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打ち砕かれた海の家への幻想

卒業を目前に控えた大学4年生の2月。

あろうことか単位を1つ落としてしまい、留年が決まった。
(教授に「なんとか」と懇願したが、「君だけ特別扱いしたら、これまでの生徒に恨まれる」という理由で、聞き入れてはもらえなかった。)

就職予定だった企業にも謝りの電話を入れ、心にぽっかり穴が空いた気分になった.。
落とした単位は後期のものだったので、4月から9月の予定もぽっかりと空白になってしまった。

他の同級生たちは就職して4月から働き始める。
友人たちからは「就活しろよ!」なんて言ってもらったが何とかなるだろうと深く考えていなかった。いや、考えようとしなかったといったほうが正しいか。
半年間も時間あるんだからアルバイトしつつ、やりたい事を探そうなんて楽観的にそして大層甘い考えを抱いていた。

大学の近くに借りていた下宿先の半年分の生活費を考えても一度そこを引き払って、せめて後期の分の学費を自分で稼がなくてはと考えた。
実家に戻って、そこでアルバイトをしようかとも考えたが、自分の落ち度のせいで休学することになってしまったし、実家での生活を想像するとなんだか窮屈そうに思えた。
 
せっかくだから祖父の家にお世話になれないかな?そう思って祖父へ連絡してみると快く受け入れてくれた。
 
祖父の家には正月に親戚で集まったりすることはあれ、長期間を一緒に生活するとなると初めてだった。
まずは、この半年間何のバイトをしよう、有意義な時間を過ごすには何をしたら良いかという事に頭を悩ませていた。
 
 
その土地に住んだことは無いので、祖父母の家族を除いて友人や知人はゼロだったし社会とのつながりを持つためにも早急にバイトを探さなきゃと思っていた。
 
その当時は今みたいにアルバイトの求人情報をネットで探すのはまだそんなに一般的ではなく(そう思っているのは僕だけだったかもしれないが)、コンビニとかに置いてある求人誌をめくるか、店とかに貼ってある張り紙を見るのが普通だと思っていた。そもそもこんな半年でやめることが決まっているやつを雇ってくれるところなんてあるのか?
 
ある日家の近くの新聞屋で配達員を募集しているという、貼り紙を見つけた。
朝刊の新聞配達なら夜中のうちに終わって、昼間は他の事に時間を使えると思ってすぐに飛び込んだ。
よっぽど人がいないのか優しいのか、事情を話すと、朝刊だけでもオッケー、半年だけでもオッケーだと言ってもらえた。
 
夜中2:00から新聞配達をし、その後コンビニで早朝勤務、日中は日雇いのアルバイトを掛け持ちでやりはじめた。
 
次第に祖父たちと一緒に食事をする機会も減っていった。
 
そんな5月のある日、たまたま祖父たちと一緒に食事をしていた。
 
祖母「そういえばそろそろ海水浴のシーズンね」
祖父「もう6月頃には海の家建ち始めるからな」
なんてことを言った。そう、割と近い場所に海水浴場があったのだ。
 
その時僕は、海の家でアルバイトをすることこそが、“ここでしか”・“今しか”できない事なのではかと思った。
真夏の海での青春・ビキニ姿で寝そべるギャルたち・そして夕日に染まる浜辺。
 
そんな妄想が膨らんだ。
 
でも海の家のアルバイトなんてどこで募集しているかわからない・・・
そこで次の休みの日に海に行ってみた。
でも5月の海岸には、犬の散歩をしているまばらな人しかいなかった。
 
そこで次に、検索エンジンで『海の家』『バイト』『地名』を入れて検索してみた。
 
するとあっさりとヒットした。
 
募集内容は
①    海の家の建設スタッフ(6月)
②    海の家の建設・海の家運営スタッフ(6~8月)
 というような内容だったと記憶している。
 
僕の想像していた海の家で働いているスタッフだけの募集は無いらしい。

僕にとって海の家は、それまでは海水浴に行っても実際に利用したことは無かったので、ドラマの中で描かれるような美化されたイメージしか持ち合わせていなかった。だが僕は今でいう「陰キャ」だ。
大丈夫か?ふと不安がよぎる。
 
それでもキラキラしたひと夏の海水浴場を思い浮かべ、応募しようと思った。
 
勤務時間も9:00からと書いてあるから、朝方新聞配達をして、その後急いで移動して8:00までのコンビニのアルバイトが終わってからでもなんとか間に合いそうだ。
 
そして働きたいが一心で一生懸命書いた履歴書を持って面接へ行くと、まさに海の男というような男性が待っていた。以下”ボス”と書かせてもらう。
「随分かっこいいこと書いてるな」
とバカにしたような感じで言われた。しかし無事に6月1日から働けることとなった。
 
さすがにこの海の家のアルバイトが始まってからも、3つのアルバイトを同時に掛け持ちするのは、体がもたないだろうと思い、朝のコンビニのアルバイトは事情があって6月中旬でやめさせてくださいと言った。
「せっかく仕事覚えてくれたと思うとみんな辞めちゃうんだよね。」
店長さんに言われた。
申し訳ない・後ろめたい気持ちでいっぱいだった。
 
 
6月1日の海の家のアルバイトの初日、いつも通り新聞を配り、コンビニで接客の後、初めに言われていた通り9:00前に海岸へ行った。

するともう既にみんなの作業は始まっていた。初日から遅刻だ。いきなりボスに怒られた。9時からと書いてあったが、実際は8時からだったらしい。再度確認をしていなかった僕が悪い。

「6月の半ばまで他のアルバイトがあり、そっちの勤務日は9時近くにならないと来られません」と伝えた。
ボスは不服そうだったが「わかった」と言った。
 

ボスと同じ日に入った同年代の”タケ”と毎日行動を共にし、ボスには常に「お前らは2人で1人前にもならない」と言われ続けた。

その後、毎日毎時間毎分に渡り怒鳴られながら、日が沈む19時頃まで資材運搬や職人の手伝いをした。
 
ボスに言われた言葉で今でも覚えているものがある。
「今まで100人くらいバイトを使ってきたが、お前はその中でもトップレベルで使えない」
「仕事できないのに使ってやって、覚えさせてやっているんだから、こっちが金をもらいたいくらいだ」

そう言われて3日目にお前はしばらく給料無しだと言われた。
 
その後も毎日怒られながら、どうしたら怒られないで済むかを考えた。しかし僕は未熟すぎて何をやっても怒られた。
社会を知らな過ぎた。
 
「素直さがない」
「仕事が遅いうえに丁寧さもない」
「男は過程を見てもらえない、結果で示せ」
 
悔しいと思った。何とか仕事を出来るようになってやろうと思った。
 
毎日心が折れそうで、他のアルバイトの掛け持ちもあったため身体も悲鳴をあげていた。
ほとんど帰って眠るだけだったとはいえ、せっかく一緒に住まわせてもらっている祖父母たちには心配かけないようにと、家に着くころには無理して気丈に振舞おうとした。
 
しかし終わりは唐突にやってきた。
10日目くらいに仕事中に呼び出されてクビになった。
結局給料は1円ももらえなかった。

もうほとんど海の家自体完成したからかもしれないし、僕自身、仕事ができなさすぎたのもあるだろう。
たまたま一緒の日に働き始めた年の近い仲間からも数日後、俺もクビになったと電話がかかってきた。
 
 
こうして、僕のキラキラした海の家の店員に憧れて始めたアルバイトは、何も始まる前に終わってしまった。
その後の営業はどうするのだろうと思っていたが、例年やっているスタッフとかも海の家が建つ頃には出入りしていたし、またほかのスタッフを募集するのだろう。
そう自分を納得させることしかできなかった。
 
梅雨に入り、朝の新聞配達以外の仕事が無くなってしまった。
昼間の間、その10日前後の事に思いを馳せた。
確かに濃密な時間だったから続けていれば何かを得られたかもしれない。
 
祖母には
「やったことのない仕事だしいきなり出来るはずもないし仕方ない」と慰められた。
 
確かにその通りだとも思ったが、一方ですぐに場の空気を察知して読んで対応できる人もいる。
僕はとびきり仕事の出来ない人間だったんだと、20年生きてやっと思い知ることができた。
 
 
しかしそれから10日ほど経って僕は思った。
これじゃ何の為に、ここに来たのかわからない。
他の海の家で働けるところを探してみようかと。
 
そして再び懲りもせず海岸へ足を運んだ。
 
なるべくボスのいる海の家とは離れたところにしようと思いつつ、海の家が立ち並ぶ海水浴場を歩いて募集しているところを見つけた。そこは昔ながらの海の家というような感じがした。

たまたまそこに座っていた女将さん”ウメさん”に声をかけて7月の頭から働かせてもらうこととなった。
 
後からわかることだが、ウメさんと”マツ親方”が長いことやっている海の家だった。
 
そして海開きの日、アルバイト初日。
初日という事もあり、そこの海辺の店主たちが一斉に集まるような式典があった。
 
僕は店の掃除をするように言われていたのだが、ふと目を外に上げると、なんとそこにボスの姿があった。
僕は急に焦り始めた。
やばい、クビになった仕事の出来ない自分が他の海の家で働いているとか気まずい。
仕事できないってことを初日からウメさんやマツ親方にばらされたらどうしよう。
 
まだボスには気づかれてなさそうだ。
僕はなるべくそちらへ顔を向けないよう、背中を向けながら、下を向きながら掃除を続けた。
 
しかし突然声を掛けられた。
ボス「あれお前じゃねーか」
僕はリアクションに困りつつも、一応「どうも」と言って挨拶をした。
 
その後もボスは僕を見ながらニヤニヤしている様子が分かった。
そしてボスとウメさんがしゃべっている様子が・・・・
 
後からウメさんから聞いた話だと
ボス「あいつこないだまでうちで働いてたんですよ。俺のとこで10日だったから、ウメさんのとこなら持って3日かな」
と笑っていたそうだ。
 
 
ボスが帰った後、ウメさんは「あんた、夏が終わるまで働けるようにしてやるから」と言ってくれた。
 
ウメさんとマツ親方の海の家は個性の強いメンバーも多かったが、毎年やっているという先輩方達がとてもよく面倒を見てくれ、大変お世話になった。
 
また、同じように今年初めてだという仲間たちとも仲良くやっていたが、相変わらず僕は仕事ができなかった。
 
マツ親方は高校生バイトたちと同じようにしかできない大学5年生の僕の働きぶりを見て、
「無駄に歳ばっかりくってんじゃねえ」と静かに怒鳴りつけた。僕の頭の中でその日以来その言葉は響き続けた。
 
それ以降も事あるごとにマツ親方には怒られた。
僕はマツ親方の事を苦手に思い、なるべくマツ親方の目の届かないところで働いた。
 
僕の働いていた海の家では、各担当の持ち場がしっかりと決まっているわけではなく、自分で状況を見極めて仕事をするというスタイルだった。

そして、特にお客さんの少ない日なんかは、僕は仕事を失っていた。
その様子を見たマツ親方はまた怒っていたようだ。
 
見かねた先輩たちは気にして仕事を回してくれるようになった。
この先輩たちはよく飲みに誘ってくれたりして、翌日に新聞配達の無い日は行ったりして、本当に助かったし頼もしかった。楽しかった思い出。
 
しかし更に壁はあった。
この夏に初めて海の家で働く30代男性”スギさん”がいた。
 
スギさんがどういう経緯でその年の夏に海の家で働かなければならなかったのか働いているのかはわからない。
表面上とても人当たりはよかった。
 
スギさんは、マツ親方とウメさんの前ではすごくよく働いていた。

スギさん自身「言ってもらえれば何でもできます。」と言っていた。
僕も「さすが30代ともなればほとんどの事を出来るんだー。すごいなー」なんて単純に感心していた。世間知らずすぎる。
 
そして、僕自身も先輩やアルバイト仲間の助言もいただき、1~2週間する頃には、どのように仕事をするのかが少しづつわかってきた。
 
お客さんがこう動いたら真っ先にこれを片付けるとか、これを用意するとか、ちょっとだけ先も見えるようになってきた。
 
例えば厨房からは遠い席でお食事をされていたお客様が食べ終わり、お会計に向かうとする。

そうすると僕なんかいわゆる下っ端スタッフがトレーと台拭きを持ってその席の片付けに向かうわけだ。

で、片付けた食器類を厨房に運んでいる途中で、スギさんが「持って行ってあげる」と言って代わってくれる。

初めは優しい人だなと思っていた。

次第にこういうことがしょっちゅう起こっていた。

すると厨房にいるマツ親方は、こっちへ運んでくる僕の姿を見ないもんだから
「あいつは突っ立っているだけで何もしていない、スギばかり働いている」となる。
そしてマツ親方にはしょっちゅう怒られた。
 
僕も僕でスギさんから仕事をとられそうになると「大丈夫です」と言って断ろうとしたが、スギさんは「いいから、いいから」と言って仕事をとっていった。
 
そんなとき、先輩に言われた「仕事は奪い合うもんだ。」
この言葉は今でも心に残っている。

それまで20年以上生きてきてそんなこと考えたこともなかった。割り振られた仕事をみんなで協力して助け合いながらやるのが仕事だろうと思っていた。
 
そっから率先して、人がやろうとしていることでも、「やります!」と言って仕事をとりに行くようになった。
 

そしてある朝行ってみると、スギさんの姿がなくなっていた。
聞く前に突然「スギさんが辞めた」ことを伝えられた。
 
理由を尋ねたが具体的には教えてもらえなかった。

だが、どうやらマツ親方とウメさん以外はみんな、立場の偉い人に媚(こび)を売るようなスギさんをよく思っていなかったらしく、そこに来て今年入ったばかりのスギさんが毎年やっている先輩にたてついたという事でクビになったらしい。
 
そんなこんなでこの海の家業界というのは、今まで僕がやってきたアルバイトとは全然違うんだなとか思いながら必死に働いた。

怒られる回数もだんだんと減っていった。
 
特別急に仕事が出来るようになったわけでもないし、どちらかというとむしろ全然出来ない部類に完全に入っていたが、みんなに可愛がってもらい、楽しい夏となった。
(実際に同時並行で新聞配達もやっていたため、いっぱいいっぱいだったけど。)
 
夏が終わる、すなわちアルバイトが終わりに差し掛かっていた頃、
マツ親方から
「お前がいてくれたおかげで楽しい夏だったよ」
と言っていただけた。
とても嬉しかったのを覚えている。

先輩にそそのかされて人生初ナンパをしてみたりしたが、全く相手にもされなかった事などもあったが、忘れられない夏になったのは間違いなかった。


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