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「日本の作家が語るボルヘスとわたし」
野谷文昭 編 岩波書店
迷宮ーはじめに 野谷文昭
ボルヘスと私 川上弘美
1 読まれるボルヘス
夢という辞典 多和田葉子
断片性と全体性 奥泉光
忘却と記憶の混在 小野正嗣
2 存在としてのボルヘス
ボルヘスの不可能性と可能性 星野智幸
ボルヘスと「現在」 平野啓一郎
盲目について 辻原登
3 世界の作家とボルヘス
ボルヘスとナボコフの間に 高橋源一郎
ラブレーとボルヘスの「空想図書館」 荻野アンナ
ボルヘスと宮沢賢治ー〈翻訳空間〉と語り手の場所 吉田文憲
宇宙ーおわりに 野谷文昭
初出一覧
執筆者紹介
1999年創立の「ボルヘス会」の(前年の生誕百年を記念して。同じ年に日本ナボコフ協会が創立されている)大会の講演を集めたもの。
川上弘美
つまり、わたしの生はフーガなのだ。わたしは一切を失う。そして、その一切が忘却のものに、もう一人の男のものになるのだ。
この文章を書いたのは、果たして両者のうちのいずれであったのか。
(p8)
これは元の(ボルヘスが書いた)「ボルヘスとわたし」という詩のラスト。
これを紹介している川上弘美は形態発生は「個体発生を繰り返す」など、ボルヘスの作品にはどれをとってもボルヘスの全てが入っている、と語る。
多和田葉子
夢の内容を複製するのではなく、夢そのものの力学を、ものを書くなかで再現していくことが必要なような気がするのです。
(p30)
だから、ボルヘスの小説の中で、今起こっていることと、次に起こることとの関係も、そのように、辞書で隣り合わせたふたつの単語の関係、図書館で隣り合わせた二冊の本のような関係、つまり夢の流れの中にあるのかもしれません。
(p33)
夢の複製ではなく、夢の力学(メモメモ…)
夢の中では、見境なく?関連する隣り合うものに飛んでいく、それとボルヘスとの共通性はじっくり考えてみたい。
奥泉光
ボルヘスは、コードそのものがどんどん無限に別のコードを呼び込んでいくような構造を示し、実はコードと言っているものこそが一個の言葉の宇宙、書誌的な宇宙なのだということを指し示しているのだと思います。
(p48)
これもコードとコードの連想、その網の目がボルヘスの宇宙。図書館。
(2019 01/20)
小野正嗣
もうひとつの方法は詩作、もしくはわれわれが創作と呼んでいるものだが、これはわれわれがそれまでに読んだものの忘却と記憶とがひとつにまざり合ったものでしかない
(p67 「ボルヘス、オラル」より)
更に論を進めて、人間存在そのものもそうした混合体という。
それから、ボルヘスに朗読して読書係を勤めたマングェルの回想が引用されているのだけれど、このマングェルって自分が持っている「読書の歴史」その人かな?
(2019 01/21)
星野智幸
ボルヘスよりマルケスに親和性を持つ。ミスマッチなのを承知で敢えて…という野谷氏の狙い通り、このシリーズ中の白眉ともいえる面白さと深さ。
ブニュエルやゴンブローヴィッチなど「ボルヘス嫌い」?な人々の証言から始まり、マルケスの長編小説との対比で、近代小説の根源をも探っていく。
言葉数が多くなるほど、逆に有限の感覚が強まるという逆説。無限の感覚を出すには、書かれない真空の深さを想像させるほかありません。膨大な量の有限よりも、ゼロのほうが無限に近いということです。
まったくその通りだと同意しながら、ここでぼくは「ずるい」と感じてしまうわけです。それでもなおかつ語り尽くそうとすること、描写しようとすること、言語化しようとすることが、近代小説の生命ではないのか。
(p104)
続いてはマルケス側の「描写の小説」について。
取り出せば同じになってしまうような反復の構造が、描写する言葉の力によってズレをはらんでいく感じがあるのです。詩的言語で過剰に描写をすることで、構造に還元しきれない一回性というか歴史性みたいなものが刻まれて、読むという行為のうちにそれが立ちあらわれてくる。
(p105)
ぼくはそういう小説の力の本質に、描写があると考えます。象徴に還元できない細部を確実に書き込んでいくことが、枠組みを破綻させてしまう。その前提には、すべてを象徴に含み込むことなど現代では不可能なのだ、という不信感があります。
(p109)
ちなみに自分はどちらも好き(笑)
平野啓一郎
ボルヘスの思想と仏教の転生、カルマ(業)というのに共通性がある。それはボルヘス自身が認めているらしい。ボルヘスと仏教思想という観点は自分にはなかったなあ。
エリアーデの比較宗教学とボルヘスの対比。
結局は、人間が、本来は目眩がするほどの膨大な数学的可能性の中にありながら、どうしても幾つかの思考のパターンに固執して、そこから逃れられないという現実の結果なのだと思います。
(p136)
そして、我々は情報を、我々自身の記憶によってではなくて、例えば日々の生活の中で、ビデオに撮ったり、カメラに撮ったりして、テクノロジーを通じて、自分の脳みその「外部」に、フネス的に蓄えています。ある出来事を印象の強度によって選別して記憶するのではなくて、フネスのように、機械的に、その場面を全的に保存するという作業を行なっています。
(p137)
(2019 01/22)
辻原登
「盲目について」。ボルヘス本人がいうには、盲目というのは完全な暗闇ではなく、(ボルヘスの場合は)霧がかかったような世界なのだという。江戸から明治期に活躍した、3歳で盲目となりながらも歌を詠みそれを自分の活字で組んで発表した葛原という人や、荘子の夢で蝶になった男の話など絡めて、自分はこうだというのに繋げるために書いたのでは、という。
高橋源一郎
ナボコフ会の講演の続きと称して。でも、期待していた?ようなボルヘスとナボコフの対比(前者が詩人であり続け、後者が詩から小説へと移行した、というくらい。また、逆の小説家から詩人へと転向した例はほとんどない、という)は少しくらい。
詩人は読者がいなくても、あるいは詩を書かなくても、その人の素質そのものが詩人であるのに対し、小説の場合は、作品内に読者を連れ込み、読者と作家がともに変容していく、という。ボルヘスやナボコフその他が「文学講義」と銘打って語るのは、(特にボルヘスの場合は)これも聴講者や読者という他人と共有したいという気があったのでは、とのこと。
(2019 01/23)
荻野アンナ
荻野アンナと吉田文憲で「日本の作家が語るボルヘスとわたし」を読み終え。
前者がラブレーと、後者が宮沢賢治との絡み合い。
前者はまず「まくら」でのフランス古本屋(最高級の認定のお店に「古本屋」というと叱られるという。「古書籍店」というらしい。)事情もそれ自体面白い。ガルガンチュアの最期の修道院の六角形、パンダグリュエルの架空書名などで二つはつながる。この二人を結びつけるのはパスカルだという。完全なものとしての球体はラブレーの時代ではまだ?肯定的に見られていたのに…
ボルヘスの敷衍するパスカルになると、球体は未来も過去も無限裡に呑みこんでしまう、不安と恐怖の象徴と化している。
(p191)
吉田文憲
後者は意外にも宮沢賢治の方が三つだけ年上だという、同時代人であることを認識。
同じ一つの言葉を話していた、ある幻の言語を話していた、『バベルの図書館』の背後にはそのような言語的な(言語以前の)ユートピアの夢がチラついている。
(p204)
一方の宮沢賢治の方は、風やら異世界の言葉やらから何者かの声を聞き取る、そういう方法というか態度というかで成り立っている。そういう自己、自我の主張から遠ざかろうとして作品を書く、そこは両者に共通するところ。
最後に吉田氏が紹介している、『エル・アレフ』訳者木村榮一氏の差し出した、ボルヘス自身の言葉。
「私は以前、人の一生はどれはど複雑に入り組み、充実したものであっても、結局は一瞬から成るのではないか、その一瞬とは自分とは何者なのかを永遠に知るときなのではないか、と思ったことがある」
(p216)
…日本現代作家を全然読み込めてない自分は、ここに登場する作家を順々にまずは読んでいこうかな。
(2019 01/24)
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