シンドラーのリスト(1993)

スピルバーグはこの作品を前作『ジュラシックパーク』と同年公開という恐ろしいスピードで撮っている。『フック』を撮りながら『ジュラシックパーク』のプリプロダクションを進め、『ジュラシックパーク』の本編撮影直後、ポストプロダクションと同時並行で『シンドラーのリスト』を撮っている。信じられないスピードと密度である。

しかし、この3作を連続で撮った事により、スピルバーグにとって大事な転換点が訪れることになる。新しいテーマの獲得とそれを次第に映画として言語化できるようになっていくのである。


『フック』はビジネス優先の大人になってしまった男が、子供の心を取り戻す話。しかし、スピルバーグの興味は大人の側を描く事に移ってしまっていた。その事に無自覚であったために、言いたいことが沢山あるんだけどうまく言えない、という作品になって失敗。

『ジュラシックパーク』は子供の心を持った大人が、ビジネス優先の大人たちが招いた地獄から子供達を救い、大人になる話。前作の主人公であったビジネス優先の大人を敵に設定し(「フック」の設定を逆転する形にしている)、見事に成功。

『シンドラーのリスト』はビジネス優先の大人が、子供のような大人と敵対し、ビジネス度外視で弱き者たちを救う話。『ジュラシック』の設定をさらに反転し、『フック』での設定に立ち戻っている。全2作からテーマをさらに発展させ、見事に映画として伝えたいことを描ききるに至った。

この流れ自体が三幕構成の映画のようで実に感動的である。
「こういうことが伝えたいんだけど、うまく伝えられない」という状態から「こういうことが言いたかったんだ。」という状態へ発展していくのは『ターミナル』の主人公がコミュニケーションを少しづつ手に入れていく過程に近いものがある。


『シンドラーのリスト』の内容的な解説は正直、町山さんの映画塾を見るのが1番良いと思う。しかし、自分が書く以上、そこで言及しきれてない事について書いてみる。まず、シンドラーとアーモンの関係性の描写について。シンドラーは常に画面の高い位置を制し、アーモンは低い位置にいる(逆転した、と思ったらアーモンは酔っ払って倒れてまた低い位置に座する)。そして、2人の間には窓枠が佇む。この画面構成はスピルバーグの1番好きな映画『アラビアのロレンス』の中に登場します。
ロレンスとシャリーフ・アリがテントの中で向かい合うと、柱が2人の間に立っている、という構図があります。ここからの引用ということで考えると、もう1つの謎に答えが出ます。なぜ、シンドラーとアーモンの関係が男同士の疑似恋愛的なものに傾いていくのか。それは『アラビアのロレンス』を下敷きにしているからなのではないでしょうか。スピルバーグはとても自覚的に男同士の友情と疑似恋愛を描こうとしたのだと思います。

そしてラストの展開について。「映画塾」の中でも質問が出ていました。なぜ、シンドラーの帰結をああいった形にしたのか。「車を売れば何人か救えたんじゃないか」「バッジを売ればあと2人救えた」というシンドラーの後悔です。町山さんは、無理矢理作ったのでは。と答えています。

しかし、ここにスピルバーグの監督としての独自解釈があると私は思う。それは映画監督が映画に対して思う気持ちをここに込めているのではないか、という仮説である。
「もう少し寝ないで頑張ればあと5カット救えたんじゃないか」
「あそこで判断を間違わなければあと2カット良くなった」
馬鹿馬鹿しいと思われるかもしれませんが、監督とはそういうもの。
「1000カットも良いカットが揃ってます。十分です」
と言われても、それはただの気休め。監督にとって、救えなかったカット(作品)というのはどこまでも後悔としてついて来るものである。

シンドラーの動機と帰結を考えた結果、スピルバーグは映画監督としての自分の気持ちをストレートに出すことにしたのではないか。『フック』から(あるいは1941や太陽の帝国などの評判が悪かった作品から)の流れの中で、やっとここまで表現できた。という達成感とその裏にある失敗と後悔。そう考えると、私にとってシンドラーの唐突な帰結も自然に受け入れることができた。

映像作家は映像作品の中でテーマを探し、伝える術を手に入れ、それをさらに映像作品として昇華する。本当の意味での映像作家がスピルバーグという人だと思い知らされた作品であった。

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