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ジャパニーズウイスキーの父「竹鶴政孝」

こんにちは!

突然ですがNHKの連続テレビ小説の「マッサン」はご存じでしょうか?
かなり高い人気を誇っていましたよね~。
見られていた方も多いのではないでしょうか。
今日はそのモデルとなった、ニッカウヰスキー創業者であり「ジャパニーズウイスキーの父」とも呼ばれる、竹鶴政孝さんのお話です。

「マッサンみたから知ってるわ~」
って人も是非最後まで読んでみてください!!

1.本場スコットランドへ

竹鶴政孝は広島県の酒造を営む竹鶴家に生まれる。
家業を継ぐことを期待されて醸造科に進学。しかし、そこで洋酒に魅せられ大学の先輩「岩井喜一郎」を訪ね、摂津酒造に入社。

そこの社長が

「竹鶴君、本場に行って勉強してきてくれ、これからは本格ウイスキーの時代だ」

ウイスキーの本場といえばスコッチウイスキーの故郷であるスコットランド
こうして、竹鶴政孝のスコットランドへの武者修行がはじまるわけですよ。
当時、日本ではウイスキーの模倣品の様なものが流行っていた為、本物を作りたいという気持ちが当時の社長にはあったんでしょうねー。

スコットランドに渡ってからはグラスゴー大学にて勉強。
しかし、座学を繰り返しているうちに、
本を読んでいるだけで本物のウイスキーを作れるわけがない。
そう思い、いくつかの蒸留所に実習願いを送ることになります。

意識が高い。スゴイ
僕なら「本場のスコッチ美味なんだが?二軒目いこや!!」
なんていってスコットランド旅行になってそう。

話を戻そう
政孝の思いは届き、なんとかとある蒸留所にて実習をさせてもらえることに
そこでなんでもやります!!って頑張るんだけど、一番肝心な蒸留器には外国人である政孝はなかなか触れさせてもらえなかった

まぁありそうな話ですよね。双方の気持ちがわからないでもない。

でも、ある夜。
熱心に勉強する政孝の熱意に動かされた一人の年老いた職工が、蒸留器の操作を手ほどきしてくれたと

この人がいなければ今の「ジャパニーズウイスキー」は実現してなかったかもしれませんね。
ジャパニーズウイスキーの父が竹鶴政孝であるならば、
この年老いた職工がジャパニーズウイスキーの祖父かもしれないです。

生涯の伴侶となるリタさんとの出会いなどもあり、約2年間のスコットランドでの留学を終えることとなります。

この留学中の実習成果を報告するために書かれた
通称「竹鶴ノート」
というものがあるのですが、イギリスのヒューム元首相が来日した際

「一本の万年筆と2冊のノートで、わが国門外不出のウイスキー造りの秘密を盗んでいった青年がいた」

とユーモアたっぷりに称賛された話があるんですよ。
まじでかっこいいですよね!!
現物は今もニッカの本社で保管されているそうです!

2.最強の二人

妻であるリタさんを連れて帰国したんですけど、、、

待っていたのは景気の冷え込んだ日本

もう摂津酒造にはウイスキーの新規事業に取り組む体力がなく、政孝は退社することを決意。
その時にウイスキー造りの話をもちかけたのが寿屋(現サントリー)の鳥井信治郎さん

本格ウイスキーの到来を確信していた鳥井さんは当時、ウイスキー造りを知っている唯一の日本人である竹鶴さんを選んだんですね。

そこから竹鶴さんは工場長としてウイスキー造りに専念。

1929年に日本初の本格ウイスキー

「サントリーウイスキー白札」

を発売。

その後独立し「大日本果汁株式会社」を設立。
スコットランドに似た気候風土でウイスキーを作りたいという信念から、北海道の余市に工場を設立しました。

ただ、ウイスキーって熟成させたりで作っても市場にでるまでは時間がかかるんですよね。
その為、ウイスキーが熟成するまで余市で栽培が盛んである、リンゴを搾ったジュースなどを販売して会社の経営資金に充てていたみたいです。

経営センスも抜群なのかい

1940年に社名から「日」と「果」をとった「ニッカウヰスキー」を発売しました。

1965年には皆さんもご存じ「ブラックニッカ」が発売されました。

その後もサントリーとジャパニーズウイスキーの2大メーカーとして“本物”にこだわったウイスキーを世に送り出し、僕らの週末をより良いものにしてくれてますね。(お世話なってます)

3.最後に

どうでしたか?

みんな大好きハイボールも竹鶴さんがいなければ、ここまで流行ってなかったかもしれませんね。

五大ウイスキーと呼ばれる日本のウイスキー
誕生した背景を知ってのむと、また新しい楽しみ方が広がると僕は思ってます。

最後までご覧いただきありがとうございました。

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