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造形遊び 世界を獲得する/拡張する つくる

身体=センサー

私、という存在があって、一方で私ではないものがある。それを分類するにはいくつかの方法?手段?壁?があると思いますが、身体は間違いなくその一つでしょう。
攻殻機動隊の世界のようにネットで繋がる世界にあっても、個体(義体)を必要とするのは、明確な境界線が必要だからなのだと思います。

何かに触れたとき、同時に私たちはその何かから触れられています。砂に触れた時のサラサラした感じは、砂の小さな粒が私に触れてきているから、そう感じるのです。
自分で自分のお腹に触れたときに、自分で触っているというのが分かるのは、目で見ているからではなくて、触れている感じと触れられている感じが一致しているからだと思います(目を閉じていても、自分で自分のお腹を触っている分かります)。痺れた足に触れたときには自分に触っている感じがしないのは、その感覚が一致しないからです。触れられた足が、触れられたことを感知できず、齟齬が生じるからです(痺れの場合は、身体の奥の方が触られた感じがするので、よく分からん、と感じるんだと思います)。逆に、自分が目の前の壁を触ったときに、自分のお腹に全く同じタイミング、圧力で触られた感じがしたとしたら、壁がお腹になったような奇妙な感じがするような気がしませんか?
この、ある種の錯覚を利用して、ロボットの遠隔操作などと技術は開発されているんだと思います(と知り合いの工学博士が言ってた気がします)。

子どもは触っちゃうし口にいれちゃう
子どもってすぐものを口に入れるし、触っちゃいますよね。
それって、口や手や足の裏が敏感な場所だと知っていて、そこで自分か自分じゃないものかを確かめているんじゃないかと思います。
そして、自分じゃないけど触る/触られると気持ちいい/悪いということを見つけ、そのたびに世界を分類し直しているんだと思います。分かんないので、とりあえず試す。試して確認して、セーフかアウトかを分類する。
土について知らないから、とりあえず触ってみる→気持ちいい→口にいれてみる→ジャリジャリする、苦い(分かんないですけど)→なんじゃこりゃ→吐く、泣く→二度と口には入れない(でも触るときもちいい)。
こんな感じで、身体を通じて、世界を分類していく、それが知識になっていく、そうやって世界を自分なりに分類していくんじゃないでしょうか。
完全に飛躍ですが、創世記の、光あれ、はまるで子どもが生まれてきた時の最初の刺激のようでもあります(ここ追求するとややこしくなりそうなのでやめます)。世界をつくることは世界を分類していくことなのです。聖書は言葉で分類していますが、子どもは身体で分類していくのです。

触る/触られる
ところで、図工の授業で獲得する「知識」として、触った感じに気付く、というのがあります(低学年)。
これは想像なんですが、これこ意図することは、綿って柔らかい、土って気持ちいい、というような個別の素材の感触を知る、ということではなくて、様々なものに触れるという「行為」に価値があるということを促しているんじゃないでしょうか。
例えばアボカドに触ったときに、ゴツゴツ、デコボコ、ザラザラ、ヌメッ、どれが正解かなんて言えないですよね。でも、触った私にとって、その感触は確かなものです。何かを触るとなんらかの「感じ」がある、何かを感じる、そういうことに気付かせたいんじゃないか、と思うのです。
そして、いろいろなものに触れば触る/触られれば触られるほど、世界は細かく分類されていきます。雨上がりの土と、何日も晴天が続いた後の土では、触り心地が違います。褒められた後のなでなでと、泣いたときのなでなでも、きっと違うはずです。一度だけでは、その姿はわからないのです。

「造形遊び」という学習
こうした、物に触れる/触れられるということを保障するのが図画工作の学習なのです。まあ算数でも鉛筆を持ちます。けれど、図画工作は、ものに触れる/触れられることそれ自体が目的なのです。
いやいや、粘土に触るけど、触ることが目的ではなくて、なんかつくるのが目的でしょ、って思いますよね?それは間違ってません。でも、実は図画工作には「造形遊び」という学習分野があるのです。
「造形遊び」は、(特に低学年では)、材料に触れることが重要なポイントです。触れて触れて触れまくるのが「造形遊び」です。
「造形遊び」は、材料に触れて「造形的な活動」を思い付くという目標があります。
「表したいこと」ではなく「造形的な活動」です。
なので、作品にならなくてもいいのです。伸ばしたら紐みたいになった→もっとのばそう。でもいいですしわ伸ばしたら紐みたいになった→結んでみよう。でもいい。伸ばしたら紐みたいになった→細かく切ろう。でもいいのです。
子どもがどの方向に活動を思い付こうとも、その方向を妨げず、子どもと材料とが互いに触れ/触れられながら「形」や「色」が変わっていく、そのこと自体が造形活動だろう、ということを「学習」として認めた、という宣言が、「造形遊び」なのです。
実は造形遊びの活動を「つくる」と言っているのですが、これには多分二つの意味があって、一つは「象とかキリンとかにならなくても、つくってるんだよ」という本質的なことを言うという意味で、もう一つは「つくるって言わないと、図工じゃないじゃないかって言うてくる人がいる」のでそのことへの予防、という意味があるんじゃないかと思います。
私たちは前者の意味で「つくる」を捉えなくてはいけません。
なぜなら、触るということは、創世記で神が世界をつくっていったのと同じように、一人の子どもが世界をつくっていくための行為だからです。


今回は子どもが世界をつくるという側面から造形遊びの話をしてみました。けれど造形遊びには、あまり前面で語られてませんが、もう一つの側面が有ると考えています。それはまた、別の機会に。