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生粋のオタクが「推し、燃ゆ」を読んだ話。

※この文章は、2021年1月に別のプラットフォームに書いたものの再掲&一部加筆したものです。そのため所々「最近」とかの指すものがすでに古いので、ご了承ください。


「推しが燃えた、ファンを殴ったらしい。」から始まる話題の小説。

生粋のオタクがこの小説を読んで考えたことを、今更ですがなんとなくまとめてみようと思います。
自分の思考整理のために書いてるみたいなとこがあるので、途中で何言ってるかよくわからない文章になっていたらごめんなさい。

店頭で平積みになっているのを見て、タイトルと表紙に惹かれて買ったのが昨年(注:ここで指す昨年=2020年)11月頃。そこから積ん読してしまっていたのを、芥川賞候補になっているのを見て急いで読みました。笑(そこからさらにこの文章を書くまでに2ヶ月放置しました…笑)

一気に読み進められるストーリーの面白さを感じると同時に、彼女の気持ちが時にわかってしまう自分にちょっと怖くなったりしました。ある意味オタクにとっては耳が痛い部分もある小説だなと思いました。

まず、この本はタイトルからわかる通りアイドルに「推し」を持つオタクの女の子の話ですが、ある意味これはフックで、根本的にはそこからもっと広いテーマが描かれているように思います。

「生きづらさ」を抱えた主人公は、推しを応援することに「生きる意味」を得て、なんとか日々を乗り越えている。
彼女にとっての推しは「背骨」と形容されているように、その存在によって自分をなんとか立たせて生きている。

彼女にとって推しは、
「アイデンティティ」であり、
「生きる意味」であり、
まさに「自分を自分たらしめる全て」なのだ。

それが彼のスキャンダルから始まる色々なことで揺らいだ時、彼女の人生もまた、歯車が乱れていく。
彼がいなくなったら、自分には何が残るのか。


 この本を読んで前々から思っていたことを一つ思い出しました。

それは、

『「オタク」であることは、容易にアイデンティティを獲得できる方法なのかもしれない。』

 ということ。

私はよく友人と「オタクは大なり小なりみんなメンヘラ」と言っていますが、
自分にとって誇れるもの、私はこれだ、と表せるものがない人にとって、
「オタク」でいることは、応援する、好きでいるというその行為によって、
自分の存在意義を定義づけられるようなところがあるのだと思います。
(きっと、私も例に漏れずそういう部分はあると思います。)


ある意味、私はこの思考は「愛国主義」や「ナショナリズム」と、構造的には同じだと思っています。

自分がそこまで苦しむことなく、他のものの力を使って「アイデンティティ」の確立をすることができる。

愛国主義は、「ただその場所(その民族)に生まれた」ということだけで。

オタクは、「その人に愛を注いでいる」ということだけで。

アイデンティティを獲得することができるのだ。


私は主人公に100%共感するわけではなかったので大丈夫でしたが、これ、もしかしたら人によっては辛くなってしまう可能性があるよなと思いました。

オタクでいることが「アイデンティティ」である人にとって、その本質を覗くことは、痛みを伴うと思うからです。

別に私は「推しを背骨にすること」を全否定するのも違うと思っています。
どうしようもなく前に進む力がないとき、「誰か」の存在によって、かろうじて崩れずにいられることがあることは、他でもない私がとてもよく知っている。


ただし。

「推しがアイデンティティ化した」オタクにとって、「推し」はしばしば、「世界一愛しくて、世界一憎いもの」になってしまう。

あなたは私の一部なのに、私の理想と違うこと言わないでよ。
そんな態度取らないでよ。
そんな曲歌わないでよ。
そんな女と、つきあわないでよ。

そうならないように心がけてはいるけれど、もしかしたら私自身もそうなっている時があるかもしれない。
だから自戒の念を込めて書く。

背骨にすること自体が悪ではないけど、「彼(彼女)」は「彼(彼女)」であなたの一部じゃない。意思を持った人間である。
自分の人生を生きる権利がある「個人」であって、あなたのアイデンティティ確立のために存在するものではないことは忘れてはいけないと思います。


色々あるけど、日々の彩りをもらって時には推しに頼りながら生きても良い。
でも、それだけを全てにするんじゃなくて、あくまでも自分の人生を生きていかなくちゃね。


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