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ポリフォニック・ダイアローグ-『ケアする対話』を読んで-

シリーズ「ケアをひらく」から7冊の本を購入し、読む気満々だったのに、つい別の本をポチってしまい、昨日一気読みした『ケアする対話 この世界を自由にするポリフォニック・ダイアローグ(横道誠、斎藤環、小川公代、頭木弘樹、村上靖彦)』。

想像以上におもしろかったので、感想をまとめておきたいと思います。

こちらは、共著というわけではなく、ケアと当事者性をテーマにした、4つの対談・鼎談と、横道さん、斎藤さん、小川さんのミニ講義を収めた一冊です。

まずはじめが、横道さん×斎藤さん×小川さんのパート、「対話はひらかれ、そしてケアが生まれる 物語・ユーモア・ポリフォニー」。
それぞれによる<ミニ講義>部分があってから、3人の鼎談へと続きます。

対話に関心があるので、斎藤さんによるミニ講義「オープンダイアローグ入門」からの学びが大きかったです。中でも、ODの七つの原則のうちの六つ目と七つ目。専門家ではないのでODの場をひらくことはありませんが、普通の対話の場でも生かせる原則なので、心に留め置きたいなと思いました。
引用します。

六つ目の「不確実性に耐える」という原則が一番大切です。・・・「ネガティブ・ケイパビリティ」とほぼ同じことですね。つまり、治療のプランを立ててはいけないということです。綿密な予定を立てても、治療のプロセスの中で逸れていくから、プランを立てる意味がないという考え方です。これは、ケアにとっても治療にとっても革命的で非常にラディカルな原理といえるでしょう。・・・ネガティブ・ケイパビリティにしても、不確実性に耐えるということにしても、ゴール思考ではなくプロセス思考であるという点が、共通しています。ケアのプロセスをいいものに磨き上げていけば、結果はあとからついてくる。ODにおいて治療とか回復というのは全部おまけ、副産物みたいなものですね。対話の目的は対話それ自体なんです。」

(P39-40)

七つ目の「対話主義」は、対話自体を目的化するーもっと言えば、対話さえ続いていれば何とかなるという、一種楽観主義のことです。但し、議論、説得、説明、アドバイスなどは対話ではありません。これらはすべて結論ありきで、それを相手に飲みこんでもらうためにするモノローグです。それから、「正しさ」や「客観的事実」も有害な概念です。・・・対話というのは主観と主観の交換ですから、いかに相手の主観をみんなで共有するかということを考えます。よく妄想を持っている人の主観を大事にしたら、その妄想がどんどん育ってしまうのではないかという疑問を持つ方がいますが、幸いなことにそうはなりません。・・・こちらがいっさい反論もせず、反証も挙げず、ただ妄想的な訴えを丁寧に聞いて、「私はよくわかりませんから、もっと詳しく教えてください」といった応答を返していくと、なぜか「正常」化していくんですよ。」

(P41)

そして、小川さんのミニ講義。私が「ケア」に興味関心を持ち始めたきっかけが、小川さんの本でした。どうしてそれほど「ケア」に惹かれたのかという問いに対して、ちゃんと言語化していなかったのですが、こちらのミニ講義をとおして、ネオリベラリズム的な「自立した自己」が評価されがちな価値観や正義の倫理的な価値観に疑問を感じており、自己と他者がつながって対話をしていくといった、ケアをベースにした価値観やケアの倫理に惹かれたのだと改めてその答えがはっきりしました。

私が昨年上梓した『ケアの倫理とエンパワメント』(小川、二〇二一)という本―その議論の出発点となった、一九八〇年代に書かれたキャロル・ギリガン(Carol gGiligan)の『もうひとつの声で』(川本ほか訳、二〇二二)という本があります。彼女が目指していたものは、先ほど斎藤さんがおっしゃっていたような、まさに主観と主観の交換ということであったり、あるいは自己と他者がつながって対話をしていくといった、ケアをベースにした価値観をもっと評価していくことでした。そもそも、その時代の発達心理学というのは、例えばローレンス・コールバーグ(Lawrence Kohlberg)いう人が確立していたような自立した自己をベースにした理論や倫理がもてはやされていたんです。いまのネオリベラリズム的な価値観でも、同じように、自立した自己といったものが評価されがちですが、ギリガンは一九八〇年代から関係性をベースにした価値観というものを見なおそうとした人物でした。

(P45)

横道さん×斎藤さん×小川さんの鼎談では、横道さんが当事者研究や当事者創作、自助グループやODの実践者の立場から、斎藤さんが精神科医の立場から、小川さんが文学研究者の立場から発言されていて、対談なのでわかりやすく、当事者研究とODとケア倫理の関係が縦横無尽に展開されるとても刺激的なクロストークでした。斎藤さんの発言からの学びが大きかったので、付箋を貼っていた部分を引用します。

こういった動き(※高齢者ケアにおけるユマニチュード、依存症業界におけるハームリダクション、ホームレス支援の業界におけるハウジングファースト)が同時多発的に起こってきたことには非常に大きな意味がありますし、私はこれらすべての背景に「ケアの倫理」という発想があると思っています。ユマニチュードやODに共通する倫理の特徴は、「倫理的であることが治療的である」という発想だと思います。「人間の尊厳、自由や権利を尊重していくことで結果的に回復が起こる」といった発想が根底にあって、メンタルヘルスを考えるときには、もうこれだけで充分なのかもしれません。逆に、今まで精神科の治療現場で行われてきた実践の根底には、例えば精神病の急性期などには、多少は自由や尊厳を犠牲にしてでも強制入院させて治療すべし、という考え方があったように、倫理よりも治療行為を優先させるという発想が当然でした。そういった発想から決別して、徹底して倫理性を追求したほうが回復が起こりやすくなるということが主張されている。これは非常に大きな価値転換になると考えています。  今起こっているケアのムーブメントについての説明をしたうえで、セラピーかケアかといった命題に対してはケアで充分だと思う、という答えを改めて表明します。別の言い方で、「キュア(治癒)からケアへ」という流れが、医療業界全体にあると言っていいと思います。治療主義からQOL(生活の質)全体を考えたケアの思想でやっていこうという発想が活発化しているし、まさにこの『唯が行く!』らいう本自体がケアの思想に貫かれていることを感じながら読ませてもらいました。

(P69-70,斎藤さん)

まさにこの双方向性の変化という点は、対話の原理でもあり、両者のあいだで行われたものが対話であったかどうかは、お互いに変化が起きているかどうかで検証できるとも言えます。通常の治療モデルでは、治療者側は変化しないまま患者さんだけが良くなっていく一方向の変化を期待するわけですが、対話はどうしても双方向性に変化が起こってしまう。こうしたことが、小川さんがおっしゃる多孔性、横道さんのおっしゃる「明け透き」の理論に通ずるのではないでしょうか。これらの語彙が入ってくるとケアの倫理はますます豊かになっていくように思いました。

(P84-85,斎藤さん)

この後、「ケアする読書会」と題した鼎談が続きます。横道誠さんの『唯が行く!』『ひとつにならない』、小川公代さんの『ケアする惑星』、斎藤環さんの『「滋養的自己愛」の精神分析』『100分de名著 中居久夫スペシャル』、それぞれの新著を携えての鼎談です。

ここでは、サブタイトルにもなっている「ポリフォニー」についての言及が印象に残っています。

なぜポリフォニーがよいのか。ポリフォニーは隙間、余白が多いのです。ポリフォニーの対義語にあたるのがハーモニーと言われます。ハーモニーの場合は、一つの調和した意見が全体を支配するという状況で、一見すごく満足度が高いように見えますけど、実際には余白がなく、個々人の意見も微妙に抑圧されてしまっていることが多いと思います。「本当はちょっと違う気もするけど、一体感の気持ちよさに水を差すのもなんだから」みたいな妥協、譲歩があり得るでしょう。ポリフォニーのほうがはるかに隙間が多くて、その隙間において当事者は自分の主体性や自発性を回復するとされています。しかし、難しいのは、われわれ日本人―とあえて言いますけれども―の臨床家がODをやると、どうしてもハーモニー志向になってしまい、ついつい先に発言した人の意見に同調してしまう。「そうですね」とか、つい言ってしまって、その後、反対意見が言いにくくなります。

(P97,斎藤さん)

そして、これは、個人的な関心にもとてもつながるところなのですが、以下の引用部分にある「身体感覚のレベルで感知されてしまう罪悪感」について。これうまく説明できないんですけど、むちゃくちゃ重要な指摘だと思っていて、私自身ここで言語化していただいて、とても救われたというか、そうかそうだったのかとひざを打つ感じなんですね。ここでは男女差という観点で述べられていますが、この引用のあとで、斎藤さんが「そういう身体感覚は遺伝子レベルで決まっているのではなく、成育歴の問題だろうと思います。」とおっしゃているように、どちらかというと成育環境ではぐくまれるものではあると思いますが、自然と感じてしまうこの罪悪感に苦しんでいる人は相当数いると思っています。しかも無意識レベルで。

私も本質主義ではありませんけど、男性と女性の間にどうしても埋められない断絶を感じるのは、まさに罪悪感の多寡という問題で、この点で私を含むすべての男性は女性にかなわないように思います。身体感覚のレベルで感知されてしまう罪悪感については、ほとんどの男性は想像もつかないでしょう。ただ、こうした罪悪感もケアの倫理の大事な要素かもしれないと考えています。弱っている人を前にしたら、反射的に身体が動いてしまうような、そういった感覚を受け取れない男性は、どうしてもケアといっても頭で考えたケアになってしまうのではないでしょうか。では、どうしたら女性レベルの罪悪感も含めたケアの倫理を身に付けられるか。ここには容易には解決できないギャップがあると思います。ただ、ケアの倫理にも副作用がないわけではないと考えていて、それがゆきすぎれば依存症のイネイブラーになってしまったり、ヤングケアラーの問題につながったりする側面はあるでしょぅ。現実問題としてはバランスということを考えざるをえません。

(P162-163,斎藤さん)

このほかにも、読書会パートでは、精神科医中井久夫さんとケアの倫理の親和性についての考察もとてもおもしろかったです。

ここまで本のほぼ8割を占めていますが、この後「「当事者批判」のはじまり」と題した、横道さんと斎藤さんと頭木さんの鼎談が続きます。

ご自身の病気を自らの著書で文学として描いた横道さんと頭木さんの仕事を斎藤さんが「当事者批判」と名付けて、クロストークで語られていきます。

精神医学の方法論で天才や傑出人の創造性の秘密を解き明かそうとする病跡学という学問があって、そのアプローチを反転させたのが「当事者批判」であると。お三方それぞれの談から、私が付箋を貼った部分を引用します。

私自身は、まさに文学作品を多読することによって、他者への想像力を磨きました。多くの人にとっては、発達障害者が地球外知的生命体のように感じられるわけですが、逆にこちら側から見ると、私たちがまっとうな地球人で、全体の一割日下の少数派です。圧倒的な多数派、つまり「定型発達者」と言われる人たちは、地球外知的生命体に感じられてしまう。私は、その謎の生命体たちが構築した人類社会を、文学作品の読解を手引きとして、理解してきたと言えると思います。文学作品では、人間の心理メカニズムの秘密が、実に多彩なやり方で、きわめて詳細かつ具体的に解明されていますから。

(P204-205,横道さん)

二〇年ぐらい前のアート業界では、アウトサイダー・アートブームがありました。・・・日本の現代アートでも、「自分はこんな幻覚を持っていて」みたいなことをあえて偽装する人が出てくるぐらいブームが過熱していて、蜷川実花さんのように「自分はトラウマもないし病気もないし、これでいいんだろうか」などと、健康コンプレックスみたいなものを抱いてしまう人まで出てきた。そういういびつな状況の中で「自分にはこれがリアルなんだ。これしか表現できないんだ」という切実さを持って表現することを才能だと思う人々がいたわけです。病むことでそうした才能が開花する、みたいな幻想があった。アウトサイダー・アートブームには一定の功績があったと思いますし、分野としても定着していますが、残念ながら「当事者」という視点は希薄だったと思います。ただ、当事者性を踏まえた作品を作るにしても、単にマジョリティの感覚から外れた作品を作ることが純文学なんだという勘違いになってしまうとちょっとまずいと思っています。それこそ頭木さんや横道さんのようなさまざまな体験を踏まえた感性があることを踏まえたうえで、自分の中にある特異なプロセスをうまく賦活できればそういった作品ができるだろうし、当事者性って、何も病んだこととかハードな経験をしたとか、そういうことばかりじゃないですよね。

(P208-209,斎藤さん)

僕らは病気や障害があるから目立つだけで、そうではない人たちも全員やっぱり当事者だと思うんです。足を怪我した人が、いつもの道を歩いて、デコボコしているとか傾いているとか、初めていろんな問題に気づく。それを聞いて、「ああ、そうなんだ」と、他の健康な人たちもそれに気づく。健康な人たちがつまずいていたのも、じつはそのせいかもしれない。だから、われわれのような存在がきっかけとなって、全員が当事者だということに気づいてもらえればいいんですよね。何も特別な存在である必要はないし、全員が当事者だということのほうがむしろ重要じゃないかと思います。

(P210-211,頭木さん)

なぜ、この3か所に付箋を貼っていたのか。
今の自分自身が「定型発達者」で「健康」なマジョリティの側であることを思い知らされたから。ここで、あえて思い知らされたと表現したのは、斎藤さんが例示された蜷川実花さんの「健康コンプレックス」みたいな感覚がすごくわかるから。で、最後の頭木さんの「何も特別な存在である必要はないし、全員が当事者だということのほうがむしろ重要じゃないか」という言葉に、前回のnoteで紹介した白石さんのほぼ日でのインタビューで「正常か変かでなく、数が多いか少ないか。」っておっしゃってたのをふと思い出して、そっかそれだけだった、数の違いがあるだけで、誰もが当事者なんだということを最後に思い出させてもらったのでした。

その後最後のパートは「異なる世界をつなぐ 創作と研究」と題した、横道さんと村上靖彦さん(精神病理学、精神分析学の研究者)の対談で、横道さんの『唯が行く!』を土台に、村上さんが横道さんに問いを投げかけ、当事者研究や当事者批判にの側面から深めていくといった内容でした。

まとめ

ほぼ、中身については詳しく確かめず、タイトルとサブタイトルにひかれてポチッとした本でしたが、私にとってはすごく中身が濃くて深くて、初めて知ること万歳で、学びが深い本でした。

「はじめに」で、横道さんが「本書は多様なサブテーマが埋め込まれており、さまざまな事柄に話題が及ぶため、読者の知的好奇心を刺激して、もっと学びたい、知りたいと読書欲を高めてもらえればありがたい。さらには読者が、自分でもケアにあふれた対話をやってみたいと思って、一歩踏み出していただければ、これ以上の喜びはない。」と書かれていますが、まさにまさに、その期待通りの読者になった人が、ここにいます!と叫びたい。

「ケア」についての探究とともに、対話の学びを進め、対話の場をひらこうと準備中なので、この本のおかげで、ますます気持ちが高まったのでした。

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