『卒業』1967

優等生、孤独、童貞、モラトリアム。現代でいう「陰キャ」であるところの坊ちゃん、ベンジャミン。彼が大学を卒業後、色っぽいおばさんの誘惑と、その純朴な娘のあいだで奔走する。

時代とは不思議なものだ。彼の憂鬱や、未来の見えなさ、ホテルのフロントでの挙動不審など、共感するところは多くある。しかし、この余裕はなんだろう。スポーツカーを乗り回し、大きなプール付きの実家がある。お金の心配もせず、突然出ていって下宿に泊まる。こういった環境は今ではずいぶん稀だろう。当時からこんなのあり得ない、と思われていたのだろうか。それならばここまでヒットしていないと思う。時代は進み、人々は余裕を失った。モラトリアムでも前進しなければ。隙間の時間があればネットで情報収集だ、と。童貞も、結婚も、就職も、ご近所付き合いも、それほど大きな問題ではなくなってしまった。

そしてもう一つ違和感を覚えるのが、女性達の存在の希薄さ。私たちは、50年以上かけてやっと女性達の心を認識しようとする世界に至ったのかもしれない。ここに登場する女性達は男の物語に奉仕することを強いられている。内面は「理想」の女性像にはめられ、彼女達らしい自らの意思を表現させてもらえない。ロビンソン夫人の最初の行動には「意思」が感じられ、強い印象と存在感を残す。娘であるエレインはラストまで固有の「意思」を感じられないままだ。

ラストとは、あの前方を見つめる眼差しと、ウエディングドレスを見る瞬間だ。あの瞬間、彼女は彼女自身の意思を表明する。何やっているんだろう、これからどうするんだろう、こんな格好で出てきちゃって、、、と。リアルな存在になる。そして隣にいるベンの作り笑顔(ダスティン・ホフマンという人は本当に頼りなさそうに見える。追っかけられたり、奔走する役が本当に似合う)。

当時、この映画がどういった感触で受け止められ、どういう感想を若者達が抱いたのか、非常に気になる。時代は変わったと感じる。現代の若者達はこれを見て、自分たちの物語だとは思わないだろう(特に女性は)。時が立ち、映画の中の女性達は自らの意思で行動する権利をやっとの思いで与えられ、そして視聴者もその偏りを認識するに至った。私たちは当時の感覚でこの映画を見ることはできない。映画は時代と共にあるのだと、強く意識させられた。

決して、この映画が嫌いなわけではない。サブリミナルカットも、プールのシーンの演出も素晴らしい。監督とカメラマンがズームレンズの登場にワクワクしている感じも伝わってくる。しかし、それらを使って伝えようとしているメッセージと物語が、どうも現代の自分には合わないのだ。世代の断絶というものは、こうして起きるのかもしれないと実感した。

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