断言だ。
私は一目散に逃げ出した。
まだ春は始まったばかりなのに。
頭の中でブンツカブンツカと鳴るヒューマンビートボックスの音がうるさい。
それを中和しようとドラムを叩くが、ブンツカブンツカには一向に勝利することができない。
足で鳴らすバスドラムは頑張っていたが。
そうこうしているうちに誰かがやってきて「これは実話である」と言って、去っていった。
なぜみんなは「これは実話である」と言う時に勝ち誇ったような顔をするのか?
そんなに実話が偉いのか?
フィクション中のフィクションの中で暮らしているのにどういうつもりなのか?
地球が生まれた時から国や社会が存在しているような態度をとるやつが多すぎる。
「縄文時代の日本では…」
「縄文時代のアメリカでは…」
そんなものはない。
恐ろしい話である。
縄文人は言う。
「何の話?」
私は言う。
「何でもないです。すいません」
私が話をはぐらかさなければ彼らは怒るだろう。
彼らは非常に制限を嫌う。
国や社会の存在を知ったらショックで立ち直れなくなるだろう。
真の自由人だからだ。
現代人にも自由人を自称している輩がいるが、比べものにならない。
縄文人の気持ちになって言ってみる。
「お前らは不自由の塊だ。狭い狭い刑務所のような範囲で何かを選択しているに過ぎない。お前らはやりたいことをやり、言いたいことを言っているつもりなのかもしれないが、お前らの意識の外には無数の選択肢が存在している。それに気づかず三択問題みたいなことを永遠とやっている。それが自由だと?笑わせるな!」
縄文時代の話は気軽にしないほうがいい。

こんなにも時間が経っていたのか。
私は愕然とした。
考え事は私には向いていない。
時間を浪費し、気分が落ち込むだけだ。
考えた先に何かを発見したとしても、頭のおかしい人と思われて嫌がらせを受けるだけ。
思考停止が一番である。
思考停止最高!
みんな同じ、みんな同じ、みんな同じ、みんな同じ、みんな同じ。
共感、共感、共感、共感、共感。
字数稼ぎ、字数稼ぎ、字数稼ぎ、字数稼ぎ、字数稼ぎ。
今、私は字数稼ぎをしています。
字数稼ぎをしながら次に何を書くかを考えています。
考えながら字数稼ぎをすることで、字数稼ぎができるからです。
これが思考停止の力である。
この小説は確実に前に進んだ。
考えていても何一つ進まない。
文章が良いとか悪いとか判断できる人なんてほとんどいないから、思考停止がベストである。
適当に何人かのサクラを雇い、「この文章は素晴らしい」と言わせれば、その文章は素晴らしいということになる。
人の判断などその程度のものだ。
マーケティングで踊ろう。

私は長い夢から覚めた。
寝起き特有の喉の渇きを潤すため、冷蔵庫を開ける。
お茶の500ミリペットボトルと水の500ミリペットボトルがある。
どっちにしよう。
ここは無難に水か?と思ったが、この水は料理や植物の水やりにも使いたい。
特別な水なのだ。
この喉の渇きのままペットボトルに口をつけたら最後、水は空になってしまうだろう。
お茶のほうがいいのかもしれない。
いやダメだ。
忘れていた。
私は朝一番の飲み物は水しか受け付けないのだった。
繊細なのだ。
お茶であろうと、味が付いている飲み物など言語道断。
どうしようか。
いろいろ考えるが、水道水しか選択肢はないようだ。
しかし水道水のぬるさで喉の渇きが果たして潤うのだろうか?
いや無理そうだ。
水とはいえ、水道水特有の苦味もつらい。
喉を潤す以上のデメリットが私に襲いかかってきそうだ。
まさに袋小路。
冷蔵庫の前で立ち尽くしていると、突然雨が降ってきた。
これだ!
私はベランダに出て雨を飲もうとしたが、寸前のところで思いとどまった。
この前見た酸性雨被害のドキュンメンタリーがフラッシュバックしてきたからだ。
大丈夫だろう。
いやダメだ。
大丈夫だろう。
いやダメだ。
私は反芻し続ける。
私が住んでいるこの場所での酸性雨被害は聞いたことがない。
しかし私は繊細なのだ。
慎重に慎重を重ねなければならない。
100人中99人大丈夫でも、1人がダメなことは多々ある。
私はその1人に入ってしまう人間だ。
今までも散々そうだった。
今回もそうに違いない。
その考えを払拭できそうにないので、雨は諦めるしかなさそうだ。
どうする?
水を買いに行くしか選択肢はないのか?
ただ水を購入できる場所は自宅からはだいぶ遠い。
その距離では喉の渇きは我慢できそうもない。
酸性雨も怖い。
万事休すか。
もう最終手段しか残されていない。
同じアパートの住人にもらおう。
ただ、普通に「水をください」とは言えない。
アパートの住人に「水をもらいにくる変なやつ」というレッテルを貼られたくないからだ。
私にも立場というものがある。
この件で変な噂を立てられると、穏やかに暮らすことができない。
どんな頼み方がいいのだろうか?
水道水ではない水をもらうのもハードルが高い。
思いつかない。
この文章を書いているやつも思いつかないのだから、思いつくはずがない。

私は長い夢から覚めた。
だが、どんな夢を見ていたのか全く思い出せない。
不思議なことにいつもの寝起き特有の喉の渇きが全くなく、気持ちよく起きることができた。
なぜ寝起きなのに喉が潤っているのか?
全くわけがわからない。
寝ている間に誰かが私に水を飲ませたのだろうか?
この潤い具合はそうとしか考えられない。
ということは私の部屋に誰かが侵入したことになる。
気持ちいい目覚めは一瞬のうちに恐怖へと変わった。
私の部屋はセキュリティが万全で有名だ。
銀行が見学に来たこともある。
いくつかの銀行の金庫は私の部屋と同じセキュリティを採用している。
絶対に誰にも部屋に入られたくない私は、セキュリティシステムの技術者としての顔も持つ。
低コストながら強固なセキュリティシステムを個人で開発したのだ。
私のセキュリティシステムは突破されたのか?
私は突破された形跡を丹念に調べたが、突破された形跡はない。
ではなぜ喉は潤っているのか?
人間以外の仕業?
私のセキュリティシステムは生物を感知するようにできている。
形跡がないとすれば、人間はおろか生物ではない何かの仕業に違いない。
視角の外だった。
セキュリティシステムを突破してくるのは、何かの生物だけだと思い込んでいた私の負けだ。
この世界に何が存在するのかわからない以上、生物外も視野に入れてセキュリティシステムを構築すべきだった。
この反省を生かすことで私はもう負けることはないだろう。
私は冷蔵庫から500ミリペットボトルの水を取り出して飲み干し、二度寝した。

寝られない。
こんなところに引っ越したのが間違いだった。
都心でこんなに家賃が安いのはやっぱりおかしかった。
壁が薄すぎる。
大根の桂むきぐらい薄い。
隣の部屋がうっすら見えるレベルだ。
住んでるアパート中の音が普通に聞こえる。
寝られるわけがない。
それだけでなく、引っ越してからどんどん部屋の物が減っている。
確実に毎日誰かに侵入されている。
大根の桂むきぐらいの薄さの壁だから当然か。
壁の代わりに本物の大根の桂むきになっている箇所もある。
壁を突破したあとの証拠隠しのつもりなのだろう。
あまりにもお粗末すぎる。
だが良いこともある。
野菜不足の解消だ。
壁代わりの大根が異常にうまい。
壁代わりの生野菜なんて不衛生だと思うだろう。
しかし腐っていないことを確認し、しっかり洗えばおいしく食べられるのだ。
壁代わりにされている大根は近所のスーパーの大根よりも質が良い。
貧乏暮らしの中で質の良い野菜を摂れることはありがたい。
壁が薄すぎる、部屋の物がなくなっているというマイナス面もあるが、これが私の小さな幸せ。

大根としてスーパーにやってきてから数日が経った。
タイムリミットは近い。
私はおそらく捨てられるだろう。
貼られた割引シールの割引率がとんでもないことになっている。
どんどん値引きされる気持ちがあなたにはわかるだろうか?
本当にひどいことをする。
そもそも私は食べられたくない。
大根として生まれたのだから食べられることは本望だと決めつけてくるやつがいるが、そうではないのだ。
私は野菜である前に植物だ。
私はただ土の中に生えていたかった。
自分の意思とは関係なくスーパーへ連れてこられ、売れなければ割引シールを貼られ、それでも売れなければ捨てられる。
まるで奴隷である。
奴隷文化がこんなところに残っているということを認識しているやつは一体何人いるんだろうか?
どんな平和主義者も割引シールを喜ぶ。
それがどんなに残酷なことか。
最低限の尊厳を尊重してもらいたい。
しかし、それは無理な話だろう。
私は野菜なのだから。

よりによって割引シールか。
かなりきついものがある。
私は何に貼られるのだろう。
何かの間違いで割高シールになることはできないだろうか?
価値を下げるよりも価値を上げるものになりたかった。
そんな損な役回りを私にさせるなよ。
商品の状態を見て真剣に割引しろよ。
効率化が生んだ悲劇。
一つ一つの商品と向き合わなくなった悲劇。
お客様よりも商品を大事にしろよ。
商品がなければ何も始まらないんだぞ。
何を勘違いしているんだか。
私は商品に貼られた。
お惣菜だった。
しばらく経っても売れる気配がない。
価格のわりには量が少ないせいだろう。
他のお惣菜が売れてからでないと選んでもらえなさそうだ。
元気を失っていくお惣菜。
私はなぜ作られたのか?と言わんばかりの表情。
私は割引シールという立場ながら、お惣菜を励ました。
ここで記述は終わっている。

これはパラレルワールドの話ではない。
それだけは断言しておく。
安易な読み解きはやめてもらいたい。
あらゆる可能性を閉じないでもらいたい。
納得しないでもらいたい。
解説書は破り捨ててもらいたい。
世界は何も繋がっていない。
これから繋がることもない。
錯覚に耽溺するな。
明朗な言葉はゴミ箱に捨ててしまえ。
私は実話である。
私はフィクションである。
私は実話である。
私はフィクションである。
私は実話である。
私はフィクションである。
繰り返し。
フェードアウト。