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自分で自分を「異常」扱いするのをやめようと思った話

前にこういう記事も書いたとおり、私は一般的に女性にとって「普通」の人生ルートとされる、恋愛・結婚・出産!末永くお幸せに〜〜〜(まあ実際末永くお幸せではない夫婦も世の中に相当数存在するが)というルートを歩くことに違和感がある人間である。
皆さんもご存知のとおり、こういう女性に対する風当たりはかなり厳しい。「今は大丈夫だと思ってるかもしれないけど年取ってからやっぱり子供ほしかったとか思っても遅いよ」「選り好みしてる場合じゃないでしょ」「もう20代終わるんだから焦らなきゃ」「年取ったらもう終わりだよ」みたいなことをアドバイスする人間というのがまあ、世の中にはそこそこ存在する。
で、まあ詳しくは前にこういう記事も書いてるけど、いかんせんこちら側の人間は、人生における幸せの説明性(そもそも幸せって誰かに説明する必要あんの?)が低い。一生懸命説明したところで相手が最悪だと「えっwさびし〜笑」と一笑に付されて終わることがある(だからそもそも幸せって誰かに説明する必要あんの?)。

私は「アセクシャル」「アロマンティック」という語と出会ったことによって、よかった、私って異常じゃないんだ、と胸をなでおろした人間の一人である。だが、「昔から恋愛感情なんて何のことだか全くわからなくてそんなものがあるなんてびっくりしました」みたいな根っからのAroAceでもなく、まあAroAceはスペクトラム的なものなのだけれども、私がそんなことを言うのはただの都合の良い言い訳なんじゃないの?と思うことがあった。

アセクシャルに限らず、生物学上の生物が女性であるにもかかわらず、自分が「男性」から「女性」として「可愛がられる」ことに違和感のある人間は、自分は何か異常なのではないかと思わされがちである。そして、そのことをなんとかしたいと誰かに相談するとしばしば、「あなたは心に傷を抱えているのではないですか」「その傷のせいで、女性として見られることが許せないのではないですか」「幼少期に親の顔色を伺っていたのではないですか」みたいなことを問われることがある。

そういうケースも存在することは否定はしない。否定はしないが、当人が「自分は傷を抱えている」「その傷について、辛くても向き合ってどうにかしたい」と明確に思っている場合でない限り、その問いを投げかけるのはちょっと暴力的なんじゃないかと私は思ってしまう。

そりゃ傷があるのなら、治さないよりは治したほうがいいのかもしれない。でも、「あなたは何らかの理由で傷を抱えている」「傷は異常だ」「治したほうがいい。傷と向き合うのはつらいから目を背けたいかもしれないけど、必要なことなんですよ」などと、当人以外の人間がアドバイスすることで何かが好転することはあまりないと私は感じる。自分が納得いかないことを、人がそう言ってるからそうしなきゃ、私は「正常」になれないんだ…と思いながら嫌々やるのはつらい。そもそも、当人が必要性を感じれば、周りがテコで動かそうとしなくても意外とふとした拍子でスッと動けるものだ。

私は長らく、私を説明してくれる何か、または私の不調な部分を治療してくれる何かに出会えば、私は「正常」になれるのかもしれないと思っていた。でもそういうものに頼ろうとすると、無限に自分のことを疑わねばならなくなって、自分の感覚なんてしょせん気のせいなのかも、とどんどん自信がなくなっていった。

私は私を「異常」扱いするのをやめよう、と思った。それは傍から見れば「自分の傷から目を背けて逃げている」っていうことなのか? でも生きる上で「逃げる」コマンドは意外と大事だったりもしますよね。

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