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「言語・思考・現実」 ベンジャミン・リー・ウォーフ

池上嘉彦 訳  講談社学術文庫  講談社

新橋古本祭りで購入。
「言語・思考・現実」ウォーフ
池上嘉彦訳
講談社学術文庫
サピア=ウォーフ仮説でお馴染み?ウォーフの言語相対仮説に関する論文集を、彼の死後に友人であるキャロルが編んだ原著の中から7篇を収録。
(2015 09/28)

解説チラ読みから。ウォーフとチョムスキーという、かなり正反対な立場と思える言語学者は実は同じ源泉をたどれるということ。その源泉とはどうやらフンボルトらしい。・・・フンボルト読んでたよね、確か・・・
(2016 06/12)

第1論文から


アメリカインディアンホーピ族の言語分析。ここでは文法的に時制が存在せず、時間概念を表す言葉も存在しない。でもそれでホーピ族の生活や思考に不便が生じるわけではない、というところ。
ホーピ族には二つの「宇宙形式」がある。かなり乱暴な言葉で表すと「客観的」と「主観的」世界。現れ終わったものと、現れつつあるものないしはこれから現れるもの。現れるという表現だけどホーピ族にとって運動でやってくるものではなく「成る」ものだという。主観的なものは思考・魂という人間精神的なものから、生命現象や雨・風みたいな自然現象の変転までも含む。なんだかややこしいようにも思えるが、日本語的にもまた「進行形」と「完了形」の仕組みを学んだ?身にすれば、恐らく英語もそういう根はあるのかもしれない、と少し思った。
でも始動形というのはよくわからなかった。
(2016 10/10)

第2章から


ちょっと読んでそのままになっていたウォーフの言語論(講談社学術文庫)を昨日持ってきた。サピア=ウォーフの仮説(言語が人間の思考を決めるから、違う言語を話す人は考え方・世界の見方が違うという仮説。まあ現在ではある程度というところに落ち着いている)の人。
で、昨日は第2章。

 これまで彼にとっては眼に見えない、姿のない思想の計り知れない空白としか思えなかったさまさまな力を、正確に焦点さえ合わせれば、たいていその「真の姿」で映し出してくれるところの鏡なのである。
(p41)


言語学は本質的には意味の追求であるという言葉の後の文章。
(2016 10/14)

夏は暑い、のか


ウォーフから第4章。始まりはウォーフの前の仕事である火災保険の調査員の回想になっているこの章は、いわゆるサピア=ウォーフの仮説の内容にかなり接近してきた。そこから、ホーピ族独特の考え方を。

 夏が暑いのではない。夏とは状況が暑い「時」、熱気がやってきる「時」なのである。
(p110)


夏が暑いのではない、暑いから(というか、暑いのが)夏なのだ…ということかな。

 一人だけに働きかけて数人の人全部を変えるわけにはいかないが、同一の人であるならば、現に行なわれている訪問に影響を与えることによって後の訪問を変更させることもできるのである。
(p120)


これは何かというと、一日を人に例えてホーピ族の時間観念を見ていくと、彼らが未来への準備を入念に行うという理由がわかってくる。
(2016 10/17)

空間概念の入り方


「言語・思考・現実」第4章まで。

 われわれは時間を均等な目盛のついた無限の巻尺と考え、それに単調性と規則性という性格を附与する。このことからわれわれはできごとというものが実際以上に単調であると信じ込んでしまうのである。つまり、それはわれわれを機械的に習慣化する効果を持つ。
(p130)


ベルクソンの空間概念の議論を思い出して比べてみたい。出来事の数を数え、前後関係を決めていくには空間座標が必要。アオリストの考え方が回数という次元を作り、ルーティン化していくと感じる。
(2016 10/18)

科学と言語学


今回はいろいろあるが、引用は一つに絞る。

 すべて真の科学者というものは、それ自体では日常生活で大して意味のないような背景的な現象にまず目を向けるものである。
(p151)


その背景でつまり日常では気づかないところで何があるのか、そこに着目するということ。
ここでのテーマは科学ということで、物理学のような全宇宙に共通すると思われるものでも、言語によって切り取られる現実世界の区分けによる限り、全く別の言語から全く別の物理学が現れる可能性があるとしている。現在では言語相対論の細かい検討もされてきているが、自分的にはル・グィン作品読んでいるような印象を得てしまう。
ウォーフという姓は河の名前から来たのかな。桟橋ではないのか…
(2016 10/23)

語と語の結びつきと言語の性格


第6章。

 ショーニー語とヌートカ語のこれらの文で要素が結合する様子は、ちょうど化学でいう化合物のようである。これに対し、英語の仕方はどちらかと言うと、機械的な混合物のようである。
(p171)


前者は語と語との結び付きが新たなイメージを作り出すという傾向が強いということらしい。日本語もその傾向はあるかな。
(2016 10/29)

ウォーフまとめ


ウォーフの「言語・思考・現実」(友人のキャロルがウォーフ没後にまとめた論文集から池上氏がセレクトした7編)を、第7章「言語と精神と現実」とキャロルの解説、池上氏の解説及び講談社学術文庫の後書きと読み終わった(いいのか?)。
ここではまず第7章から。

 語と言葉とは同じものではない。
(p202)
 言葉の本質は、語でなく文にある。
(p212)


ここで言葉とか文とかまたパターンと言っているのは、なんらかの文法生成装置みたいな(固定化はしていない)感じ。こういうところ読むと、ウォーフとチョムスキーはそこまで正反対ではないのかな、とも思う。

 音楽は語彙過程を発達させないで、もっぱらパターン構成にのみ依存する擬似言語なのである。
(p218)


あとは、前の論文にもあった西欧言語に現代科学は大きく制約されているのではないか、という論点(必ず主語を必要とするとか、動詞重視の為物理的世界をおおよそ力と力の作用として考えるとか)や、三人称が二種類ある言語や二種類の過去時制を持つ言語、因果関係の三種類を言い分ける言語などの紹介。その延長で日本語にも触れている(二つの主語)。実は真珠湾攻撃の直前だったこの時期に敢えて書かれたのだろう。
引き続き、解説部分のまとめを書く。

ウォーフまとめ(承前)


ウォーフの特異な点は、ずっと火災保険会社に勤務しながら研究していたところ。仮説のもう一人サピアとの出会いと指導が、ウォーフを独学ゆえのある種の偏りから修正したといえる。でも、火災保険会社の方もかなり目覚まし成果と信頼を作っていたのだから感嘆する。
編者キャロルの解説から。

 ウォーフの関心は過程よりも実質にあった。
(p281)
 思考の内容は思考の過程に影響するとか、あるいは、内容が違えば違った系列の過程が生じ、その結果、内容を考慮しないでは過程についての一般化は不可能であると信じていたようである。
(p282)


この傾向の為、ウォーフは心理学(過程)ではなく、言語学(意味・内容)を研究対象にした。最後の池上氏の解説の「精神」というのも同じ方向性だろう。

池上氏の解説では、サピアやその前のボアズでは言語相対論の萌芽と、文化と言語の独立性という一見相反する立場がみられる。これは後者が従来の文化類型規定説(農耕型だから…云々)に対抗する意味があったから。その次の世代のウォーフは前世代を足掛かりに言語相対論を主張する。また、ヴァイスゲーバー?(原語だから名前の読み方は違うかも…)の中間世界(言語は人間と外界との中間の場)という考え方も面白そうだ。

さて、学術文庫版の後書きでは認知言語学との関連が中心となる。引用2箇所。

 言語の働きは認知の営みと密接に絡み合っており、そのような不可分な関係の仕方を通じて、体系としての言語の在り方、働き方そのものの中にも認知の営みがさまざまな形で入り込んでいる
(p322~323)
 人間の認知の営みが生み出し、そして言語としてコード化される前提となる概念体系は潜在的には高度に共通した形で特徴づけられており、その限りにおいては、言語間の違いは与えられた可能性を実現しているか、いないかということに過ぎない
(p327)


色相を認知するのは人類である程度共通。どこで区切りを入れるかの問題。ウォーフは「個別言語志向的な類型論」に関心を寄せていたのでは、と池上氏。
(2016 11/13)

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