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螺旋の映像祭の為の往復書簡.6

これは写真家/美術家の本藤太郎と音楽家の宮田涼介が、2020.10/10に逗子市で行われる「螺旋の映像祭」に提出する作品を制作する為に行っている公開往復書簡です。

※前回はこちら


恐怖という感情と自己防衛本能

本藤さん

この往復書簡もいよいよ佳境に入ってきました。
書き始めた当初は、どこに行き着くものかと思っていましたが、何だかんだで僕も今までの自分を俯瞰してみたりと、意義のある時間を過ごせているように思います。

前回の本藤さんの返信にあった、人間が持つ「恐怖」という感情、想像力という力について、僕なりに思うところを書き進めてみたいと思います。

得体の知れない、自分とは相容れない事象に対して抱く負の感情は、突き詰めると恐怖なのでしょうね。
相容れないものに触れることで、自分が今まで貫いてきた自我が揺らぐことに恐怖し、反射的に拒絶反応が起こる。

これは、人間が本来持っている「自己防衛本能」なのかもしれません。

そうして、自分にとって最も迎合し得る円環に入ることで安堵する。
本藤さんは「魔女」を例を挙げてくれましたが、こうした行為は遥か昔から行われていたようですね。
人間が古くから持っている本能と解釈すれば、自然の摂理のようにも思えます。

しかし、世論は常に気紛れですから、社会情勢の変化やメディアの発信の仕方次第で、本藤さんの言うように今まで相容れなかったものが、急に命綱となることもありましょう。その逆も然りです。
人は昔から、情報という舞台の上で常に躍らされる生き物だったのでしょう。
「多様な価値観」だとか、「多様性」という言葉を最近頻りに耳にしますが、「自分とは合わない価値観が、これからの未来を生き抜くヒントになるかもしれない」ということに、皆が徐々に気づき始めたのかもしれません。

とはいえ、異なる価値観がぶつかり合うその様は大概にして熾烈なものですし、多数派が居てこそ初めて少数派という概念が成り立つのも事実です。
結局のところ、個々が持っている「人間らしい」部分がそれぞれ異なるから衝突が起きるし、多数派少数派という数の論理が成立し得るのです。

元々この往復書簡では、「人は分かり合えない」という考えからスタートしていますが、こうして書き進めれば分かり合えない方が寧ろ自然と言えます。

人間には想像力がありますから、多様な人間らしさが交錯する中で、自分がどの辺りに居るのか、そして社会がどこへ向かおうとしているのか俯瞰するのは意義のあることです。
作品作りをする人間であれば、作者自身の思う「自分の立ち位置」や、「社会の向かう姿」を想像し、作品に投影することだって出来るはずです。


その上で、次の問題…

芸術とは何か、創造とは何か?

作品作りをする人間にとって、最も哲学的な問いでしょう。

世間一般に言われる芸術とは、「表現者と鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする行為」だそうです(引用: Wikipedia「芸術」)

しかし、創作者本人にとっての「芸術とは?」「作品づくりとは?」という問いであればどうなるか…。きっと100人居たら100通りの回答があるかと思います。各々の答えに優劣をつけ得るものでもないでしょう。


僕にとっての「作品づくり」…

それは、自分の中の最も”恥ずかしい”部分と向き合う行為です。
恥ずかしい部分というのは、僕の最も「人間らしい」部分です。

何故この結論に至ったか、少年時代を振り返りつつ紐解いてみたいと思います(長くなってしまったらすみません)。


そもそも、創造に目覚めたのは小学校一年の時でした。
ある日、祖父が勉強の為にと、僕に大学ノートを5冊買ってくれたのです。そのノートに、自分が頭の中で漠然と思い描いていた空想ごとをひたすら綴っていました。起承転結は度外視でプロットを組み立てるわけでもなく、頭の中にあるものを即興的に書き進めていく。これが創作の原始体験です。
そのノートは現存せず、そこに何を書いていたのか、詳しく思い出せないくらい大量の文章を書いていたのは確かです。

結局、そのノート5冊では足りなくなってしまい、100ページもある分厚い大学ノートを買ってもらったり、家にあった裏紙、旅行先のホテルにあったメモ用紙など、そこに紙があればとにかく書き留めておく。これを小6まで続けていました。

ただ、当時の自分には「自分の創作物を他人には絶対に見せない、見られてはいけない」という確固たる主義がありました。
これらの文章は、飽くまでも自分の一番「人間らしい」部分を文字媒体に吐き出す為の行為に過ぎず、アウトプットした作品は読み返すわけでもなく、自分の中に留めておくだけで良かったのです。
誰からも見られないところでひっそり、且つ粛々に。
自分にとって作品づくりとは、一種の「いけない遊び」でした。それを自分以外の他人に見せびらかすといった”恥ずべき”ことは出来ない、と。

だから、小学校の「図工」は大っ嫌いでした(笑)。いつも、作るのが遅くて居残りさせられていまし、図工の成績はお世辞にも良いとは言えませんでした(余談ですが人前で歌うのも苦手だったので、音楽の成績もあまり良くありませんでした)。
何しろ、自分の人間らしい部分は「見られてはならない」と言う考えでしたから、それを同級生に意気揚々と曝け出したり、教室の後ろに掲げられるなど言語道断でした。
とはいえ、想像力を封じ込めると産み出せる物が何も無いので、必然的に作品づくりが一向に進まなくなってしまう。
居残りしても作品づくりが進まず、周囲は叱責するのですが、「誰も分かってくれない、分かり合えない」と子供ながらに思ったものでした。

少年時代からこんな調子でしたから、創作表現=恥ずかしい行為という感覚が今にしても染み付いています。

しかし、こうなると新たな疑問も湧いてきます。
恥ずかしい行為だったはずなのに、何故わざわざCD流通までして作品を発表したのか。
これまで、有難いことに日本国内以外ならフランス、ドイツ、スウェーデンのレコードレーベルで作品を出させて頂きましたが、その「恥ずかしい」はずの物を、国内はおろか海を越えてまでして発表してしまったのです。
自分の作品を記事にされたり、インタビューに応対するなど当時の自分には考えられなかったはずです。

色々思い返しましたが、「成長したから」の一言ではおよそ片付けられるものではありません。

経済円環の一員となり、自分を見失わない為の「自己防衛本能」が働いたのでしょう。
1stを発売したのが2013年、あの頃は社会人になって間もない時期でしたから、社会自体が「得体の知れないもの」であり、そこに参入したことで自分の「人間らしい」部分が揺らぐことに恐怖を覚えた。
だから、自分の人間らしさを可視化・可聴化することで、自分が人間であることを、まだ見ぬ誰かに作品(≒手紙)として残すしかなくなったのです。
ストレス社会と謳われて久しい昨今、どんな仕事をしていても経済の一端を担う以上は必ずストレスがつきまといます。
それに押し潰されることの無いように、自分の本質的な部分を、この世界のどこかで剥き出しにしておく。そして、CDまたはデータとして、顔も名前も知らない誰かが触れられるように残しておく。大勢でなくても良いから、誰か一人にでも。誰にも言えなかった心の奥底に触れてくれる人がこの地球上のどこかに居ると思えば、自分自身を見失うことはない。だから作品作りが急務だったのです。

作品、またはライブなどで心の奥をひけらかすという行為に対して、恥じらいが全くないわけではありません。「お前のアルバム聴いた」とか報告してくれなくて良いんです、固まってしまうので(笑)。しかし、恥ずかしいから、と躊躇う場合ではなくなりました。言語を必要としないインストゥルメンタル音楽なので、この世界の誰か一人にでも、自分がずっと温めていた核に触れていて欲しかった。

本藤さんの言う、「まだ見ぬ誰かへの手紙」。
全くその通りだと思います。

僕は、子供の頃のビデオを時々見返すことがあり、昔のこともよく覚えている方なのですが、これを書いたことでその理由が分かった気がします。
今振り返るに小学校低学年頃は、上記の自意識が形成され始める状態で、小4~5にもなると自意識が形成されて間もないからそれをコントロール出来ておらず、自己陶酔を起こしている状態。自分がある意味最も人間らしかった時期です。
自分の表情を見ていると、どこか虚空を見つめているかのような、遠い目をしている時があり、「今酔ってるな」と客観的に判ってしまったりもするものです。何しろ自分ですから…。

これと向き合うのは、作り手としての本能を叩き起こす行為なのだと思います。

少年特有の危うさ、脆さのようなものを保持したまま大人になってしまったのでしょうか。
まあ、これくらい酔ってないと作品づくりなんて出来ないですからね…ということにしておきます(笑)

お返事お待ちしております。

宮田涼介 / Ryosuke Miyata

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本藤太郎/Taro Motofuji a.k.a Yes.I feel sad.

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逗子生まれ。日本大学藝術学部写真学科卒。カメラマンとして撮影現場を奔走する傍ら2016年より美術活動を開始。写真作品を中心に舞台やインスタレーション、楽曲や映像等を制作し国内外のアートフェアや地域アート等で発表している。 ZAFには2013年の「逗子メディアアートフェスティバル」の頃から雑用として関わっており、2017年には作家として参加。大体眠くて死にそう。きっと死因は眠気。減酒中。
https://www.yesifeelsad.com/
https://www.instagram.com/taromotofuji/?hl=ja

宮田涼介

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神奈川在住の音楽家。ピアノ楽曲や電子音響作品を中心に、国内外でアルバムを発売。また、カフェやWebコンテンツでのBGM制作、シンガーへの楽曲提供・編曲を行う。
http://ryosuke-miyata.com/
https://www.facebook.com/ryosuke.miyata.music/


2020年10月10日(土)「螺旋の映像祭」開催!
逗子文化プラザ さざなみホールにて
https://note.com/zushi_art_film/n/n502ed347ee86

逗子アートフェスティバル公式ウェブサイト
https://zushi-art.com/

▼これまでの逗子アートフィルムの活動
逗子アートフィルム 沖啓介 現代美術オンライン特別講義
第1回「ウェットウェア、ドライウェア」
8月22日(土) 20:30~22:00
https://artfilm-oki1.peatix.com

第2回「アートが神経を持ったら」
8月29日(土) 20:00~21:30
https://artfilm-oki2.peatix.com

第3回「月は最古のテレビ」
9月5日(土)20:30~22:00
https://artfilm-oki3.peatix.com



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