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「ヤコブソン・セレクション」 ロマン・ヤコブソン

桑野隆・朝妻恵里子 編訳  平凡社ライブラリー  平凡社


目次


1 詩人たちを浪費した世代
2 プーシキンの象徴体系における彫像

3 言語の二つの面と失語症の二つのタイプ
4 言語学と詩学
5 翻訳の言語学的側面について

6 言語学的意味論の問題
7 言語の本質の探究
8 人間言語の基本的特徴
9 ゼロ記号
10 なぜ「ママ」と「パパ」なのか
11 アインシュタインと言語科学

訳者あとがき

「なぜ「ママ」と「パパ」なのか」

ロマン・ヤコブソン(1896-1982)
(結構最近まで生きていたのね)
とっつきやすそうで冒頭のマヤコフスキイのところからではなく、なんか気になる「ゼロ記号」から…と思ったけど、ロシア語格変化とかの話で難しい…
ということで、次の「なぜ「ママ」と「パパ」なのか」に。喃語から幼児語の移行期、何かを吸っている口の動きの連続が幼児語に変化していく。だから「ママ」も「パパ」も同じ音の連続なのだ。

 papaが居合わせた親を指す一方、mamaはなによりもまず、なんらかの欲求をかなえてほしいという要請の信号であったり、子どもの欲求をかなえてくれるはずの不在者(ただしそれが母親であるとはかぎらない)への要請の信号であったりする移行期
(p341)


親(類する者含む)と幼児との語りかけは相互作用で、幼児も成長するが、親の言葉も変化する。
(2021 07/11)

「詩人たちを浪費した世代」


ヤコブソンによるマヤコフスキイ論かつ追悼、「詩人たちを浪費した世代」

 マヤコフスキイの詩的創造は、『社会の趣味への平手打ち』所収の最初の詩から、最後の詩にいたるまで、単一のものであって分けられない。
(p13)

 単一の象徴体系の二つの面-中世演劇におけるような喜劇的な面と悲劇的な面-なのである。単一の目的志向が象徴を支配している。
(p14)


(2021 07/13)

マヤコフスキイまとめ
革命的無神論よりロシア文学の伝統やフョードロフに親しい。一方、ヤコブソンが1920年代に持ち帰ってきたアインシュタインの相対性理論の話にマヤコフスキイは狂喜し、時間を越えて不死を獲得できるとし、アインシュタインに電報まで打とうとした(このヤコブソン・セレクションのラスト第11章がアインシュタインのテーマなのも呼応させているのか)。抽象的子供(幼児)は議論できても、実際の幼児は苦手で幼児殺害のテーマは自殺のテーマと重なる。

 父親憎悪、「エディプス・コンプレックス」という執拗なモティーフは、ドストエフスキーにおいては、祖先崇拝、伝統尊重などと両立しており、まったくおなじようにマヤコフスキイの精神世界でも、世界のきたるべき改変への抽象的な信心には、今日を継続する具体的な明日の悪循環に対する憎悪、現在のブイトを幾度となく再生産していく「雌鳥たちのけちくさい愛」にたいする消えることのない敵意が、当然のように伴っている。
(p38-39 一部(引用作品名など)略)


(2021 07/14)

第一章、マヤコフスキイ論読了。
19世紀初頭(グリボエドフ、プーシキン、レルモントフ等)と20世紀初頭(マヤコフスキイ始めブローク、エセーニン、フレブニコフ等)、2回のロシア詩高揚期、ただ2回ともほとんどの詩人が夭逝してしまう。

 しかしわれわれの世代には、歌なき建設のつらい偉業があらかじめ定められている。もしまもなく新しい歌がひびきはじめたとしても、それは別の世代の歌であり、別の時間曲線で示されることだろう。
(p61)

 歌い手たちが殺され、歌が博物館のなかに引きずりこまれ、昨日に留めピンで留められると、正真正銘の意味で無産者たる世代はますますすさみ、孤立し、寄る辺なきものとなりつつある。
(p62)


畏友マヤコフスキイの追悼を込めて数日間で一気に書き上げた、と自ら語るこの論考。自身も詩を書くヤコブソンの言葉も、マヤコフスキイのそれと詩的に反響し合う。
(2021 07/15)

「アインシュタインと言語科学」

最後のアインシュタインの章を読む。最初の章でも見たように、ヤコブソンが伝えたアインシュタイン相対性理論をマヤコフスキイは特別視した。時間を超えるものとして。
で、ここで挙げているのは、アインシュタインが意外にも子供の頃言語発達が未熟だったということ。彼にとって、物事とか考えとかは、言葉でするものではなく、直感的に何かが降りてくるというようなものだったらしい。今では、人間の思考は言語によって行われ、そしてそれに縛られているという「言語学的転回」が主流となっているが、それらの反証例となるのか。

 記号は対象に一致するものではないという事実をことさら強調する必要があるのは、なぜなのか。記号と対象の同一性の直接的自覚のほかに、この同一性が不適切であることの直接的自覚も必要だからである。このアンチノミーは不可欠である。なぜなら、矛盾なくして概念の動きもなく、記号の動きもなく、概念と記号との関係は自動化してしまい、出来事は停止し、現実も自覚されなくなるからである。
(p380 訳者あとがき 「詩とは何か」から)


(2021 07/18)

「プーシキンの象徴体系における彫像」


プーシキンの「彫像」が鍵となっている3作品(「石の客」、「青銅の騎士」、「金のにわとりの話」)を軸にプーシキンの体系を論じる(「金のにわとりの話」はリムスキー=コルサコフのオペラの元ネタ?)。

 プーシキンにおいてはすべてが生気を与えられており…すべての対象が、運動、すなわち対象の発生あるいは対象に含まれている潜在的な成長とみなされている。
(p127 ピツィリの研究から)

 このようにして、プーシキンの象徴体系においては、静止、不動性はきわだったコントラストをなすモティーフであり、このモティーフは、余儀なくされた不動性としてあらわれるか-(中略)-想像上の状態、超人間的、さらには超自然的な状態としての自由な静止のかたちであらわれている。
(p128)


プーシキンは常にずっと動いてるような精神構造であるがゆえに、静止が意味を持つ…付け加えると、ロシア正教において「彫像」とは異教の象徴であったという。
ほんとにざっと読みしてしまったので、これくらいなのだが、3作品のうちで一番読んでみたいのは「青銅の騎士」かな。前に「ペテルブルク浮上」で海野氏も言及していた、「罪と罰」のスタヴローギンが夢に見たという、ペテルブルクの洪水が背景にある作品でもあるので。
(2023 09/11)

「言語の二つの面と失語症の二つのタイプ」


選択・類似性・隠喩・共起・詩と、結合・近接性・換喩・連続・連載・散文、この言語機能の「二項図式」。このどちらの機能が冒されたかで、失語症の症状も変わる。

 会話をつづけていくことは容易にできるが、対話の口火を切るのはむずかしい。
 とりわけ困難なのは、モノローグのような閉じた言説を発することであり、あるいはこれを理解することさえむずかしい。
(p152)


これは前者、類似性障害の事例。

 言語には、個人的な所有物のようなものはひとつもない。すべてが社会化しているのである。あらゆる交際形式とおなじく言語交換は、すくなくとも二人の伝達者を必要としている。
(p158)


これは元々「個人言語は存在しない」というヤコブソンの主張の一部だが、その例外というか個人言語しか使えなくなったのが類似性障害の事例なのだという。
続いては近接性障害の事例。

 失文法症と呼ばれているこうした喪失は、文をたんなる「語の堆積」に退化させるのである。語順は混乱する。文法的な一致であれ支配であれ、文法面での等位従属の結び目が解かれる。
(p162)


こうして得られた二つの言語機能について、ヤコブソンは詩・隠喩・類似性についてはロマン派以来研究が進んでいるが、散文・換喩・近接性の面は遅れている、という。この主張は次の「言語学と詩学」にも続いている。

「言語学と詩学」


ヤコブソンの有名な言語の六機能で知られている…という。送り手・受け手・メッセージ・コンテクスト・コード・接触はそれぞれ、酒情的に・能動的・詩的・指示的・メタ言語的・交話的の定位になる。この中で取り上げるのはメッセージそのものである詩的定位。

 詩的機能は、等価性の原理を、選択の軸から結合の軸へ投影する。等価性は連鎖を構成する手法へと高められる。
(p196)

 詩とメタ言語はたがいに正反対なのである。メタ言語では連鎖が等式をつくるために用いられるのにたいして、詩では等式が連鎖をつくるために用いられる。
(p197)

 音と意味の結合が適切になっているのは、近接性への類似性の重ね合わせから生じる当然の結果でしかない。音象徴は、種々の知覚様式のあいだ、ことに視覚体験と聴覚体験とのあいだの知覚できる結合に立脚している、否定しようもなく客観的な関係である。
(p223)


「昼」と「夜」という言葉を、ロシア語では音象徴的結果と現実の単語が一致しているのに対し、フランス語では一致していない。それに気づいたマラルメが「ディヴァガシオン」で作品にした、という。この話はウォーフの「言語・思考・現実」にあるというが…あったっけ?(p224)

 詩においても、いかなる言語的要素も詩的言語の文彩に展開されるのである。
(p234)


ここ章の最後近くで、この章の冒頭の話題に回帰してきた。

 「〈文学〉とは〈言葉〉のあるいくつかの特性の拡張、応用の一種であってそれ以外にはありえない。」
(p235 ポール・ヴァレリーの言葉)


おまけ?

「ニューヘイヴンでのありふれた夕方」

 ユーカリの木は雨雲のなかに神をさがしもとめる
 ニューヘイヴンのユーカリの木教授はニューヘイヴンのなかにかれをさがしもとめる
 天への直感力は対応物をもっていた
 地球やニューヘイヴン、かれの部屋への直感力を

 いちばん古くていちばん新しい日はいちばん新しい孤独
 いちばん古くていちばん新しい夜は…で軋みはしない
(p243)


ウォーレス・スティーヴンス(1879-1955)の詩(原語p233)。こんな詩人初めて知ったけど、好みになりそう。
(補注:今日図書館で見た講談社文学全集の「世界詩集」に載っていた(この詩はなかった)が、本厚くて脆そうなので借りるのはやめておいた。(2023 09/18))
(2023 09/17)

「翻訳の言語的側面について」、「言語学的意味論の問題」、「言語の本質の研究」

昨日夜に5、6章、今朝7章。ここからは短めな論考。
第5章「翻訳の言語的側面について」
最初は「翻訳には支障は全くない」、最後は「翻訳不可能」と言っているようにも思えるが、もちろんそうではない(笑)。最初のは「どんな言葉でも、必要有ればなんらかの形に翻訳してしまう」バイタリティを、最後のは「詩はそのままでは翻訳不可能で、あるのは創造的転移(いってみれば意訳)だけ」ということ。

第6章「言語学的意味論の問題」は、アメリカにいたヤコブソンがソ連で講演したもの。この当時ヤコブソンはソ連に戻ることも検討していた、と解説にあり。中身は、アメリカではちょっと前まで「言語学にとって意味論は禁止」だったのに、最近は意味論が盛んになってきているということ。ここでの話題の一つにブルガリアでの、はい、いいえ、の身振りの反対現象がある。ヤコブソンによれば、どちらが基本的に伝えることかという違いで、その反対は直角に身振りをずらしたものだという。

第7章「言語の本質の研究」
パースとソシュールを比べ、ソシュールの言語の恣意性と線上性を批判したもの。

パースの記号の三類形
1、類像(アイコン)…類似から記号と意味を結びつける
2、指標(インデックス)…指標というより徴候? 煙と火の関係。近接性由来。1と2は昨日見た類似性と近接性に直結。
3、象徴(シンボル)…これがソシュール的恣意性の記号。


この三つは上から過去・現在・未来につながる。

 パースの記号分類のもっとも重要な特徴のひとつは、記号の三つの基本クラスの違いは相対的階層性の違いにすぎないという洞察である…(中略)…これらの三要因のうちのひとつがほかの要因より優位にあるということだけである。
(p288)

「人間言語の基本的特徴」、「ゼロ記号」

第8、9章(実は第9章は一番最初に読んではいるが…)読んで、集中読みでなんとか読み終わり(もちろん、わからないとこだらけではあるが)。

第8章「人間言語の基本的特徴」…これは発達と言語習得にも力を注いだヤコブソンの、凝縮された論考。先の翻訳の論考もそうだが、実際にそのテーマに取り組む前に読むとかなり効果ありそう…
第9章「ゼロ記号」…こうして一通り「ヤコブソン・セレクション」読んできて立ち戻って…どうだろう?わか…らない…ただ1回目よりは、得るものもちょっとあったような…

 ソシュールの基本定式によれば、言語は或るものと無との対立で満足することができる。
(p317)


この「無」がゼロ記号。具体的には格の語尾変化に対する原形とか、主語の省略、(ロシア語では省略できる場合があるらしい)be動詞的なものとか。
(主語の省略とその効果に関しては、ドストエフスキーの「鰐」で効果的に使われているとか)

訳者あとがきから

 記号は対象に一致するものではないという事実をことさら強調する必要があるのは、なぜなのか。記号と対象の同一性[…]の直接的自覚のほかに、この同一性が不適切である[…]ことの直接的自覚も必要だからである。このアンチノミーは不可欠である。なぜなら、矛盾なくして概念の動きもなく、概念と記号との関係は自動化してしまい、出来事は停止し、現実も自覚できなくなるからである
(p380)


ヤコブソンの「詩とは何か」(1933-1934)から。訳者桑野氏は、ヤコブソンの特徴を一番表しているのが「アンチノミー(二律背反)」だとしている。
(2023 09/18)

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