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~「配られたカードはプレイしきる」 答えは必ず自分の中にあるから②~

Q4 日本に帰国されてからの生活は?
中学は帰国子女の学校行ったら?とか英文科行ったら?とか推薦とったら?とか言ってくださったんですけれど、、本当に私、自我が強いので笑。私の中で、「でも私が英語を話せるのは私が努力したわけではなく、お父さんに付いていって、そういう時間を過ごしたから身についたものなのに、ずっとこれだけで評価されていく人生は嫌だ」と思ったんです。
 
ちょうど15歳の時だったと思うのですが、「絢子ちゃんは英語ができる」と言われることに対してどんどん卑屈になってって、、だから高校もあえて一般受験をして帰国子女受け入れ校だとか、英文科とかそういうところを受けず、そして大学受験ときも意地を張って帰国子女受け入れ校とかに一番縁遠い法政大学・経済学部を選びました。
 
英語でのプロ意識の目覚め、物事の捉え方の違いで大きく変わった
 
Q5 アンチテーゼで選んだ学生生活はいかがでしたか?
私3姉妹の一番下なんですが、長女がずっと通訳のバイトをしてたんです。F1とかサーフィン大会とかのプロの大会での通訳をしていました。大学1年のときに、千葉の海岸であるサーフィン大会の通訳の仕事どう?と言われて、私は英語できるしもう楽勝!と思って行ったんですよ。
 
そのバイトでの私の役割は審判員たちの通訳でした。ルール変更に関してのブリーフィングの時、サーフィンで“ホワイトウォーター(波打際の白波)”っていう用語があるんですけど、そのホワイトウォーターを私が全然知らなくて。それを私がわざわざ“白い水”って訳しちゃったんです。そしたら大会主催者の人から、「ルールブックちゃんと読んできたか?サーフィンの用語知ってるか?」「ホワイトウォーターってサーフィン用語だから訳さなくてもみんなわかるんだよ」って怒られたんです。いわゆる野球の“ホームラン”を“家走り”っていっているようなもんです笑。。だからもうあまりにもう、もう常識以前の問題としてつまみ出されたときに私、英語が喋れるからって英語で人の役に立てるって思い上がってたんだな、その時わかったんです。
 
だから逆に反省をして、そこからは英語を使うバイトばっかり選んだんです。自分が今まで思い上がってた英語でお金を取るとなるとやっぱりそれなりに意識が芽生えて、中途半端なことできないからきちんと調べよう、的確に伝えようと思いはじめました


英語を使うってこういうことなんだなってわかって、そこからが転機となりました。そうなってくるといかに多くの人が英語に苦労してるかよく見えてきたんですよね。父親が連れていってくれた4年間に恨み節ぐらいの気持ちで、アンチテーゼで大学生まで来ちゃったんですけど、8年以上とんでもなく恵まれてたし、天に唾を吐くような態度を取ることじゃなかったんだなってわかっったんです。そこから自分の恵まれた環境だったことや周囲に感謝できるようになり、この気づき以降は外資系のレストランのアルバイトとか他の通訳も引き受け、そこで英語を使える仕事を選び、結果笛吹さんと一緒になった外航海運の会社に就職しました。

帰国後日本でで英語を使うことによって、結果的にご自身の恵まれた環境に感謝できるようになりさらに磨きをかけようと決心された絢子さん。次回はそんな絢子さんのキャリアについてお話いただきます!③へ続く

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