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【コラム71】流れの逆転

(1354文字)

こんにちは。

バターのようなマーガリンはバターじゃないけど、風邪のような症状の病気は風邪だと思います。


ベジしてますか?

過去に菜食・ベジをしていると言ったら、「修行中なの?」と言われたことがあります。何か宗教的な印象があるのは、たしかにわかる気がします。私もそのような印象がありました。

ただ、菜食・ベジをライフスタイルにしていると、「修行」という要素は少なからずあるな、と感じることがあります。
それは、制限や我慢という意味ではなくて、ふとした瞬間に気づきと言われるものを実感することが多い気がするのです。「悟り」と口に出してしまうと、なんだかとても軽い言葉になってしまうのですが、なんとなくそんな感覚です。

気づきの連続で自分の内側が変化すると、おもしろいように外側が変わってくる。これが本当に真理的なものに近い気がしますし、それがとても楽しいのです。自分の良心が喜んでいることを感じられるのです。

今、世間を騒がせている事柄も自分の中で進展があると、起きている物事は同じでも、その意味が全然違ってきますよね。

自分の良心にふりかえり、周りに影響を与える。
それが今やるべきことなのかもしれません。

しかし近い将来には、この流れが逆転するシーンが起きてくるのではないか、とも感じます。

周りのせいにしたいことが、ドドドっと押し寄せてくることもあるかもしれません。今やるべきことをやっておかないと、きっとそのような時が来たときに戸惑ってしまうのではないかと思います。

無思考、無学から来る選択は、良心を無視し、傷つけていきます。
望むことを望まず、不安や恐怖を常に選択していたら、そりゃ傷つきます。誰でもわかることです。

これから世間の流れが変わったとき、良心への傷つけグセが残っていると、周りのせいばかりにして、自分を無視して、さらに良心を傷つけてしまうのではないかと思います。

騙された!とか、
しょうがないじゃん!とか、
だって!とか、
でも!とか、
どうして私だけ!とか。

自分の良心に基づかない行動や他者への強制にも似た圧力によって、対象に何か問題が起きた時、きっと上の言葉を口にしたくなることがあるでしょう。(あなただって騙されてたじゃん、とか。)

その場での責任は逃れることができるでしょう。見たくないものから遠ざかることはできるでしょう。

しかし、
『これで良いのだろうか。』

という想いだけは、自分の中にこびりついて、片時も離れることはないでしょう。そこで気が付くことができるかどうか、周りが否応なしに変化した時に、自分自身も変化することができるか、ここが正念場となるでしょう。

周りの事柄が、自分の良心にとんでもない量がどんどん流れ込んでくる。
そんな、今やるべきこととは逆のようなことが起きてくる気がしてならないのです。

それをしっかりと真正面から楽しめるかどうかが、本当に大事だと思います。今、自身の良心を傷つけて生きている人がたくさんいます。良い悪いなんてちっちゃな話ではなく、もっと大きなテーマがそこにあります。

だから、今騒がれていることはギフトなんです。幸いにも、99%以上の人が何も影響を受けないような脅威で、とんでもない気付きを得ることができるチャンスなんだから。

その気付きを得るのに、とても有用なのもののひとつが、菜食・ベジなのだと個人的には確信しています。

心身の健康と調和をテーマに、“ベジ”を中心としたライフスタイルの提案に尽力します。