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ダメなものはダメ、過去の過ちを取り繕わない


過ぎたことを悔やまず、今を大事にって話し

硬くなった粘土をほぐして使うことはできる
使う部位が合えば、柔らかくきめ細やかでなくてもいいところはある
しかし、自分の作品でそういう部分は少ない

強いてあげれば、芯材にあたる部分なら使えなくも無さそう
しかし加工のしづらさ、芯なのに、いちいち乾燥させる必要の手間、さらにその上から粘土を貼っていくことで、ムクの粘土の塊になり、重量が増す、加工しづらくなる
上から粘土を足していくなら、初めからその形でつくればいいじゃん?って疑問も沸いてくる。

新しい粘土ならすぐに作業にかかれるのに、堅くなった粘土をほぐして使いやすい状態に戻す作業時間。
物を大事に、使えるものは使ってやる考えは尊いが、そこに時間を割くと、その分できる時間を失う。

世の中、時間が一番大事じゃないこともたくさんあるけど、修練には時間が一番大事。
たくさん無駄なこといっぱいやって、それを踏まえて大事なことに気付くと思う。
思いつくときは、「ふと」なんだけど、そこに行くまでに必要な時間があったと思う。
粘土をほぐすのも、修練の一環かもしれない。でも、普通に作る方に時間を使いたい。

使いにくい粘土で制作を続けていたこともあった。使いにくい物をだましだまし、丁寧に水を練り込んで、何度ももみほぐし。時間と手間をかけて。
そこまでやっても、うまくくっつかないことがあったり、小さい物作るとボロボロほぐれてきたり。

使いにくくなった粘土を、使いやすくなるようにほぐすのを研究するのが、本来やりたいことではない。

久しぶりに新品の粘土買ってきて使ったら、すっごく柔らかくて、保水力が高くて、なめらかで、最初の塊に切りベラがすーっと入って、堅い粘土とは別物やん!、ちがう商品じゃないの!?って思った。

なんだかんだ理由を付けて、あるいは付けないで開き直って、やれなかった時間はしょうがないってことにしてる。

制作しない間も、粘土はどんどん乾燥していってる。密閉された容器にもわずかな隙間はあるようで、お店で新品を買ってきた物と、自宅のいつ買ったか忘れてしまった袋では、表面に触れただけでも明らかに堅さが違う。

ダメにした粘土がもったいないから、使ってやりたい。工夫すれば使えなくないじゃん。大事にしてやろうよ。
物を大事にしたい気持ちから、そうやってきたけれど、無意識に問題から目をそらしてすり替えていたんじゃないのかな。

そもそも、堅くなるまで放置してたことは棚に上げてる。旬の時に使い切ってやれていれば、手間と苦労をかけて時間を消費することはなかった。手間をかけても、新鮮な紙粘土と比べたら、あきらかに違うもの。
新鮮な紙粘土でできる物も、古くなった粘土では作れない。作れる物が全然違ってくる。

粘土一個だって、無料じゃない。その分のお金で得られたものは失ってる。

失った物は取り返せない。わかってるはずなのに、ごまかして失ってないよって思い込もうとしてる。
物が持ってる価値を、生かしてやりたいと思い込もうとしてる。
そうすることで、失った時間は無駄じゃ無かったことにしようとしてる。

でも、固くなった粘土を元に戻そうと時間を割くことは、その時間分できたことをできなくしている。

時間をかけて、リカバリーできたとしても、そのために割いた時間はもう戻らない。
物を大事にするのなら、旬な内に使い切ることが肝心で、使え無いものは潔く捨てる気持ちを持ちたい。

例えば一人暮らしを初めて間もないころの冷蔵庫の中の食材。
使い切れなくてダメにした野菜やら肉やら数知れず。

食べ物と違って、匂いがしたりとか、酸っぱい味がするとかはないけれど、
痛んだ食材で料理をしても、おいしい料理は作れない。すっぱいごはんはおいしくない。

堅くなった粘土は捨てる。
うまく使える方法、使いどころがあるかもしれないと考え出すとダメ。できない自分がダメではなくて、堅くなるまで放置してしまった自分がダメで、使い切れない粘土をまとめ買いした自分がダメ。机に向かっても何もできない自分がダメ。誘惑に負ける自分がダメ。

ダメだダメだと否定のかけ算もだめで、マイナスとマイナスを掛けてもプラスにならない。

やっぱり、今に集中するのが大事。目の前のことに集中するのが一番大事。

パン工場のベルトコンベアで流れてるパンのように、袋に入れれなかったパンは、あきらめて流してしまわなければいけない。
そして、入れられるパンは全力で入れていきたい。
それが好きなパンでもそうでなくても、入れやすくて入れにくくても、何パンでも。


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