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愛想笑い


 彼女と会ったのは、鉛のように重い、雨の日の午後だった。
 上司に指示されて、S駅の東口から少し離れた〈レアリア〉というカフェで彼女の訪れを待った。
 店内は挽いたばかりの豊かなコーヒーの匂いがしたけれど、カフェインの受け付けない女性を相手にしたことがあった。
 結局、私はジンジャーエールを口にしながら、出入り口に目の届く席に座り、女性を待ち構えているのでもなければ、リラックスしているのでもない姿勢を取った。準備は出来ていた。
 しかし、時刻から三十分が過ぎても女性は現れなかった。
 窓辺でお喋りする男女ごしに、大通りを行き来する車の影が滑った。
 窓ガラスの水滴に、街の色合いの反映があった。冷たい雨に吹かれて、鮮やかな街はさびしかった。
 雨の日を好む人なのか、この日に予定を空けていただけのか、それは分からない。
 いずれにせよ、そろそろ上司に連絡を入れようと考えた。音もなく彼女が入ってきた。
 赤いコートに身を包んだ彼女は、短く切りそろえた黒髪にラウンドのサングラスを掛けていた。
 頬がほのかに赤いのは、セピアの照明のせいか、道を急いだからか。肌は白く、首筋はほっそりしていた。
 入り口の明るい方からこちらの席に歩いてくる彼女に、私は感じよく手を振った。その顔に喜びや恥じらいはない。私から名乗り、彼女の名前を確認した。
「ええ、そうです」
 彼女は事務的に返事をしてテーブルの前で立ち尽くした。椅子を手前に引き、座るようにうながした。音を立てずに着席して、彼女は店を見回した。
 古いスピーカーから、ジョニ・ミッチェルの『マイ・オールド・マン』が流れている。客はまばらだった。
 客席もお手洗いも清潔で、店員はお喋りせずにコーヒーポッドを回している。円卓は広く、ほかの客とは距離がある。初対面の男女が分かり合うには打って付けの店だった。
「だいぶ冷えますね」
 女は首肯して、「冬が来ました」と返した。よく通る声ではないけれど、気がかりな声色だった。
「お家は遠いですか」
「そうですね。遅刻してごめんなさい」
「いえ。緊張していますか」
「はい。あなたの姿を見てから」
「僕もですよ」
「わたしは、あなた以上に緊張しています」
「なにか温かいものでも注文しましょうか」
「お願いします」
 メニューを差し出すと、「おまかせします」と彼女は言った。不思議な人だなと思い、すこし戸惑った私を眺めた。
 彼女は可愛らしく首をかしげた。濡れた髪が静かに光沢し、曲がフェードアウトしていった。セイロンティーを頼んだ。
 お茶をしながら定型のような質問と社交辞令が続いて、私たちは店を出ることにした。会計をこちらで済ませ、ガラス扉を開けると、通り過ぎた雨の匂いがした。
 もうすこしリラックスしたいと考え、そういえば近くに舗装された公園があった。
 しおれた落ち葉の掛かる石畳を二人で歩き、ちょっとした階段に差し掛かって、手をつないだ。冷たくこわばった手が握り返した。
 雨に洗われたシクラメンやパンジーの路で、「お会いできてよかった」と彼女はつぶやいた。
「前から呼ぼうと考えていていました」
「そうなんだ。嬉しいな」
「うれしい?」
「うん」
「わたしはうれしいのか、かなしいのか、よく分かりません」
「どういうことなんだろう」
「もしかすると、うれしいことも、かなしいことも、ほんとうは同じことで、違う出来事としてやって来るだけなんじゃないかって」
「哲学的な疑問だね」
「哲学で済めばいいけれど」
「男女の問題だからね。哲学じゃ済まない」
 彼女の握り返す力が強くなった。手のひらに揺れが伝わってきた。
 撫でるような霧雨が吹くのと同時に、「さっきのカフェ、行ったことあります」と悲しい口調で彼女は言った。
「前のときも同じ曲が掛かってたの」
「そうなんだ」
「一緒だった男の人がアーティストを教えてくれて」
「ジョニ・ミッチェル」
「そう、ジョニ・ミッチェル。ずっと名前を思い出せなかった。もやもやしてたの」
「忘れることは、忘れてもいいことだから忘れるんだよ」
 とらえどころのない会話は終わりにしなければならない。
 公園のゲートに差し掛かると、街の喧騒が伝わってきて、彼女は大事な記憶をさらわれないように「ジョニ・ミッチェル」と、もう一度だけつぶやいた。
 事前に予約していたホテルにチェックインして、時刻通りに部屋を出た。
 建物を出ると、もうぼんやりとネオンの灯る通りだった。駅まで送っていく道中で、彼女は「前に会ったことがあります」と言った。
「人違いじゃないかな」
「顔を変えました」
「じゃあ、わからないな。ほんとうの名前を教えてもらっていい?」
 名前をささやかれて、二年前に付き合っていた女と分かったけれど、不思議な気持ちになっただけで、また会うことをお断りするつもりにもならなかった。
 顔と声、そして胸の大きさも変えたと告白されて、すこし不安になった。
「どうして変えたの」
「生き方を変えたかったの」
「生き方は変わった?」
「変わった」
「おめでとう」
「ありがとう」
 お別れする前に、雑踏のなかの改札前で「どうやって僕を見つけたの」とフラットに聞いた。
 彼女は再開してからはじめて微笑みを見せ、人の波の向こうへ姿を消した。
 確かに見覚えのある、静かで美しい歩き方だった。



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