場面。まさに「春近し」だが、春とはものごと生きとし生けるものが蠢く季節、騒乱もまた。という予感を感じさせる。

おりしも、ギリシャが帝国から抜け、他の地域もそわそわしている。マルク=アレムは「アルバニア」とは書かずに、「向こう」と家の歴史の書に書いた。 そして、カダレも、また同じように書くのか? なんだか、もう一層、別の深い読みがありそうな気も、この作品・・・ 
(2011 08/15)


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