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「女だけど彼女がいます」と教え子たちにカミングアウトした話

  学生の時、とある教育ボランティアをしていた。そこでは小中学生に勉強を教えながら、大学生という立場でいろいろな、ありがた〜いお話をしていた。

「壮年男性への偏見」を持っていた私

  私は自分のセクシュアリティを隠してボランティアをしていた。並行して塾講師としてアルバイトしていたこともあり、子どもたちにはセクシュアリティのことは話せないなあ、きっと親とか他の先生とかがうるさいからなあ、と、半ば、諦めていた。

  本当は、バイトしてた塾でも、性の多様性とか、そういう話をしたかった。でも、できなかった。「今日、塾で先生がこんな話してたよ」と、子どもが親に報告したとする。そのときに、「うちの子を同性愛者にするつもりなのか」、「そういう人もいるかもしれないけど、教えるにはまだ早い。知らなくていい」、「性的な話を先生がするなんて!」、……考えられる反応は、いくらでもあった。それを考えると、できなかった。

  でも、教育ボランティアの方のえらい人は、自分の赤裸々な人生の話とか、「いろいろな人がいる」ということを、子どもたちに繰り返し語っていた。ここでなら、できるかもしれない。そう思わせてくれたことに、感謝している。

  「カミングアウトは積極的にするべきだ」とまでは思わない。でも、「カミングアウトできることがすることで、『LGBTってほんとにいるんだ、しかもこんな身近に』と思ってもらえる可能性がある」と信じている。これは5年前くらいの話なので、なおさら。

  2020年の今は、もしかしたら、ことさらにカミングアウトをしなくても、「いや、そりゃそういう人もいるでしょ」と思ってもらえることが増えているのかもしれない。それはそれで、たぶん、いいことだ。

  当時の私は、おそるおそる、えらい人にLINEした。「自分はこういう人間です。そして、子どもたちの前で、『こういう人もいるんだよ』ということを、最後の授業の日に、話させてもらえないか」と。

  えらい人は、快諾だった。「うちの教育ボランティアはただ勉強を教えるためだけの場所じゃない。大学生や、プロボノの大人と接することで、いろいろな人がいるということを、子どもたちには実感として学んでほしい。ぜひ、話してほしい」と。

  私はそれまで、大人のことが怖かった。年上になればなるほど、LGBTなんて受け入れてもらえない、と。特にその人は体育会系出身で、子どもがいる男性だったので、なおさら。「男性の方が、カミングアウトに対して否定的な反応を取ることが多い」と、ジェンダー論では耳タコだったし、実感としてもなんとなくそんな気がしていた。

  でも、それもまた私の「偏見」だった。

  何歳だから。男性だから。子どもがいるから。LGBTに対して否定的なんだろうな、って。そんなの、人によってほんとにそれぞれなのに。

  そして私は、学生の終わりが近づいていたころ、最後の授業で、十数人の小中学生に語りかけた。

女だけど、彼女がいます

  以下、その時に、子どもたちに語った話。

  ※彼女の名前は仮名です

   こんにちは。さかもと先生です。先生はこの3月で大学を卒業して、4月から社会人としてお仕事を始めます。だから、こうやって先生としてみんなと一緒にお勉強をするのはきっと今日が最後だと思います。なので、最後だからこそできるお話をします。「自分とは全然違う人たちと仲良くやっていくこと」、そして「頭がいい」ということについて。

 突然ですが、みなさんには「好きな人」って、いますか?(間をあける)うん、好きな人がいる人!なんて、手を挙げさせたりはしません(笑)。だって、そういうことを言うのって恥ずかしいかもしれないし、言いたくないかもしれないもんね。

 みんなは「好きな人」っていうと、どんな人を想像しますか?たとえば、友達のなかで「好きな人いる~?」とか、「あいつ、お前のこと好きなんだってよ!」とか、「○○ちゃんってだれだれのこと好きなんだって!内緒だよ!」とか。そういう話をしたことがあるかもしれません。そういうときに連想する「好きな人」って、どういう「好き」だろう。

 たぶん、
  女の子だったら好きな男の子、
  男の子だったら好きな女の子、
つまり、異性の、「恋愛」的に、「好きな人」のことを連想すると思います。不思議ですね?「好き」にはいろんな好きがあると思います。たとえば友達とか、家族とか。いろんなものが入ると思うのに、「好きな人」っていうと、「恋愛」の意味になることが多いんですね。

 「自分とは全然違う人たちと仲良くやっていくこと」の話をするって言ってたのに、なんで恋愛とかの話になってんの?と、不思議に思っている人もいるかもしれません。時間も時間ですし、種明かしをします。

 私、さかもと先生には、おつきあいしている人がいます。
 でも、その人は「彼氏」じゃなくて「彼女」です。

 相手は同い年の、普通の女の子です。アヤちゃん、といいます。写真もあります。私もアヤちゃんも、「男の子になりたい」とかは思ったことがありません。二人とも、ほんとにただの女子です。

 なんでわざわざこんな話をしたかというと。別にみんなをビックリさせたかったわけでも、アピールしたいわけでもありません。ただ、こういう人もいるんだよ、ということを伝えたかったんです。

 よく言われます。「男の人嫌いなの?」とか、「まだいい男の人に出会ってないだけで、女の子が好きだなんていつか治るよ」って。でも、私がはじめて女の子を好きになったのは中学2年、今のことほと同じくらいのころです。もうそれが10年以上続いちゃっているので、たぶんもう変わらないと思います。たぶんみんなが、女の子が男の子のことを、男の子が女の子のことを好きになるのと同じように、私は、女だけど、女の人のことが好きです。きっと「彼氏」もつくらず、結婚もせず、子どももつくらず。女の子と一緒に生きていくことになるのでしょう。

 ところで、自分と同じ性別の人を好きになる人って、学校にどれくらいいると思う?……クラスに1人から2人、と言われています。もしかしたら、みんなのクラスにもいるかもしれません。私の友達のゲイの子たちは、はじめて男の子を好きになったのは小学生、中学生のときのことだといっていました。

 でも、だからといって、例えばムリヤリ秘密をあばいて「あいつホモなんだってよ!」って広めたり、からかったりはしないでほしいです。だって、みんなだって、自分が友達とかおうちの人に秘密にしてることを勝手に広められたりしたらいやでしょう?それと同じです。

 ただ、ぶっちゃけ「男が男を好きになるなんて、女が女を好きになるなんてキモイ」と思っちゃうのもしかたないと思います。だって、大人のなかにもそういうことを言う人はたくさんいるし、誰も教えてくれないから。残念なことどけど。だから、「キモイ」って思わないで、とは、私からは言えません。

 ただしみんなにわかってほしいのは、これから先みんなはたぶん、ほんとに自分とは全然違う考え方とか特徴を持っている人と出会うし、そういう人たちとうまくやっていかないといけないだろう、ということです。

 世の中にはほんとにいろんな人がいます。目が見えない人、耳がきこえない人、言葉がうまくしゃべれない人、日本語以外の言葉をしゃべる人。ひろき先生が前に英語の話をしてくれたときに言っていたように、これからは外国の人と関わったりすることも増えると思います。自分が「あたりまえ」だと思っていたことが「あたりまえ」じゃない、そんなこともたくさんあると思います。たとえば、

 ・みんなは「こっちに来て!」っていうとき、手でこっちこっちって、やると思います。でも、これはアメリカでは「あっちいけ!」のサインです。まったく逆なんですね。アメリカで「こっち来て」っていうときは、手を上にしてやります。
 ・それから、自分の鼻を指でさして「私は」「僕は」ってしゃべることがあると思います。でも、これは国や地域によっては「私はまぬけです」とか「自分はバカ」っていう意味になる場所もあります。

 こういう風に、自分の知ってる「あたりまえ」と全然違ったものに出会って、そのせいで人とケンカになっちゃうこともあるかもしれません。どうしたらいいでしょう?
「いや、自分にとってはこれはあたりまえじゃない!!おかしい!!」っていちいちやってたら、そのうちキリがなくなっちゃうんじゃないかと思います。「そういうのもあるんだな」って、うまく受け入れて、やっていける。私は、個人的には、「頭のいい人」って、そういうことのできる人のことを言うんじゃないかな、って、思ってます。
「頭がいい人」って、「勉強ができる人」だけじゃない、と思うんです。

 自分と全然違う人と仲良くするのって、とっても大変です。だって、自分が「ふつう」だと思っていることが、「ふつう」じゃないんだから。たとえば、私は「彼氏いるの?」と聞かれることがあります。だって、女の子は男の子とつきあって「彼氏」ができる、っていうのが「ふつう」だから。「ふつう」は、女の子に「彼女」がいるとは思いません。そのたびに「彼氏はいないよ~(彼女はいるけどね…)」って、思います。

 自分にとって「ふつう」じゃない人に出会ったとき、「あいつはふつうじゃない」って遠ざけちゃうか、「そういう人もどうやらいるらしい」って考え直すか。どっちもできるんじゃないかと思います。

 たぶんみんなは今まで、「男に彼氏ができる」「女に彼女ができる」なんて、そんなこと、聞いたこともなかったと思います。でも、今日、「ふつうじゃない」人の話を聞いた。みんなの中で、今日の経験をどう考えるか。それは、これからのみんな次第です。

「正直、男同士なんて、気持ち悪いと思っちゃいます」という正直な感想をくれた子がいたことが、逆に嬉しかった

  この話をした直後に、「正直な感想を書いてほしい」と、子どもたちに感想を書いてもらう時間をつくった。

  私はこういう「LGBT研修」みたいなものにいろいろな場所で多少関わっていた。そのとき、終わった後の感想で「偏見を持つのはいけないなと思いました」とか、「気持ち悪いと思っちゃいけないと思いました」とか。そういうコメントが来るのが、正直、苦手なんです。だって、本当に届いたのかが、あんまりわからないから。

  関心を持ってくれたなら嬉しい。でも、「差別しちゃいけない」とか「気持ち悪いと思っちゃいけない」とか。そう思ってる人が「ホモ」「オカマ」いじりをする例を、たくさん見てきました。私自身のセクシュアリティをカミングアウトしてある相手から、ゲイに対して否定的な発言を聞いたこともあります。あと、この発言が差別的なんだ、ということに気づかずにいろんなことを言っている人もたくさん見てきました。

  「差別しちゃいけない」、「偏見を持っちゃいけない」、行儀のいいことを言うのは簡単です。でも、「差別しちゃいけない」は、「自分はそんな、差別なんて酷いことなんかしないよ」になる。かつ、差別は「知らず知らずの間に、もうしちゃってるもの」なんです。

  「お前、人を差別するなよ!」と糾弾された人は、時として「違うよ、いじっただけだ」と言ったり、なんだり、します。そして、「どんな発言が、どのように差別なのか」ということに向き合うチャンスを、周囲も含めて、みんなで潰してしまいます。

  そして、「性の多様性」「セクシュアリティ」とは、LGBTだけのものではありません。「普通の人」と呼ばれる人たちも、「異性が好き」というセクシュアリティを持っています。それもまた多様性のうちの一つ、です。

  しかも、「普通の人」と呼ばれている人の中にも、実際は、多様性が、あるはずです。

  私が自分の話をしたとき、「先生の話はわかったけど、それでも、男同士のラブシーンとかは正直気持ち悪いと思ってしまいます」と書いてくれた小学生が、いた。

  それが、とても嬉しかった。

  こういう話をしたときに、「でも、自分はおかしいと思う。気持ち悪いと思う」と書くのには、とてもとても勇気がいることだ。それでも、きちんと自分の思ったことを書いてくれた。私はよっぽど、そのことに、将来の可能性を感じた。

  今はその子たちともう連絡も取っていないので、どこでどうしているのかもわからない。

  けど、とりあえず、生きててくれればまずはそれでいいかな、と、思う。

  こういう対話が、ほんとうは、みんなの集まる学校でできたらいいのにな。

ちなみに


 上記の話に出てきたアヤちゃんとは、もう、とっくに別れているのであった。


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