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螺旋の映像祭の為の往復書簡.5

これは写真家/美術家の本藤太郎と音楽家の宮田涼介が、2020.10/10に逗子市で行われる「螺旋の映像祭」に提出する作品を制作する為に行っている公開往復書簡です。

※前回はこちら

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想像力と恐怖について-虚飾で彩られたカラスより-


宮田 さま

私事で恐縮ですが〈書く〉という事に右折並の苦手意識を抱いているので、どうしても筆が遅くなってしまいます。
それは写真を撮っている時も同じで、1文字毎に、1カット毎に、その指の先に今迄散々書いたり撮ったりして来た人達の歴史の重みを感じて、恥ずかしくなって、動悸すら感じるのです。ただ臆病なだけですね。しかし、それでもそれ(指先)を押し込まなければ前に進む事は出来ません。

書き始めようと思います。

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さて、我々は〈中立〉の議論から〈信じる事〉や〈円環〉について、そして〈かろうじてアリ〉というキーワードにまで辿り着きました。

「アントミル」というアリ達の習性により引き起こされる集団的なバグの様子を、昨今のソーシャルメディア内で散見される〈正しさ-correctness-〉による集団ヒステリーになぞらえ、その死の円環の外側に存在している孤独なアリ達に希望とシンパシーを抱いたのでした。

そして宮田さんは

“ここ日本においては、多数派への追従を美徳とする風潮が根強く残っています。そして少数派は、多数派即ち「数の力」によって自然淘汰されていく。これは、もはや現実社会のみならずネット社会でも蔓延っています。
このコロナ禍で、「自粛円環」「経済優先円環」など、種々の円環が形成されているでしょう。
僕は、いずれの円環に参入する熱量を失っているわけですから、どちらにも属さない「円環外」の人間であることは明白です。”

“この、円環に入らないことこそが僕の信ずる道のようです。
周囲からすれば「かろうじて人間」のように思われるのでしょうが、それは飽くまでも周囲がそう思っているのに過ぎないのであって、「かろうじて人間」だろうと人間は人間です。”

とまとめました。


少し脱線しますが、最近「魔女」についての本を読みました。「魔女」とはつまり西洋におけるキリスト教以前の土着の信仰や技術を持っている人々の事でした。彼女(あるいは彼)らは森に住み、薬草の知識など(民間療法みたいなものでしょうかね)を駆使して人々の怪我や病気を癒したり、産婆の様な役割を担っていたりしていたらしいです。

しかし、そんな存在は神を〈信じる〉事によって人々を統治したかった教会からしたら目の上のタンコブだった様です。(エクストリーム要約)

そこで、いざ飢饉や疫病などの社会不安が起きると真っ先に〈呪いだ〉〈魔術だ〉〈悪魔と契約してるんだ〉だなんだと疑いをかけられて、魔女達は断罪されました。凄惨な拷問を伴って。

要するに、コミュニティのスケープゴートにされていたのです。

都合の良い時に利用するだけ利用して、有事の際には敵意を向けられてしまうマイノリティというのは、古今東西問わず、人間の集団が存在する限り、無くなる事は無いんだなと思いました。そして更に興味深い事に、〈聖女〉と呼ばれる神秘的な力を持った女性たちも同時期に存在し、彼女らは讃え崇められていたらしいです。

人は本当に身勝手ですね。似た様な事象は現在もそこかしこで見受けられます。

何故でしょうか。


結局のところ人は見慣れていないもの、得体の知れないものに本能的に恐怖を感じるんだと思います。そしてそれを良きものであろうが悪しきものであろうが、〈違う場所〉へと躍起になって遠ざけて、安堵していたい生き物なんだと思います。
そして多かれ少なかれ、自分や自分が大切にしている存在が〈違う場所〉へ置かれてしまう事にも恐れ、慄き、あの円環の中を歩き続ける事を選択するんだと思います。

それはもう〈動物的〉本能としか言い表せませんし、個としての生存戦略としては概ね正しいとは思います。

しかし、種としての未来を見据えた時はどうでしょう。

我々生き物は今までの長い歴史の中で、様々な脅威が訪れる度に〈違う場所〉へ置かれていた存在たちが、きっと命綱の様な役割を果たしたんだと思います。私はそう信じたい。

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我々は常に恐怖と共にかろうじて生きています。

ですが、人間はそんな恐怖を克服する為に〈想像力-imagination-〉を得て、それを使って、ここまで何とか生き延びて来たのだと思います。

例えば動物にとって恐ろしいものと言えば「火」ですよね。しかし我々は〈想像力-imagination-〉によって、それに近づくと暖かい事や、それに食べ物を近づけると何だか美味しくなる事に気が付きました。更にはそれで影を作って洞窟の中で遊んだり、夜空に打ち上げたり、一瞬にして多くの生命を奪う事さえ可能になりました。ごめんねプロメテウス。

きっとお肉をこんがり焼いてみたヤツも、影絵を思いついたヤツも、クソみたいな爆弾を閃いたヤツも、恐らく〈違う場所〉にいた存在なのだと想像します。歴史に句読点を打ってきた存在は、我々の言葉で言う〈かろうじてアリ〉たちなのだと思います。

とはいえ、円環の存在無くして周縁も存在し得ません。


かねてから二人で話してきた〈人間らしさ〉という問題ですが、結局〈円環〉を作り、歩くのも、その周縁でとぼとぼ歩くのも、共に〈人間らしさ〉であり〈生き物らしさ〉だよなとこれを書きながら、今更ながら思いました。(今更過ぎる)

そういえばアリやハチの集団は2割がサボっているらしいですね。そしてその集団を更に分割すると、またその中の2割がサボりだすらしいです笑

もしかしたら生命というシステムそのものが中心と周縁の緊張と弛緩で前進するものなのかもしれませんね。

その運動が例え尺取り虫の様な緩慢さでも、確実に。

だから、〈想像力-imagination-〉を持つ我々人類は、せめて、自分が今どの辺りに立ち、何処へ向かって歩いているのかを常に考える事が大切だと思います。それこそが〈人間らしさ〉なのかもしれません。

モノスゴクフツーな話に着地してしまいましたが...

それ故に宮田さんの

“この、円環に入らないことこそが僕の信ずる道のようです。”

というしっかりとした立場の表明には感銘を受けました。
きっと芯のあるしなやかな人なんですね。

私なんかはいつだって常に立場があやふやで、多くの誰かの言葉を拾って集めては虚飾で彩られたカラスを気取っています。

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さて、さっきまでよく晴れていたのに急に外が土砂降りになりました。秋虫たちの絶叫から葉を打つ雨粒の轟音に切り替わった瞬間、なんだか音楽の楽章が変わったかの様な心持ちになりました。

『白楽天』という能の曲がありますが、その中で、日本ではあらゆるものたちが〈うたう〉のだ、というシーンがあります。私はこの逸話を何かで読んで成る程確かにな、と思いました。

脇能物。神物。作者不明。シテは住吉明神の神霊。唐の白楽天(ワキ)が,日本の知力を試せという勅命を受けて渡来し,筑紫の海上で小舟に乗って釣りをする老人(前ジテ)に出会う。楽天は,老人が自分の名も渡来の目的も知っているのにまず驚く。楽天が目の前の景色を詩に作って見せると,老人がそれを即座に和歌に翻訳したので,ますます驚く。そこで老人は,日本では鶯や蛙まで歌を詠むのだと教える(〈クセ〉)。この漁翁は実は住吉明神の仮の姿で,やがて気高い老体の神姿(後ジテ)を現し,荘厳な舞を見せ(〈真ノ序ノ舞〉),多くの日本の神々とともに神風を起こして,楽天を唐土に吹き戻す(〈中ノリ地〉)。
                                                出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版


歌や音楽というものは極めてプリミティブで本質的な表現行為だと思います。思えば私も雨についての曲を書いた事がありました。


宮田さんがいう様に

“僕がこれまでアンビエントにこだわってきた理由は至極単純なもので、自分の感情を昇華するのに最も相応しい音楽だからです。”


というのにも頷けます。

私は最近、芸術界隈はそんな素朴さをもうちょっと素直に受け止めるべきと考えています。もっと言えば〈切実さ〉でしょうか。(勿論いつだって優れた表現にはすべからく切実さが存在していますが)

多分私も宮田さんも気がついたら〈作っていた〉性質の人間だと思います。そして成長するにつれて、その何となく作ってしまう、という事や成果物に段々と名前があるんだな、という事に気がついてきた筈です。そうして多くの制度や産業としての表現という事に触れて来たかと思います。

で、気がついたら私はポピュラー音楽から写真、美術に。宮田さんはアンビエントに行き着いたんですよね。


じゃあ、ここで、大問題


芸術ってなんなんでしょうね



私はやっぱりそれは〈信じること〉なんだと思うし、〈人間らしさ〉なんだと思います。

そして未だ見ぬ誰かへの〈手紙〉なんだと思います。手紙の中で手紙の話をするのもなんだかおかしな話ですが...

それはまず、遠い過去からの〈私は人間だったよ。君もそうだろ?〉という手紙。例えば私にとってのルオーやベーコンの絵画、マーラーの交響曲、田村隆一の詩、中平卓馬の写真などです。私はこの手紙を(勝手に)しっかりと受け取りました。

そして遠い未来への〈私は人間だったよ。君もそうだろ?〉という手紙。言い換えるなら来るべき鑑賞者への手紙ですかね。100万人に届かなくても良いから誰か1人でも、深く確かに届いて、受け取ってもらう為に我々は芸術を〈信じて〉つくり続けているのだと思います。

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この往復書簡もいよいよ大詰めという感じがしてきました。
宮田さんにとっての〈つくること〉そして「芸術」とはどの様なことなのでしょうか。
私からの最後の抽象的な問いです。

もう一踏ん張りですね。頑張りましょう。               雨は止み、夜が明けてきました。カラス達が騒いでいます。

2020.9.11

自宅にて

本藤太郎


※次回はこちら


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本藤太郎/Taro Motofuji a.k.a Yes.I feel sad.

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逗子生まれ。日本大学藝術学部写真学科卒。カメラマンとして撮影現場を奔走する傍ら2016年より美術活動を開始。写真作品を中心に舞台やインスタレーション、楽曲や映像等を制作し国内外のアートフェアや地域アート等で発表している。 ZAFには2013年の「逗子メディアアートフェスティバル」の頃から雑用として関わっており、2017年には作家として参加。大体眠くて死にそう。きっと死因は眠気。減酒中。
https://www.yesifeelsad.com/
https://www.instagram.com/taromotofuji/?hl=ja

宮田涼介

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神奈川在住の音楽家。ピアノ楽曲や電子音響作品を中心に、国内外でアルバムを発売。また、カフェやWebコンテンツでのBGM制作、シンガーへの楽曲提供・編曲を行う。
http://ryosuke-miyata.com/
https://www.facebook.com/ryosuke.miyata.music/


2020年10月10日(土)「螺旋の映像祭」開催!
逗子文化プラザ さざなみホールにて
https://note.com/zushi_art_film/n/n502ed347ee86

逗子アートフェスティバル公式ウェブサイト
https://zushi-art.com/

▼これまでの逗子アートフィルムの活動
逗子アートフィルム 沖啓介 現代美術オンライン特別講義
第1回「ウェットウェア、ドライウェア」
8月22日(土) 20:30~22:00
https://artfilm-oki1.peatix.com

第2回「アートが神経を持ったら」
8月29日(土) 20:00~21:30
https://artfilm-oki2.peatix.com

第3回「月は最古のテレビ」
9月5日(土)20:30~22:00
https://artfilm-oki3.peatix.com



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