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短篇小説

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火炎を炙る

火炎を炙る

 私はこのように聞いた。
 横たわる青年の腋に山河がある。胸から腹の肉の筋は弓弦のように引き締まっている。その髪は月のさらわれた夜よりも黒々としていた。
 絨毯から体を起こし、シッダールタは饗宴のなかを歩いて行った。足もとでは酔い潰れた女たちが手や脚を絡めて寝息を立てている。群青や紅の着物は輝かしいけれど、はだけた肌は酒や果物をまぶして嫌な匂いがした。
 シッダールタは妻の姿を求め、女たちを踏まな

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音楽のパッション

音楽のパッション

 酒を飲んだ帰り道、中央線の車内で口論になり、男の顔を思い切り殴った。
 男は警察に連れて行くと喚いた。T駅のプラットフォームに降りた中年の背中を蹴り上げると、取っ組み合いになり、私から二、三発殴り、頭突きを入れた。男の口もとに鮮血が滲んだ。
 なにか大声で抗議して、私に血を飛ばしてくる。喚くなと言うと、腹いせに血の混ざった唾を吹き掛けてきた。私のシャツに粘度のある、赤いまだら模様が浮かんだ。黒い

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愛想笑い

愛想笑い

 彼女と会ったのは、鉛のように重い、雨の日の午後だった。
 上司に指示されて、S駅の東口から少し離れた〈レアリア〉というカフェで彼女の訪れを待った。
 店内は挽いたばかりの豊かなコーヒーの匂いがしたけれど、カフェインの受け付けない女性を相手にしたことがあった。
 結局、私はジンジャーエールを口にしながら、出入り口に目の届く席に座り、女性を待ち構えているのでもなければ、リラックスしているのでもない姿

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