ピカソが理解できない人向け。「真のリアルさ」と「個性を求める現代人」の矛盾について。
おはようございます。今日は「リアルさ」について。
「芸術に触れると良いよ」と、あらゆる占いサイトで言われるから、てくてくと美術館へ行ってきた。そこは、数ある素晴らしい芸術品と私だけの世界だった。精神的にも物理的にも。要は誰もいなかった。そして帰りに『13歳からのアート思考』という本に目が止まり、購入。これまで感じていた世界への違和感を言語化できそうなのでnoteをかこう。
『この世界は、見えないものほど真実なんだろうな』
思考の8割この謎でモヤモヤしている私は、常にもやもやしている。
現代を生きる、特に日本人は「目に見えるモノが真実である」という価値観を持つ人がとても多いように感じる。学校教育の影響なのか、歴史の影響なのか、しかし物理や化学で素粒子については学んでいるはずだし、アインシュタインやニュートンが立証しているはずなんだが、本当に謎だ。
とか言いつつ、その絡まりすぎたイトの先端を見つけた。
・時代にカメラが生まれたことで。
・ピカソは理解されにくい、ということで。
■私はいつも不思議だった。
空気って見えないけど、実際この世界には少しの隙間もなくギッシリなんだよなー。匂いとか音って原子が見える世界では色や形が違ったりするのかなー。
全てのモノが劣化していくけど、そのつど聞こえない音とか常に発してるのかなー。もしその音に気づけたら地震とか予測できちゃうんだろうなー...とか。
ひとりでいる時は大体そんなことを考えているのだが、誰に言っても頭のネジが外れちゃってる子のように哀れんだ目で見られるから、幼いころから独り言が多いのかな。
要は、見えないモノがそこにあることは事実(だと私は信じている)なのに、それを表現できないもどかしさを内に秘めていたのだ。メラメラと。
■「リアルさ」はリアルではない。
何百年か前にカメラが誕生した。
それまで画家は「より現実性の高い」絵を描き、人々も「再現度の高い」絵を求めていた。イエスキリストの宗教画やサイゼリアの壁画など、空想の情景を現実として感じられる絵が求められていた。
しかしカメラが誕生。自画像を描く必要もなければ景色を描く必要もない。絵画は、存在する(と認識できる)ものを記憶に残すことが役割だったから。
ピカソが「ただ美しいとされるリアルな絵」をやめ、独特で理解しがたい「リアルではない絵」を公表した時、当時の批評家たちはボロクソに言ったようだ。
なぜ左右対称ではないのか?
女性なのにカクカクしていておかしい。
色が所々違うのはありえないだろう。などなど...。
■ではなぜピカソの名は現代まで受け継がれてきたのか?
ピカソの絵には「真のリアルさ」が表現されているから。
ピカソは3次元の世界、いやもっと複雑な世界を、たった一面で表現した。その人の感情、様々な角度から見た図、活力、エネルギーを。つまり「見える世界」と「見えない世界」を融合させた。
(え、すごくない?普通にすごくない?)
これだけ科学が発展しているにも関わらず、私たちは目に見えない存在を「リアル」だと感じにくい。自然から人工物への移行がほとんど完了している生活環境の中で生きている私たちは、ピカソを批評していた当時の人たちよりも、実はピカソの絵を理解しがたいのではないだろうか。
(なんだか悲しくなってきた...。)
■感性を磨くには?
この世に存在するすべてのモノには、裏と表がある。陰と陽。影と光。
でも実はもっと面は存在するんじゃないかな、とも思う。裏と表だって所詮見えている世界。どれだけ小さな物質であれ、両面からも見えない糸や面がクモの巣のように広がっているんだろうな、と思うんですよ。
壁やビルに囲まれ、朝から晩までタスクをこなし、残りの時間をSNSで過ごす私たちが見えるモノしか信じない価値観になってしまった理由は明白である。
本来は、一人ひとりが全く違う考えや価値観を持っていてもいいはず。
コドモはたまに変なことを言うが、変なことを言うオトナがいたって良いではないか。他の人と同じことに安心感を抱きながら、個性やアイデンティティを求める現代人の矛盾を痛感してしまった。たった今。
そんな社会の中で、1枚でも多くの色眼鏡を外していけたらなと願うばかりです。そして、裸眼でみえる世界を表現できたらどれほど幸せか、
ドキドキしてきますね。
サポートしようかな、という気持ちだけで結構うれしいです。いつも読んでくれてありがとう。