記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

「逆襲のシャア」に対する 長年の違和感がひとつ解消された

「逆襲のシャア」に対する
長年の違和感がひとつ解消された

ここ数年逆シャアを見直しながら、優秀で凡庸な軍人に成り下がったアム□に、ヒロイック全開の正義の人シャーが何故打倒されてしまったか、されなければならなかったのかという事がずっと引っかかっていた。これは友人のひと言により違和感の解消の糸口が見えた気がするので自分なりにまとめてみよう。逆シャアは、
学生運動(とは言えないまでも熱中していたという富野監督)なんかを経験した世代の、一種の諦めの物語、と言えるような気がする。世界に対する正義の敗北(連邦の勝利)。結局人は変化のない平穏無事の世界、ささやかな幸せや郷愁の念には勝てないという正義側・革命側の諦観今現在の社会情勢を見てるからこう感じるんだとも思うけし、あと富野信者のみなさんには今更分かりきったことに、やっと私が思い至っただけなんだけど(笑)

なんというかやはり、いい加減アニメばっか観てるなよ!という富野監督の呆れにも似たメッセージは感じるよね(笑)逆シャアはやっぱ子供には向けられていないように感じる。子供には分かりようがない話かも。ユニコーンガンダムのマリーダが主人公に言う「それでも!と、いい続けろ!」というセリフをずっと俺は気持ち悪く思っていたんだけど、あれは子供に向けられたからこそ意味があるセリフなので、俺なんかがそのセリフ、必要なの?と思うのは当たり前だったのだ(笑)まあユニコーンをdisる気は無いし話がずれた。逆シャアでガンダムは終わったのだが、人気コンテンツになったもんだから蘇生されてしまい、我々も結局とらわれてしまい、同じような物語を無限に見せつけられるというループに辟易としつつ甘受している。富野はことある事にそれを破壊しようというメッセージを発信するが、クライアントは許さないし、我々もまた理解しようとしない。先に言っとかねばならん事とひとつ。逆シャアって俺にとっては、長らくずっと虚ろで、よく分からない存在だった。要所要所のエピソードや人物像の面白さは感じて、見る度に感動もするんだけど、何かこう、漠然と虚無的で、どう感じていいか分からない話だった。いったん巻き戻してゼーターの話になるが、Zガンダムは比較的ストンと腑に落ちる話だった。あれは戦争というよりも当時のリアル・現実の実生活に置き換えることが出来るようになっていて非常にわかりやすいのだ。シロッコなどは意識高い系の元D通インディペンデント系実業家だろうしカミーユはバイトから社員登用が見えてきた期待のバイトリーダー、シャーやブライトなど周りの大人は自分のことで精一杯な無能な上司(とはいえ背負うものはある)。俯瞰すると覇権を争う大企業同士の生存競争過当競争にまんま置き換えることができると感じている。ダブルゼータはまだ見直してないから置いておくとして。(笑)さて、逆シャア。この作品は、言うまでもなく映画としては破綻していると言わざるを得ない部分がたくさんある。予備知識がないと理解出来ないし、語りきれてない事も多い。それでも魅力的な事には間違いないのだが。あとでもあれだ、機動戦士ガンダムⅠ~Ⅲに連なる4作目、として連作映画、とすることも出来ると思うけど。それでもなお語られてない部分は多いよな。僕的にはそれは別にそれまでの安室やシャーの行動を語れ、ということでは無い。それは作家性であり、二次創作でこちらが勝手に想像したら済むことだ。そこに触れはじめるとまた富野じゃ無いガンダムなどプンプン!と香ばしくなるのでやめとく。あとまあ記事な訳でもないから、この辺で思ったことは記しきったかな。「俺の中で」逆シャアはガンダム終焉の物語だった。正義の味方・革命の志士たちが敗北するというお話だった。そして、悪の側に身を置くひと握りのグッドメンたちが、それで、その後の現実をどうするんだい?と、問うてくるお話だった。次世代を担うはずのクエスが死んでしまうのは(ハサウェイが生きているにせよ)なかなかにヤバい展開だとも言えるんじゃないか。希望の欠片たりえるキャラクターが最後に誰も場面に立っていないという最期こんなエンディングを子供の俺に理解しろなんて無理だよ富野!というラスト。さぁどうする?と問うているわけだったんだな。そこら辺は、別の作家だともっと分かりやすくなるんだけど…(駿とか庵野)富野はそうはならないんだよな。なんという天邪鬼か!いつまでもガンダムガンダム言ってんじゃねぇよ!と肝に銘じつつ、Gレコの新作をコッソリと待つ。

またGレコに関しても俺には思うところがあってあえてどうこうは語りたくないのだが、それはまた、別のお話。ちゃんちゃん。

いや待てよ。違和感は解消されたんだけど、なんかこう、一日置いてみて書いたことがしっくり来ないな。再考してみよう(笑)まず・・・違和感があったにせよ、書いたようなことは分かっていたはずだ。問題なのは、やはり経年。俺自身が経年劣化(成長ともいう)したことによる諦観かも。視点が変わったってことが違和感だったのかもしれない。だと思われる。


子供の頃は、視点はヒーローに寄り添っていたはずだ。だが大人になると自分は特別な存在ではないと気付く。地に足がついた一小市民なのだ…、この切なさ(笑)その現実を、この映画は、ラストに主役たちが誰も居ないことで我々に知らしめる。ミライヤシマを無視するオバチャン、あれが俺たちなんだと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?