エゴからの脱皮Ⅳ
今日も(というか毎日)頭かかえながら鏡の前でこのエゴとれないかなぁ?どうやつてとれるんだろ?などとまるでニキビやシミをとるかのように考え続けております。自分の中でエゴポロリと名づけたミッションのようなものです。
魂は目的地があって生まれてきたと申しますが、もしかしてエゴポロリのためにわざわざ生まれてきたのではなかろうかとさえ思うほどにひたすら考え続けている次第です。道の途中ですが。
さて、今日もそんなことを考えていましたところまた、ふと気づくことがありましたので記事を書いてみたくなりました。
今日は『原罪』についてです。
アダムの原罪
なんで急に原罪について調べようと思い立ったのか理由は忘れましたが、ハイヤーセルフは時々こんなふうにヒントをくれるというので、たぶんそういうことなんでしょう。とにかくエゴとりたくてとりたくて仕方ない私の願いが届いたのかも知れません。
以前興味をもって何度か読んだことがあったのですがもう一度、『創世記』のエデンの園のエピソードを調べてみました。そもそも前から気になっていたものの「原罪」ってなによ。なんでリンゴを食ったら「罪」なのよ?知恵の実って何なのよ?ずっと理解できていませんでした。
それも、昨夜サクッと理解できました。そう、知恵の実の正体はじつは悪魔の実。悪魔の実シリーズのたぶんひとつ目なのでしょう。そしてその能力はエゴを身につけること。知恵の実とはエゴエゴの実だったんです。
はああ…エゴの実かよ。そりゃ罪深いわ、アダムとイブ。
そもそもアダムとはヘブライ語で『人類』という意味だそうです。
そして日本語で訳された『原罪』の本来の意味は「的はずれな状態」ということらしいのです。
そしてアダムが食べた『知恵の実』とは『善悪を判断する知恵の実』なんです。つまりジャッジメント。
昔はそれの何が悪いの、と思っていましたが、このジャッジメントこそエゴを増幅させる機能なんですね。
善と悪、正と誤、白と黒、優と劣、上と下…。あらゆる価値基準のもととなり苦しみの根源でもあるのがジャッジメント。
良いか悪いかを勝手に判断すること、決めつけること。それってエゴそのものですよね。
知恵の実を食うまえのふたりは、エゴがなかった。純真で無垢で赤ちゃんのような状態。神はふたりをそれはそれは可愛がっておりました。
ふたりは神様の作った美しい箱庭、エデンの園に住んでいました。
その楽園は時の感覚もなく平和で安心で安全なのどかであらゆる生物が共存する美しい場所。
そもそも神はこの美しい楽園を守りたくて、楽園の管理人として自分に似せたアダムを設置しました。そしてアダムの肋骨からイブを作りました(なんで肋骨かはおいといて)神はアダムにこう言いつけました。
「この楽園の木の実はなんでも好きなものを食べてよい。でも、ひとつだけ食べてはならない木がある。その実を食べたら不幸になるからね。決して食べてはいけないよ」
ふたりは純真無垢な存在。神の言いつけを素直に守り楽園で幸せに暮らしていました。
そこに狡猾なヘビがやってきて、イブをそそのかします。「その実を食べても不幸になんかならないよ。美味しいからちょっと試しに食べてごらんよ」
ヘビの正体はあとで明らかになるとして、なんでアダムじゃなくてイブのほうをそそのかしたかというと、アダムは神から直接指示を受けていたのだけどイブはアダムからの伝令にすぎず、その神の言葉の重みまでは感じとってなかったかららしいんです。べつにイブのほうに邪心があったからではないそうです。
まあ、とにかくそんなこんなで二人とも『善悪の知恵の実』を食っちまったわけです。
そして有名なエピソードにつながります。ふたりとも「あれ?自分まっぱじゃん、やだ恥ずかしー」と葉っぱで前を隠したりしたもんだから、
神に「あれ?何それ、その葉っぱ。あっ、さては知恵の実食っただろう、お前ら!」とバレてしまい、神に対して疑いを持ったことで反逆行為とみなされ楽園を追放されました。神からしてみりゃ裏切り行為です。
知恵の実を食べると、自分でジャッジメントできるよう能力を手にいれることができるけど、副作用というかオプションというか、こんなのも↓もれなくついてきてしまうんです。
「永遠の命ではなく 期限つきの命」「神との親交断絶」「子孫にまで罪が及ぶ」 です。
まあ罰というか副作用的なものです。
神さまもさぞかしお嘆きになったことでしょう。だって、信頼して可愛がっていた自分の分身が言うことを聞かなかったのですから、そりゃガーン!ってなりますよ。
※ちなみにこの手の失敗は神さまはよくやるそうなんですが、洪水で洗い清めてまた改めて創造しなおすという、まさにトライ&エラーの精神ですね。
そういうわけで、私たちはアダムとイブの子孫。エゴを持ったまま生まれてきた訳なんですね。
これ、あとでまとめますが擬人化部分を現代用語に直すとよりわかりやすくなります。
原罪まえの原罪
アダムとイブに知恵の実をすすめたのは、狡猾なヘビとされています。
では、どうして神の創った平和な楽園にネガティブ因子ともいえるヘビが紛れ込むことができたのでしょう?
それはヘビ=サタン=ルシファー=堕天使だからと言われています。
ルシファーは大天使ミカエルの兄。元天使団の天使長だったすご腕?天使だそうです。
ルシファーは天使時代には『明けの明星』『光をもたらす者』という別名を持ち、神の腹心、お抱えの大天使だったそうです。
しかもすっごいすっごいイケメンだったそうですよ(@_@) もうこの時点で女子の心ズキュンです。
すご腕闇持ちイケメンてセフィロスか。こういう有能かつ訳ありのちょーイケメンキャラの原型は、もしかしたらルシファが集合的無意識に刻み込まれているのかも知れませんね。
話し脱線してますね。イケメン絡むとついつい習性でね(ーー;)
そのルシファーには双子の弟がいました。それが大天使ミカエル。
ミカエルは「神の如き者」の意味があり「ほぼ神と同意である」とされる存在です。
もともと神はこのちょーイケメン双子大天使ルシファとミカエルのうち、ルシファをお気に入りとして天使長に任命していました。
ところが、ルシファはその神に謀反をおこすんです。
「俺は美しい、神のごとき手腕もある。ではいまの神を倒し、そして俺が神になる!」
はい、べつに中二病の原型までも背負ってるわけじゃ有りませんが、そういう野望を持ってしまったらしいんです。
それからは天使たちの大戦争。
神になりたいルシファと神を守るミカエルの神の座めぐる壮絶な戦い。
悲しいかな、弟ミカエルと兄ルシファの兄弟の絆を絶ってまでの天界と天使界を巻き込む壮大な兄弟喧嘩。
もともと二人でひとつだった美しき神の腹心たちはいまや完全に分離の状態です。
神側を正義とするならば反逆側は悪という図式になりますよね。
正義と悪の戦い。戦いにおける永遠のテーマ。
どちらも自分が正しいと主張する埒のあかない「正当化」をめぐる勝負。
勝った方が正しいとなる間違ったジャッジメント。
この神座をかけた戦いが始まった時点でもう分離は起こっているんです。
ルシファは大天使団の元天使長の経歴から「悪」を意識していたとは到底思えません。
自分自身も「正義」だと思っていたのではないでしょうか?
ルシファが神になった際のマニフェストがどんなもんだったのかまではわかりませんが、物質にとらわれていない天界での欲が芽生えたとなると「俺ならいまよりもっと良くできる」と思ったからではないでしょうか?
思うにそれは地上の者たちに自由に判断できる能力、期限のある肉体で地上生活を臨場感いっぱいに経験して楽しめる魂たちの世界を創りたかったのではなかったのだろうか(そもそもは)
つまり神の意志で動くのではなく、苦しみが伴っても自分の自由意志で動けたら人類の魂のレベルはより向上するんじゃないかと?
もしかしたら実験したかったのかも知れませんね。
ルシファはすでにジャッジメントをしていたわけです。アダム以前の原罪。
そして、エデンの園に侵入してアダムとイブに知恵の実を食べるようにそそのかした。
「神の創った仮想現実を何も考えず永遠に生きるよりも、有限の命となってでも、たとえ少しくらい苦しくても、もっと自分の意志で自分らしく生きたほうが有意義だと思わないか?」
※あくまで仮説です。
ルシファがそう言ったかどうかはわかりませんが、純粋にワクワクしていたんじゃないかと思います。
人類に肩入れしていたというか、しすぎて夢中になってしまったというか。
遺伝子の中の原罪
でも神はトライ&エラーのお方。
それやるとどうなるかはもう知っていたのでしょうね。人類に自己ジャッジメント機能を与えると、楽園がどんなことになるのか。
これも私の推論ですが、宇宙法則上、創造物のなかに一度出来上がった概念(エゴ)はなかなか消せないのではないでしょうか。
よく魔法や呪術のアニメなんかでもありますよね、かけた術をとく方法がなくて発動させないように封印するか発動させてかわすか、あるいは発動させて自爆させるか…。
神のトライ&エラーに話を戻しますが、これまでも何度かコレがもとでエゴを持つ種族が勝手に繁殖し発展し自己の欲のために地球が破壊されてきたとします。
見かねた神はそのたびに洗い流して創り直したとします。でも、エゴはどうしても消えないシミのように一点だけこびりついている。
もうもはや遺伝子のように組み込まれてしまったようです。
そもそもアダムの原罪になった「知恵の実のなる木」をエデンの園に植えなきゃよかったじゃんとも思いますが、一度創った機能はとれない仕組みで使用禁止にするしかなかったのか、あるいはわざと置いて人類への神への信頼のお試しとしたのかさまざまな意見があるようです。
アダムの子孫がどうなったかというと、それが今の私たちです。
知恵の実を食べるまえまでは、アダムたちと神は一体でした。
宗教絵画ではわかりやすく人の姿をしていますが実体は人の姿ではなく空気ののうにいつでも身体にまとっていた壮大なエネルギーとして、いつでもそこにいました。
母親の羊水のなかに浮かんでいるようなものです。
絶対の安心感。対象物があるというより場所のような空気のようなものってことでしょうかね。
アダムが知恵の実を食べて以降、神は遠ざかったと言います。エデンの園も追放されました。
神を宇宙であり創造主、エデンの園を絶対の安心感、知恵の実をエゴと考えると現代の心理学や宇宙哲学に当てはまりやすいです。
そして天使は言葉だったり映像だったりで宇宙のインスピレーションを伝えるメッセンジャー的な役割といったところでしょうか。
エネルギーの一種ですね。
人類はエゴを持つことで、宇宙との一体感から分離され、絶対の安心感(無条件の愛?)から離れてしまった。
孤独を感じ肉体の維持にやっきになり(お金)有限であることを怖れる(死)
って「怖れ」ばっかじゃないの、「愛」は?
「ちっ」っと思わず舌打ちしたくなりますが、でも結局のところ宇宙の中にいる私たちは宇宙との一体感はなくて感じとることが難しくても、もともと一体ということですよね。
素粒子レベルで繋がってるし。
肉体という有限の枠の中にエゴという形で閉じ込めた無限の意識があるわけです。
エゴは何層にも重なってますから玉ねぎの皮をむいていくと、最後には芯のようなもの、それもとるとそこには無限大の「空」があるわけで、それが意識の本体であり魂であると思うんです。
それを見えなくするくらい、エゴはどんどん膨らみます。
毎日毎日、玉ねぎの皮が増えてくようなもんです。
ややこしいんだけど、エゴ消すエゴなんかもでてきて、脳内てんやわんやなんです。
エゴ消すエゴとは「そんなエゴイストなこと考えてる自分NG」ってエゴがエゴをジャッジメントしてる状態です。スーパーエゴとも言うらしいです。
そんなエゴの皮にとりまかれて元々の原罪的エゴはどんどん強固になっていって、もう遺伝子レベルなわけなんです。
潜在的というか。潜伏してるというか。だから原点のシミはなかなか消せない。アダムがリンゴ食うまえからそれはそこにあったわけで、アダムや人類を通してエゴは爆発的に増大していったんです。もう無垢な魂では抱えきれないくらいに(@_@)
だからちょいちょい剥がして、魂を軽くしてあげないといけないんですね。
それが瞑想であること、ジャッジメントした自分に気づくこと、ホ・オポノポノや天国言葉で心をクリーニングすることなんだと思います。
エゴポロリ、というより剥がれるというイメージですかね。ほんとポロンととれてしまえばスッキリするのに。
まとめ
聖書では『原罪』とし、お釈迦様は『苦』という、それらはつまり『エゴ』でありジャッジメント機能のことだと思うんです。
もともと備わっている機能で、宇宙にはもともとそれがあった。
そしてそれはとれない。有限の命(肉体保持のための生存本能)と紐づいているからなんですね。
だからふだんはスリープ状態にしてあったものを、
そのスイッチをオンにしてしまったのが、創世記の中ではアダムとされているようですね。
本当は創世記のアダムの原罪より、バベルの塔のエピソードが気になっていて調べていたんですが、それについてはまた今度。
最後までお読みいただきありがとうございました。
それではまた!
心の平穏目指して!
おわり
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