見出し画像

「ペテルブルク浮上 ロシアの都市と文学」 海野弘

新曜社 

ゴーゴリの「鼻」と「外套」の差

都市への人口流入により貧しい人々の地区が誕生、八等官と九等官 

ドストエフスキー 「罪と罰」

ラファエル前派とのつながり(幼い少女趣味) 20世紀都市文学(ベールイ・ピニャークなど)へのつながり         

水のペテルブルク(洪水警報の号砲、青銅の騎士、ソーニャの描写)・・・ベールイ「ペテルブルグ」へ         

ラスコリーニコフの殺人と都市計画の共通点(都市計画は政治・社会の理性化、ラスコリーニコフの殺人は道徳の理性化??) 

「部屋」が人物を形成する・・・環境決定論に関するラズーミヒンとポルフィーリイの相違
「棺のような部屋」というラスコリーニコフの母の言葉
ラスコリーニコフの行き止まりの部屋とマルメラードフの出入り自由の中間の部屋 広場(土俗的ロシア)と屋根裏部屋(学生)という上下の対比 

「白雉」・・・ヨーロッパ(水晶宮)とロシアという東西の対比(「夏象冬記」「地下室の手記」も参照)        

絵画のコレクターのロシアでの誕生(ロゴージン)・・・ホルバインのキリストもここにあり
ドストエフスキーの妻の父もコレクター、ドストエフスキー夫妻のヨーロッパ旅行で上記キリスト始め多くの絵画を見る 
「絵画案内」「絵画の情報」を求める読者のための小説でもある 
(2010 04/13) 

ドストエフスキー「悪霊」

ワルワーラ夫人や知事夫人などの女性達の政治参加、工場労働者のスト・放火事件などが目立つようになる。 


ドストエフスキー「未成年」

都市が分裂し、個人のアイデンティティも分裂(ついでに小説自体も分裂?)。ヴェルシーエフの写真論 

ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」


裁判の改革が行われ、裁判が現実世界で「ブーム」となる。冒頭のゾシマ長老と対称をなす。 

「悪霊」と「カラマーゾフ」は小都市が舞台となっている。ペテルブルクでもモスクワでもない、小都市はそれら大都市の動向を反射する鏡のような存在。都市全てがネットワーク化され単独でいることを許されない社会。 
(2010 04/14) 

チェーホフ

都市のアンダーグラウンドな部分に入り込めないチェーホフ、入り込めるギリャロフスキー。この二人は家も近所で友人であったらしい。「発作」はラスコリーニコフ的な娼婦を更正させる?話だが、ラスコリーニコフのように観念が持続するわけでなく「発作」的に起こっては沈まることへの不満、また娼婦達をヒロイン化するのではなく数量化してしまう、ところがこの時代(1880年代)らしい、そうだ。 

それ以降


「白銀の時代」 
街とその石が私は好きだ 
ごろごろところがり、
歌うようにひびく 
私は歌を内深く秘めているが、 
陶酔のうちにそのハーモニーを聞いている。 
(ヴァレリー・ブリューソフ 1898/08/29の詩)
(p279) 

モスクワは木、ペテルブルクは石、というイメージがロシア人には取り憑いているらしい。


ウラジミール・ギッピウス
最初は作家だったが、後に教育者となり、その生徒の中にはオシップ・マンデリシュタムとウラジミール・ナボコフがいるとう豪華なもの。

ちょうどこの時、感覚と理性の間の裂け目が大きく口をあけた。不調和の悲劇的な恐怖が無意識の深みから意識の表面にまでふきだした。教養化されない懐疑主義が永遠なる価値を維持することも、なしですますこともできない人間の無能力の結果としてあらわれた。 
(アンドレイ・ベールイ 「世界観としてのシンボリズム」(1903))
(p288)


 ディアギレフの「芸術世界」(雑誌)モダニズムの芸術と文学の融合→1905年廃刊 ディアギレフはバレエに、美術はアヴァンギャルドに

ブロツキーの予言

最後に、詩人ヨシフ・ブロツキーの文学に対する信頼を見て、このまとめを終えたいと思う。

・・・ もう一つのペテルブルクがある。それはロシアの詩と散文によってつくられている。それらの散文はくりかえし読まれ、詩は暗唱されている。・・・(中略)・・・このことばがつづく限り、それはソ連の生徒たちをロシア人につくりあげるだろう。
(p304) 
(ヨシフ・ブロツキー 「改名された都市へのガイド」(『一人以下』より)(1986)) 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?