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チとガクの問題(魚豊『チ。―地球の運動について―』3巻までの感想ないしは論難)

 私がこの作品を知ったのは2021年の2月ごろ、朝日新聞の書評を眺めていた時で、その時の驚きと期待と恐れは今でもよく覚えている。日本が誇る漫画という表現で第一の師アリストテレスやアレクサンドリアのプトレマイオスの天才が示され、さらにはその天才の作った天動説が覆される様を見ることができる。コペルニクスやケプラーにとどまらず、ひょっとしたらポルタやカンパネッラといった怪しげな自然魔術師の姿さえ拝めるかもしれないぞ、と。
 しかしながら、この期待は(多少予想はしていたが)1週間もせずに粉々に粉砕されてしまった。ぼんやりと恐れていた通り、教会組織の描写は使い古されたステレオタイプそのもので、物語の構図も『旧弊な天動説支持者VS若々しく知的な地動説支持者』という昔ながらのホイッグ史観そのものだったのである。


 かわいさ余って憎さ百倍、きちんと読み込んでちゃんと批判しなければいつまでもモヤモヤと悲しいままなので、現在発行されている第3巻までと作者のインタビューが載っている「星ナビ」2021年5月号をもとに論難していきたい。

あらすじ

 15世紀ヨーロッパのP王国では、C教公認の天動説こそが天文の真理でありそれを否定する地動説は異端として厳しく取り締まられていた。この過酷な環境のもとにあって地動説を研究していった人々が主人公であり、世間の無理解と異端審問に脅かされながらも真理を求めて奮闘する。具体的な登場人物としては、地動説側に学生ラファウ、代闘士オクジー、修道士バデーニ、天文台の少女ヨレンタがおり、天動説側には天文台の主で宇宙論の権威ピャスト伯がいる。これら二つの極の外側に不気味に付きまとうのが凄腕異端審問官ノヴァクである。
 地動説側は過酷な異端審問によって多くの犠牲を出しながらも、地動説に関する資料の詰まった謎の石箱を守りながら研究を進め協力者を少しずつ増やし、ついには天動説の大家ピャスト伯の観測記録まで手に入れる。と、ここまでが3巻までの内容である。異端審問などは結構グロテスクなので苦手な人は注意したほうがいいだろう。

史実との著しい乖離

 まず引っかかったのは、教科書的な史実との激しい乖離である。物語はその出だしから異端者への拷問で始まるのだが、作中で示されるような秘密警察じみた異端者の身辺調査とか片っ端から焚刑に処すような過激な弾圧は、少なくとも地動説に対してはなかった。地動説論者で裁判沙汰になった人物は、私の知る限りジョルダーノ・ブルーノ、トンマーゾ・カンパネッラ、ガリレオ・ガリレイの3人で、実際に焚刑に処されたのはブルーノだけである(カンパネッラも危うかったが)。しかも、ブルーノとカンパネッラの裁判の焦点は地動説とは言い難い、ブルーノは修道士でありながら輪廻を主張する本物の異端者であったし、カンパネッラは自然魔術師かつ反体制活動家である(南イタリアで革命、それも一種の世界革命を企てていた)。こうしてみるとほぼ1巻に1人以上のペースで地動説論者が殺されているのにはびっくりしてしまうし、時代考証を行うつもりがなさそうにも思える。


 もちろん本作はフィクションなのだから、史実との違いそのものは全然問題ではない。むしろ、面白くなるのなら積極的に史実と乖離させてしまっても良いぐらいである(私のような偏屈な歴史好きは離れてしまうかもしれないが)。ただ、わざわざ実在したP王国(ポーランド)を舞台にし、科学史を物語として描く以上は、史実に合わせるべき点と積極的にずらずべき点があり、それを本作は大きく外しているように思うのである。
 異端審問の苛烈さが史実とかけ離れているのに代表されるが、どうも作者は、C教(もちろんキリスト教のこと)に関連した部分を物語に合わせてかなり改変させているのである。すなわち、作者が描きたいホイッグ史観的な構図のためにキリスト教の教義をネガティブなものに読み替えている。2巻の主人公オクジーの天国にのみ期待する姿勢や、オクジーに語り掛けた地動説論者のC教批判が特にわかりやすいと思う。彼は天国に期待するオクジーに対して、C教の言う天国などないかもしれない、むしろこの地上こそが天国よりも美しいのだと主張し、

一生快適な自己否定に留まるか、全てを捨てて自己肯定に賭けて出るか、どちらを選ぶも自由だ。

と言って、快適な自己否定たるC教の教義への反発を迫る。ここから見えてくるのは、C教の教義はひどく来世志向であり、この世を生きることに対して否定的だろうということである。私はキリスト者ではないし、たいして勉強してもいないので断言はできないが、カトリックの教義はここまで厭世的ではないだろう。この世を穢れたもの偽りのものと考えるのはまるでグノーシス主義である。美しい天国に行くために現世をどう生きるか、どう生きることができるのかといった視点が存在してもよさそうなものだが、そうした描写は今のところ無い。作者はこの読み替えでC教(と天動説)を人生、自然、真理に対してネガティブなものだと印象付けて、それに対して地動説をポジティブなものとして提示したかったのだろうが、キリスト教の名前を借りた点で違和感が大きかった。また、こうした二項対立の構図自体が題材に対してふさわしくないようにも思われる。
 このような史実との違いは、多少なりとも科学史や宗教史に関心がある人にとっては強烈な違和感になることは間違いないし、ストーリーが良くてもそれだけで物語に入り込みずらくなってしまう。また、これから述べるようにさらにいくつかの問題を本作に発生させている。

チ的かもしれないがガク的ではない物語

 本作の主人公たちは、多少性格に難があったとしても「真理」に対しては実に真面目な連中ばかりである。自分の理屈に合わないからとゴッドハンドよろしく観測結果の捏造など絶対にやりそうもない。個人的には偽善的で押しつけがましい感じもするが、まあ「知」的ではある。だが彼らが「学問」的かというとだいぶ話は変わってくる。彼らは作者が行った史実の読み替えによって、学問的であろうとしてもそうなれないのである。


 ある個人の確信が仮に真理であったとしても、それはあくまでも個人的なものであって学問ではない。仮説が定説になるためには、他の誰かからの検証と承認が絶対に必要である。それも仮説の提唱者と張り合えるぐらいの知識なり、知的能力を持つ人物によるものであることが望ましい。科学に限る話ではないが、学者相互の交流が可能であることは学問が成り立つ基本的な条件の一つである。歴史上孤高の天才とされるような学者であっても、たいていは何らかの学術サークルに属していたり、論敵や友人と頻繁に書簡のやり取りをしている。手厳しい批判や他人の示唆や助言がなければ、研究などできるものではない。
 今のところこうした学問的なやりとりは、作中ではあまり多くない。異端審問が激しいおかげで、ほとんど秘密結社的に地動説を研究しなければならないからである。こんな状況では、天動説側からの理屈の通った地動説批判など出てくるはずがない。あるのは理由もよくわからずやたらにむごたらしい異端審問だけである。せっかく科学史を描いているのに、丁々発止の論戦がないというのは残念だし、見どころを大きく損なっていないだろうか。余談だが、「真理」がひどく多用されるのに対して「定説」は驚くほど出て来ない。
 さらに言えば、主人公たちの言動も「チ」と「ガク」をうまく接続できていないためふらついて見える。彼らは地動説の証明を大目標としているが、どういう状態のことを言っているのだろうか。単に真理を目指すだけなら、異端だとばれないように引きこもって一人きりで研究し、納得できればそれで解決である。仮に裁判沙汰になったとしても愚かな異端審問官を憐れみながらシラを切りとおせばよい。にもかかわらず、 ラファウもバデーニも『共産党宣言』に示された共産主義者よろしく堂々と自説を掲げて見せる。確かにかっこいいが彼らの言う「真理」が個人的なものなのか、そうではない人類共通のものなのか分からなくなって、読者としてはなんとなくモヤモヤする。

少なすぎる学説の紹介

 史実との乖離とは別の不満もいろいろある。一番の問題は学説としての地動説と天動説の説明がひどく少なく感じられることである。ごくわずかな説明にもかかわらず「チ」の物語だと称賛されるあたり、世の中の人は私なんぞとは比べ物にならんほど天文に精通しているのかもしれない。
 いやらしい皮肉は置いておくとして、本作は地動説が天動説を乗り越えていく、それも知性によって乗り越えていくのが主題である。であるならば、論敵たる天動説には敵役としての魅力がなければならない。RPGのラスボスの魔王が弱かったら拍子抜けである。ハードルは十分高くなければならない。いちおう気を配っているのか天動説に(プトレマイオスモデル)などとちょっとかっこいいルビがふられているは、評価できよう。
 しかし、このプトレマイオスモデルの説明、描写は貧弱である。比較的まとまっているのは1巻で、ラファウはアリストテレス流の引力の説明をしたり、異端者フベルトとの対話の際に天動説に基づいた星系の作図を披露している。ちょっと引用しておこう。

宇宙の中心は勿論、地球です。
根拠はいくつかありますが、
アリストテレス曰く「重い物体は”下”に落ちる」
地上で物が常に落下するのは地球が宇宙で最も低い地点”中心”にあるからです。
はい、地球が中心で全ての天体はその周りを複雑に廻っています。
(略)
この宇宙像ではそれぞれの惑星が個別に計算される。共通の”秩序”を持たないバラバラで混沌とした動きは・・・合理的に見えない。

 しかしながら、フベルトとラファウにとっては天動説の理論は当たり前のもので今更解説などしない。すぐに天動説が美しいかどうかに話は移ってしまう。また、家に帰ったラファウは地動説に基づいた軌道計算を試みるがここもある意味天動説の紹介なのかもしれない(私にはさっぱりわからなかったので擬音のブツブツ以上のものではありませんでしたが)。
 このあたりのくだりで、思わなかっただろうか「ラファウが言うように天動説は複雑かもしれないが、それはそれで奇麗じゃないか」と。具体的な軌道計算のイメージができない私には、天動説の軌道は万華鏡の模様のようでなかなか奇麗にも思えたのだが。


 説明不足のもう一つの例は「周転円」である。この言葉は1巻から登場してその後もしばしば口にされるのだが、驚くべきことに何の注もないし解説もされていない。 かなり感の良い人は、2巻の火星の逆行の話から周転円が逆行の説明のためのものと気づけたかもしれないが、正直難しいと思う。周転円は一般的な知識ではないのだから、多少なりとも説明すべきだろう。そのほかにも、天動説用語として天球、エカント、エーテル、不動の動者、円運動あたりの説明があってしかるべきと思うのだが、どうもまだまだ小出しに描写されるようである。


 こうした説明不足の結果として使用される語が「ブツブツ」とか「誤差」である。バデーニは3巻の冒頭で石箱の中身を論じて、「地球軌道がかなり複雑」「使用している記録が作為的」といった難点を挙げるのだが、そこの擬音がブツブツである。バデーニは一緒にいるオクジーに理解させるつもりがないし、作者も読者に理解させるつもりがないということををよく表す擬音語であろう。「誤差」はピャスト伯やピャスト伯の師が口にする言葉だが、それがどんな誤差でどう問題なのかは読者には明かされない。あるいはヨレンタが盗み聞ぎしたピャスト伯の研究会「古代ギリシア天文学の現代異教的解釈」なども具体的な内容には踏み込まれない(そもそもこの題は意味不明な感じがする、現代異教とはいったい何のことなのか、リトアニアの多神教?)。
 万事こんな具合なので、読者は火星の逆行や満ちた金星といった地動説が正しそうなことが分かりやすい事例と、主人公たちの真理に対する態度や強い言葉から「やっぱり地動説の方が正しいんだな」と思うほかない。ピャスト伯の50年をかわいそうだとは思っても、彼の理論は示されていないからそれでおしまいである。ここには、地動説が超えるべき壁としての天動説は存在しないし、決然と地動説論者に反駁する天動説論者もいない。せっかく登場したピャスト伯は彼の博覧強記を発揮する前に満ちた金星でノックアウトされてしまうし、挙句の果てには本当に死んでしまうのである。
 これらに研究の面白さを見いだせるものだろうか。

終わりに

 上記のように、史実との乖離から始めて本作の問題点を論難してきたが(気になる点はまだまだあるが)、こうした難点が総体として投げかける問題はさらに重大である。
 それは、作品の最重要テーマである「知性と真理に対して忠実であることの尊さ、探求の崇高さ」が白けてしまうことである。なるほど、ラファウ、バデーニ、ヨレンタは言わずもがなオクジーやそのほかの異端者にしろ、真理のためには死をもいとわぬ崇高な精神の持ち主である。しかし、ひるがえって作品をメタ的に見るとどうだろうか、キリスト教にしろ、天動説の歴史にしろ、地動説の発展にしろ物語の構図のためにひどくこねくり回されている。真理を大切にしろと言いながら、史実にたいしてはひどく不誠実な描写を重ねるというのは矛盾した態度だと言わざる得ない。
 繰り返し真理や美や知性といった強い言葉で主人公たちは自らの意思を表現し、自らが真理を求めているのだと宣言する。一方で、彼らが覆したい天動説の理論はまともに紹介されない。天動説と地動説はそれぞれどんな説でどちらが正しいのだろうか、と読者が知性を働かせて考える余地はほとんど無い。かなり悪意のある言い方とは思うが、考える余地を与えず強い言葉で押し切るあたりは怪しげな自己啓発セミナー的ですらある。


 この明らかに難しい題材にチャレンジしたことは勇敢だと思うし、3巻で天動説もまた真理を求めた学説だったということが示されたのも、ホイッグ史観からのとらえなおしとして評価したい。しかし、もうここまで来た以上、作品全体の軌道修正は難しいのではないかと言うのが率直な感想である。
 最後に一点悲しかったのは、「星ナビ」のインタビューや著者のツイッターにおいて「ホイッグ史観」に陥ることのないようにしたいと語っていたことである。さながらヨレンタに対するコルベのごとくという具合であった。


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