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「影のない女」 フーゴ・フォン・ホーフマンスタール

高橋英夫 訳  20世紀の文学 世界文学全集  集英社

イタロ・ズヴェーヴォ「ゼーノの苦悶」と同時併録。そちらは別項で。


「ゼーノの苦悶・影のない女」ズヴェーヴォ、ホフマンスタール

ゼーノ…はジョイスが高く評価した作品で、確かこれがユリシーズの元になったのではなかったっけ「ニコチン中毒者の孤独な心の葛藤」だそう。作者ズヴェーヴォは今日ではイタリアのトリエステの作家らしいのだが、出自はドイツ系のユダヤ人らしく、イタリア文壇側からすれば「翻訳調」のイタリア語みたいと揶揄されたそう。イタリア側で認めたのはモンターレ。
一方、ホフマンスタールはオペラでもお馴染みだが、昨年読んだ短編集もよかったなあ。薔薇の騎士がフィガロの結婚なら、こっちは魔笛…と作者談。
解説に…

 どちらの作家も十九世紀後半に生まれ、今世紀の最初の二十年間に文筆活動を行ったという事実だけを口実に、便宜上、これを一巻にまとめたのだろう、と推測するひとがいるとしたら、誤解もはなはだしいといわざるをえない。
(p449)


とあって、「申し訳ございません」(笑)という感じなのだが、オーストリア=ハンガリー帝国という項以外に何があるのかは読んでからのお楽しみ??

苦悶から影に


今さっき、「ゼーノの苦悶」を(やっと)読み終わった。最後は「魔の山」と同じように第一次世界大戦の勃発とともに終わっていく。

 おそらく手記の書き直しに備えるためにのみ、わたしは長い年月を生きたのだ。
(p351)


結局、ゼーノにとっての煙草とは、ここで言う「手記の書き直し」そのものであったのだろう。それっていったいなんなのさ?って問われてもうまく答えられないけど、たぶん、ゼーノの生涯には書き直しの暇はなかったであろう、ということはわかる。途切れた手記がそれを物語っている。恐らく誰にとっても…

で、それが次の「影のない女」(ホフマンスタール)では「影」と帝から名付けられるものになるのであろう。

 しかしこの夢見心地のもの思いの最中にも、現在という不快な、いかがわしい感情が、力ずくで割り込んできた。
(p355)


「現在」がいかがわしい感情だ、というのがいいねぇ。でも、さっき、ゼーノは「現在をなんでみんな大切にしないのか?」とか言ってなかったかい? まあ…ホフマンスタールはまだ序盤の序盤で余裕綽々の書き出し、といったところだから…
で、この作品はオリエンタリスティック(こんな言葉ある?)な童話あるいは神話的な幻想的ストーリーの中に、まさに「現在」的な、何かの核に迫るようなこんな文章が入り込むのが魅力。p358の帝の眼差しが変わることを妃が話したところも要チェック。
(2012 03/18)

「影のない女」は、影奪取作戦実践編(笑)。乳母と妃が向かった貧しい職人夫妻の間にかけた薄い幕が何かの鍵…なのかなあ? 鍵とか当たったためしない…当たっても気づかないだけかも(笑)…
(2012 03/22)

末端はまた発端へと


ホフマンスタール「影のない女」から。今日は第4章を中心に。次の文は帝が見る山々の光景。

 比類もなく、どこに始まりがあるのか見定めもつかずー末端はまた発端と綯いまぜられているのは、さながら言い知れぬ畏怖と羞恥の念いから、互いに呼びかけあうのを避けようとしているかのようであった。
(p390)


末端はまた発端へと・・・羚羊の中に入り込んだ妃と、鷹狩りに来た帝との出会いは発端でもあるし、それは末端でもある。綯いまぜ(こんな漢字初めてみた・・・)となっているのと、互いに呼びかけあうのを避けていることが、人々の目にはいろんな美しさ、あるいは混乱となって見えてくるのかもしれない。まあ、ないとは思うけど(笑)、なんか自分で幻想的小説なんか書いたりなどした日には、ぜひエピグラムにいれたい文章だなあ。 この末端=発端感覚?は、帝が出会う謎の?一群の人達のなかの少女が捧げた織物にも反映されている。

 ・・・(前略)・・・わたくしどもの気持ちを、お聞き入れくださいますなら、縁の糸のたち切れもそのままにせずに、また元にかえしまして、はじめの縁と綯い合わせようかと存じます。
(p394)


また。「綯い」だけど(笑)、どうだろう、常日頃いろんなことを悩んだり、どうしてなんだろうと考えたりするのは、ここで言うと「たち切れ」に遭遇している場面なのかも。この物語内部のことは置いとくとして、日常を暮らしていく私達には「末端=発端感覚」も「たち切れ感覚」も両者とも必要なのではないのかな、なんて思ったりして。 最後はこんな文章(先の一群の人々・・・どうやら妃のもといた精霊世界らしい・・・の少年の言葉)。

 おんみが旅に出るのは、出かけたまま帰らないためになのか、あるいは帰ってくるためになのか・・・
(p397)


さっきの末端=発端の考えにも通じるところもあるし、前に書いた「ゼーノの苦悶」の最後の問いにも通じるところがある。ゼーノは手記の書き直し、そして最後の言葉を書きに戻ってくるのだろうか? 帰ってきたいのか、帰ってきたくないのか?
旅好きの自分の感覚で言うと(笑)、帰ってくるために旅に出るということ考えたらつまんないけど、帰ってこなければそれは「旅」とはなり得ない。じゃ、「帰る」とは何よ?って言われたら・・・
(2012 03/24)

なんだかよくわからないけれどみんな人間精神の一部品なのかなあ


「影のない女」から、第4、5(途中まで)章。

 眼をあけたままで横になっていたって、実際の出来事みたいに夢に見ることができない訳はないじゃないのさ。
(p409)


心的真実ってやつですかい?
今日のところはまた乳母と妃の話に戻って、貧しい職人の女房が、乳母の連れてきた悪魔系男と現実の夫バラクとの間を行きつ戻りつみたいな展開。昨日の帝の話(最後は石化される?)とは表裏の関係なんでしょうね。帝と妃は表と裏。妃と女房はこれまた表と裏。 乳母がとにかく自分の目的(といっても、もともとは妃の願い)を果たそうと都合よくぺらぺら話しているのを見て、自分はひょっとしたらこの小説の登場人物なるものは、一人の人間の精神を分解した各部品なのではないか?と考えてみた。

時と瞬間


なんとか「影のない女」を読み終えた。ちょっと無理やり感はあるけど(笑)

 奇妙なことには、あの夫婦二人の眼差しがそこにまざりあっていた。それでいながら、二人のどちらの特徴もそこにこめられているというのではなくて、二人の合一があるばかりだった。
(p435)


前に書いた「発端=末端」の別の形。全ては溶け合い、切れ端は別の切れ端に繋がる。夫妻にとっては子供だろう。
p437では、時と瞬間の違いが書いてある箇所。時の中の話は取り消せるけど、瞬間の中の話は取り消せない…らしい。なんだ、この違いは… 瞬間というのは、きっとさっき挙げた合一と同じだろう。全てが溶け合う「時」、それが瞬間。瞬間で起こしたことは取り消せない…それはその本人が責任を持つしかない。と、聞くとカントの自由概念を思いつく。時は因果関係の鎖の一要素。瞬間は自由な人間が生み出す。ただし、ホフマンスタールはそれを「運命」と(やや悲観的に?)みているのかな?
前に読んだホフマンスタールの軍人の話(村の中の道が二手に別れてどうのこうのいう話(笑))も思い出す。
ストーリー的には、なんだか染物屋夫妻も帝と妃もハッピーエンド?で終わっていく…けど、一人?死んでいく乳母はかわいそ過ぎない?
(2012 03/25)

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