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インディゴブルー

地下鉄の車内で、Kは窓の外を眺めている。靴を脱ぎ、子供のようにちょこんとシートの上で膝立ちになっている。

停車駅でダチョウが乗り込んでくる。ぎこちない足取りで、ダチョウは空席を捜す。大型鳥が腰を下ろせるだけの余裕はどこにもない。乗客たちはひどく迷惑がる。ダチョウはぎょろりと車内を見渡して、自身の存在を誇示するように羽をばたつかせる。それから、ひょいと吊革に首を突っ込む。重症のムチウチ患者が、包帯でぐるぐる巻きの首筋を吊るすように。実際、首ではなく、ダチョウの左脚には白い包帯が巻かれている。

車内のあちこちで囁きが洩れだす。みんなに冷視されようが、ダチョウはお構いなしである。すでに酔っているのか、やれ傷害手当が少ないだの、やれ飼育係の対応が悪いだの、言いたい放題でダチョウは唾液を飛ばす。ついには子連れのご婦人を舐めるように見つめて、「ひとつ、お手合わせ願いたいもんだ」。「………………」。相手にされないと分かると、今度は車窓を眺めるKに近寄ってくる、「チッ、また疼きやがる」。

いかにもKの注意を惹こうとして、ダチョウはびっこを引く。そして、包帯が巻かれた左脚を大仰にさするのだ。

「ああ、ズキズキ痛むんだな」とダチョウ。

「そうみたいですね」とK。

「どいつもこいつもバカにしやがってよ!」
「いいえ、別に ……」
「ただのこむらがえりぐらいに思ってんだろ?」
「いいえ、別に ……」
「テメェに俺様の気持ちが分かってたまるか!」
「すいません」
「同情なんか真っ平よ!」
「 ……………… 」
「だ~か~ら~、俺様は痛えのよ」
「すいません、よかったらどうぞ」

靴を履き、中腰になりかけたKにダチョウはさらなる大声で怒鳴る。「誰が席を譲ってくれって頼んだ!」。

「俺様は痛えって言ってるのよ! この左脚がよ!」

「おかけで、空も飛べやしねえ!」

まさにそのとき、車両の扉が開く。5・6人の鉄道公安員が、いっせいになだれこんでくるのだ。「あそこだ!」とダチョウを指差し、バカでかい捕獲網と刺股を手に手に、全員で大型鳥に襲いかかる。ダチョウはドタバタ逃げ惑い、無数の羽根が舞いあがり、しかし衆人環視のもとで呆気なく取り押さえられる。「毎度毎度、手を煩わせやがって」、制服の公安員が忌々しげにこぼす。連行されていくダチョウは、誰にともなく捨て台詞だ、「ジロジロ見てんじゃねえよ」。しばらく、誰も、何も、言わない。地下鉄は何事もなかったかのように、いつもの軌道を走っていく。

Kはふたたび窓の向こうに、暗闇に、視線を戻す。奥行きのない、濃密なブルー。「本当に迷惑でしたわね」と隣の女性が言い、Kの答えを待つまでもなく、「で、さっきから何をご覧になってるのかしら?」。ずっと空を見ています、とKは口に出さずに応える。

仄暗い窓で、無様にダチョウはびっこを引いている。息も切れぎれ、クレッシェンドで助走をする姿が映っている。

誰一人、ダチョウに告げはしないのだ

おまえは最初から飛べない



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