星空洗濯機

 僕たちは列を為しながら、それぞれに。鼻唄程度の歌声で、リズムと調子を明るく弾ませ、掬い上げた夜を空へと敷き広げていく。頭から夜を被り、絹のような夜を、順番に一人、また一人と空に重ねていく。少しずつ昼間を食みながら、夜は次第に夜然としていく。黒に向かう途中、青は淡くグラデーションを描く。太陽や雲が悪戯して、時折ピンクやオレンジの瞬間が訪れる。そうして作られる夜に、一つだって同じ夜はない。
 
 麻美は後悔していた。毎晩のことだ。夜になると、不完全な自分に嫌気が差す。
 体温と室温と湿度が一致しない。部屋の電気を消して、枕に頭を預けてみても、枕と髪の毛が擦れて位置が定まらない。お腹を冷やしてはいけないからと、薄い掛け布団をかける。掛け布団の中に腕を入れていたいけれど、入れてみれば暑い。気がする。から、腕を出す。素肌と掛け布団が衣擦れしてさわさわする。気を逸らすために横を向いてみたり、腕の位置を変えてみたり。
 ふうちゃんが言った。
 なんでそんなこと言うの。
 体育の授業。プールが嫌で、ふうちゃんと二人、ずる休みをした。麻美は水着を忘れましたと言い、ふうちゃんは生理になっちゃいましたと言った。
 プールサイドは暑いので、熱中症になってしまってはいけないからと、教室で自習することになった。自習もせずに二人でお喋りしていると、ふうちゃんの筆箱の中に、新しいシャープペンを見つけた。細く綺麗なシルエット。お花が一本だけ描かれていて、花びらは明るい原色に彩られている。
 ふうちゃんそのシャープペン買ったの?可愛いね。麻美がそういうと、ふうちゃんは眉根を寄せた。間違えた、と思ったときには遅かった。
 あのときなんて言えば良かったのだろう。なにも言わない方が良かったのだろうか。或いは余計な感想は挟まず、どうしたのそれ、とか?
 結局ふうちゃんはそのあと少しの間口を利いてくれなかった。可愛くないよ、こんなの。小さな声でそう言った。理由は聞けなかった。
 理由を聞いた方が良かったのかな。どうしたのなにかあったの、て。重くなりすぎないような声音で?
 遮光カーテンの下から流れ来る風が二人を撫ぜ上げ、カーテンの下から零れる日溜まりが、麻美とふうちゃんを包む。日差しが二人の陰影を明確に描き分ける。
 何度目かの寝返り。掛け布団を蹴飛ばし、太腿に腕を挟んで丸くなる。シーツに皺が寄ってでこぼこするのが気持ち悪い。眠ろうと意識すればするほど、目を閉じる瞼に力が入って、暗闇が暗闇でなくなっていく。歪んだ緑や青が闇に混じる。
 少しずつ思考が鈍くなってきて、眠くなってきたかな、と思うと同時に尿意を覚えた。でもこんな尿意きっと大したことない。分かってる。漏らすほどでもなければ、どうせトイレに行ってみても、お情け程度にしか出ない。分かってる、けれど結局ざわつく下腹部の違和感に勝てず、トイレへ。
 兄たちが話しでもしているのか、階下から音と光が漏れ聞こえてくる。廊下の床板が少しだけ冷たくて気持ちいい。トイレの電気を点けると眩しかった。
 ふうちゃん、結局一度もあのシャープペン使ってなかったな。なんでそんなこと言うの、そう言われた私は、直ぐにごめんと口にしたあと妙に焦ってしまって、二度とその話題に踏み込むことはしなかった。次の話題をふってくれたのもふうちゃんだ。それだっていけなかったな。私が空気を悪くしたのにな。
 用を済ませ電気を消し、再び布団に潜る。布団を頭から被ると、夜が濃くなった。愛しい闇に、更に目蓋で蓋をする。眠りに誘う歌が聴こえてくる。古いヒットソング。兄が聞いているのだろうか?眠りの前の歌は、いつもよりテンポが早く感じる。
 
 歌を歌っていたのは、君であり僕だ。僕たちだ。その歌こそが僕たちの存在の証だ。君の目蓋が閉じられたのを確認して、僕たちは君の夜に侵入する。抱えきれない思いを盗む。沢山の感情や刺激を受けた君の一日を、夜空の大風呂敷に並べて包んで、僕たちは洗濯する。全てが元の色に戻るように、痕が残らないように。
 翌朝君が目を覚ますそのとき。どうだい?昨日の悩みが君の足を止めることはないかい?
 それなら良かった。それこそが僕たちの役割だから。さあ、今日も元気にいってらっしゃい!
 
 雪彦は告白した。積もり積もった想いと、軽はずみな思いつきと、勢い。
 毎晩初芽を想うことは、もう永らく雪彦にとって寝る前の習慣になっていた。11歳の頃に恋をして、足掛け4年、彼女に恋し続けている。
 小学校6年間同じクラス。中学校でクラスが分かれたときは、神様も仏様もクラス分けをした教師も皆恨んだ。初芽と同じクラスになった友人を心底羨んだ。
 雪彦は中学生になるときに、携帯電話を買ってもらった。特段話すことがあるわけではなかったが、毎日誰かしらと連絡を取り合っている。
 そんな中で時折訪れる、静かな夜。珍しく誰からも連絡がない。グループLINEも動いていない。しん、と無音が夜に降り積もり、却って頭を芯から冷やす。夏の夜風が少しだけカーテンをたなびかせる。
 雪彦が夜空を見上げると、月が高いところから嗤い、見下されているように思えた。癪に障って恨み言の一つでもと思い窓から顔を出してみたけれど、止めた。変わりに月夜に尋ねる。
 「お月様、初芽さんは今も元気ですか。」夜も月も星も雲も木々も風も、誰もなにも応えない。恥ずかしいやら腹立たしいやら。雪彦は少し下を向いたあと、開き直って詩を謳った。オリジナルの詩。
 「夜、君が好きだと想う。朝、君を憎く想う。また夜、君に会いたい。朝、もっと君に会いたい。夜、君を想えば涙が零れて、涙の数を数えながら眠り。朝、君の存在の希薄さに息苦しくなる。僕にはもう、君が生きているのかいないのかすら分からず、ただただ僕の中で君が成長してる。」「おやすみ。おやすみなさい。」
 雪彦は眠るために枕に顔を埋めた。けれど秒針の音が大きくなるばかり。初芽の顔が浮かぶばかりで、眠れないない。
 ほんの思いつきだった。送るつもりなんてなかった。軽い気持ちで、これまでの初芽への想いをLINEにしたためてみた。それだけのはずだった。
 書き終えて満足して、携帯電話を枕元に置く。眠れないなりに寝た振りをしていると、ニュース速報が携帯電話を揺らした。どこかの国の海で、日本の重油タンカーが座礁したらしい。世界に名を誇る、限られた貴重な大自然が汚染されるかもしれない。何故だか動揺した僕は、気が付けば押す予定のなかった初芽さん宛のLINEの送信ボタンを押していた。
 眠れない夜は、更に眠れなくなる。
 送ったLINEは数分のうちに既読になり、返事を待つともなく携帯電話を眺めていれば、期待と不安の渦の中で、身も心も破けそうになる。一瞬と永遠が共存し、心臓が鼓膜を突き破らんと激しく鼓動して、五月蝿い。肥大化する時間の中で、それでも夜は少しずつ朝に向かう。
 視界の隅で、LINEの新着通知を見張る。既読警察。誰に誤魔化す必要もないのに、闇に紛れて身を潜め、幾度となく携帯電話を盗み見る。繰り返し繰り返し、盗み見る。
 体感時間ばかりが長く、なにも記憶に残らない時間が過ぎる中、雪彦がようやく出せた答えといえば、言い訳をすることだった。夜中に変なLINEを送ってしまってごめん、別になにをどうこうしたいとか、特別な返事が欲しいとか、そういう訳じゃないんだ、当たり前の毎日がずっと続くことはないんだと思ったら、どうしてもあなたに僕の想いを伝えておきたくなって。読んでくれてありがとう、これからもよろしく。そんな意味合いの文章を慌てて練り上げて。送信。
 直ぐに既読がつく。恐らく突然の告白メールに戸惑い、画面を開きっぱなしにしていたのだろう。初芽さんも、なにか返信を書いてくれている途中だったのだろうか?
 一方的な告白と言い訳のLINEをしたそのあとも、雪彦の興奮は冷めやらず、眠りの気配は一層遠のいていた。いつの間にか今日が昨日になり。既読が付いたままの画面が動くことはない。静止。
 しばらくすると、雪彦は喉に乾きとも痒みともつかぬものを感じた。喉を濡らして解決する種類のものでないことは分かっていたけれど、それでも手持ち無沙汰な雪彦は台所に行き、冷蔵庫を開けた。光が漏れた瞬間、密閉されていた冷蔵庫に外界の空気が流れ込む。お茶が喉を通過し、胃袋まで到達したことが、冷涼感と共に身体の主たる雪彦に伝えられる。
 やっぱりお茶なんて全然飲みたくなかった、そう思った瞬間。がちゃがちゃり。家の裏口の解錠音がして、酔っぱらった大学生の兄が帰ってきた。兄は雪彦の顔を見るなり、寝れないのか、と赤い顔で言った。うん、そう言うと兄はちょっと待ってろ、と言い自分の部屋から一枚のCDを持ってきた。これ、聞いてみな。俺がちょうどお前くらいの頃に流行った曲だから少し古いけど、やっぱり眠れない夜によく聞いたんだ。まあ聞き方はCDでもサブスクでも任せるけどさ。おやすみ。生活習慣の違いから普段あまり顔を会わせる機会のない兄は、それだけ言うとまた自室に戻っていった。冷蔵庫がブンと鳴る。部屋に戻って、歌詞カードを読み、その中から気に入った曲を、小さな音で鳴らしながら眠りについた。
 
 歌、そう歌は大事だ。君の歌が僕を呼び、僕たちになる。君にとってこの夜はきっと、生涯忘れられない大事な夜になる。こんな夜は僕たちと旅に出よう。夜に還るんだ。夜に返すんだ。洗われた夜は薄くなり、ときに穴が開く。開いた穴はいずれ夜空を照らす星となる。その星こそが、夜を深め、君を強くする。そして夜は重ねられる。
 どんな歌でもいい。メロディーなんてなくても良い。どんな音でもリズムでも、君が、君たちが鳴らす音楽を僕たちは聞き逃さない。
 その歌は夜空の渦となりて旋回し、天体となる。宇宙そのものとなる。僕たちは君たちを含む。そこに流れる歌があって、君が奏でる歌になる。

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