日記チョコレート

 「えー、それではお伺いします、あなたのお名前は?」
 「加納深月です」
 「職業は?」
 「水泳選手、世界選手権で三度優勝してます。」
 
 さて、今日はどれにしようかな。
 私はストレス発散のために食べる食後の日記チョコレートを決めあぐねいて悩んでいた。
 一週間とても疲れたし、とにかく甘い日記が良い。
 あぁ、これなんて良いんじゃないか。私が病気による引退から一転、三度目の世界一に返り咲いたときのものだ。
 口の中でとろける甘い記憶。脳味噌もとろけて、私は幸せだった一日の記憶を貪り味わう。夢の中。
 「凄い!長い闘病生活!一時は選手生命どころか、その命の危険性すら危ぶまれ…、れま…」
 「…ひき…、つか…」雑音が混じる。記憶が大分痛んできたのだろうか。随分繰り返し観ている日記だからな。
 「もう…、……かしら…。」擦り切れたテープのように、脳内の映像が乱れる。一番の見せ場が不鮮明。
 「…、がっ、か…加納選手!ここに!ここに!完全復活です!」沸き上がる歓声、止まない拍手、日本中が歓喜の渦に包まれる。
 栄光の記憶は何度観ても素晴らしい。当時のまま甦る日記チョコレートは、やはり臨場感が違う。
 この興奮冷めやらぬうちに、今一度この分泌液を日記チョコレートとして保存しておこう。
 
 日記チョコレートは、製薬会社と製菓会社が共同会社を設立、国立大学と産学提携して産み出された、記憶を保管しておけるチョコレートだ。その日あったことを振り返る際に分泌される体液を使って作られる。食べるとその日のことを現実な記憶そのままに思い出せる代物。
 幸せな記憶は甘く、辛い記憶は苦い。
 チョコレートは基本的には自家用として保存、食すことのみを許されている。他人の記憶は精神への悪影響や、プライバシー保護の観点から、法律で禁じられている。
 チョコレートの復元は三回まで。分泌された成分の純度が薄くなると、記憶障害や、中毒になる懸念があることがその理由だ。
 一方で、他者の成功や失敗から学ぶ方法としては、どんな自伝や列伝よりも遥かに実感を持って体験、体感が出来ることから、高額な違法転売や、質の悪いコピー商品、贋作が後を絶たない。
 若者の間では安価な他者の記憶の売買が横行し、今ではドラッグと並ぶ取り扱いに注意の必要なものとなっていた。
 特に有名人の日記チョコレートは復元に復元が重ねられており、一度の服用でも強烈な記憶倒錯、中毒性が指摘されている。
 また、他者の記憶を知れることから、盗難事件もあとを絶たなかった。記憶レイプ、リベンジ記憶などという言葉も生まれた。
 
 「…る!…おる!かーおーるー!鵜飼薫!聞こえる?聞こえてますかー?」遠雷のように鳴り響く晴海の声が、意識の奥まで突き刺さり、鋭敏になっている神経を不用意に逆撫でしてくるから、全身まるで針の筵。
 痛みだけが鮮明で、視界も意識も霞の中。天井が揺れ、音量が歪んで、音は波形に大きくなったり小さくなったり。その上エフェクト効果を最大限に発揮、コンプレッサーやらコーラスやらリバーブやら、使える音楽技術は全部使いました、みたいな調子で音が滅茶苦茶に脳内を反響するから、相手が何を言っているのか全然分からない。気分は最悪で、二日酔いの朝に鋭角な落下と繰り返される回転が売りのジェットコースターに乗せられ、激しい異臭を嗅がされた挙げ句タイタニックに押し込まれた気持ち。沈没。吐き気。
 「分かった、分かったから少し静かにしてくれ…。」声を絞り出して晴海の肩に掴まる。水、と言うと、蛇口からコップに注いで渡してくれる。
 「薫、何回も同じ日記読みすぎ、しかも他人の成功譚なんて、違法だし危ない。」二杯目の水をコップに注ぎながら晴海が言う。分かってるよ、煩いなと言い返したかったが、窓から吹いてくる、いや、吹いてるんだか吹いていないんだか分からないような温風すら、逆立った神経に刺さり、脂汗と寒気が止まらない。水を飲んでも飲んでも、ひりついた喉は潤いを求めている。
 徐々に意識が安定してくると、今度は体を濡らす汗が、暑さによるものなのか冷や汗なのか判然としない。べたつく体。
 「気を付けるよ、それより登録者数10万人突破記念配信のアイデア、良いのが思い付いたよ。」俺と晴海は今や人気YouTuberの仲間入りを果たしていた。
 「二人で架空の別れ話をして、何度もやり直せるって企画はどうかな。結局どれも結論は同じ、別れることになるんだけど、その先の未来が少しずつ違うっていう企画。」晴海は俺の話をノートにメモする。ここから二人で投稿動画のための台本を起こしていく。
 晴海をYouTuberとして誘ったのは俺。歩いているだけで耳目を惹く彼女を見付けたのは、大学に入学して間もない頃だった。新入生向け説明会が開かれる大講義室。
 晴海には晴海で、将来アナウンサーになりたいという夢があった。そのためにも学生の時分から芸能活動をしたかったようだが、こんな田舎では出来ることは限られていて。新幹線も通っていないこの街に東京は遠すぎる。斯くして晴海と俺はYouTuberコンビに。コンビ活動は、週に5回の動画アップ。俺が主な企画立案、彼女が主要キャスト。
 俺たちは着実にチャンネル登録者数を増やしていった。ブレイクは朝のニュースに取り上げられたこと。まだまだメディアとしてのテレビは強く、瞬く間に登録者数は5万人を突破、そして今回10万人を突破したのだった。
 晴海と俺は初めからビジネスライクな関係と割り切って仕事に臨んでいた。
 プライベートな関係性が仕事に影響を与えると良くない。というのが表向きの理由。内実は簡単で、お互いに恋人がいて、恋人からの有らぬ誤解を避けるためだった。
 それでもお互い仕事が軌道に乗るにつけ、恋人とは上手くいかなくなっていった。俺が他人の日記チョコレートに手を出したのもその頃。企画のアイデア出しにも役に立つんじゃないか、という言い訳を胸に。
 登録者数10万人記念企画が粗方まとまったところで、晴海が少し2人で飲まない、と切り出してきた。これまで2人で、しかも部屋で飲んだことなど一度もない。
 晴海は檸檬チューハイ、俺は第三のビールで。乾杯。
 「ねえ薫」お酒が進み、それぞれ二杯目になった頃に晴海が口火を切った。なんとなく先の展開が読める。晴海の手が俺に触れた。堀の深い、彫刻のような顔立ちに、水気を十分に含んだ瞳と唇。張りのある大きな胸元。谷間。友達が胸には夢がつまってるとか言ってたな。夢。悪戯に男を誘う程よい肉付きの体は、アナウンサーとしては不適切に思えた。欲情。
 唇と唇が触れ、舌を絡ませる。唾液の交換が糸をひいたまま体を這う。胸に触れ、る、ない。
 映像が乱れる。遠雷が響き、火柱が体を突き刺す。電熱線を走る熱のように、僕の体は内側からの熱に焼かれていく。十分に火で炙った釘が体に打ち付けられていくような痛み。
 「えひゃ!」思わず声が漏れる。叉焼のように全身を縛り上げられ、脳内で蛆が沸く。目、耳、鼻、口から蛆が這い出る。思わず引っ掻いた喉元が避け、そこに融かしている真っ只中の鉄を放り込まれる。急所の上に鉄球が落とされる。蛆は、そのまま丸々と太り、何故か蛹に。そして見事な蝶となり部屋中を舞う。部屋中蝶だらけ、蝶、蝶最高、などといっているうちに彼の虫はあっという間に朽ちていく。塵埃。
 脳味噌を5本の電磁波が通電したのち、焼け切れた目の奥から映像が戻ってくる。俺は晴海の中で果てていた。晴海の体はトイレットペーパーの芯みたいに見えた。精液が出続ける。どくんどくん。自分の心臓の音が聞こえる。
 訳が分からなくて。俺は机の上の別の日記チョコレートを探す。目から涙が止まらなくて、流れ方が尋常じゃないから前が滲んでよく見えない。手探りで適当に机上をまさぐる。机の上のものが床に落ちる。ガタ、バサ、バサバサ。固いもの、重いもの、熱いもの、尖ったもの、紙、缶、ペットボトル。次々と頭の上から落ちてくる。頭や顔や背中や足にぶつかる。ようやくチョコレート状のものを見付け、手に掴んだ分だけ一気に喉に流し込む。と、何やら固い。その固いものを、仕方がないからと、そのまま無理矢理飲み込んだ。ごっくん。どうやらこれはチョコじゃない。喉の奥が切れる感触。そのまま内蔵を傷付けながら、その物体は体内へ。血の味がする。鉄分。
 
 目が覚めると、目の前には医者らしき人物がいた。
 「あなたのお名前は?」
 「加納深月…、じゃない、鵜飼薫…です。」
 「それはあなたの名前じゃない」
 告げられる、記憶にない名前。
 「あなたは二人を殺害し、その証拠隠滅のために使用した毒物をケースごと飲み込んだ」
 「覚えていますか?」
 覚えていない。どうやら僕の犯罪の一部始終は、日記チョコレートを食べて確認するしかないみたいだ。

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