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ガキの使い「笑ってはいけない」に見る罪の清算と制裁で成立する社会

 実家から家に帰ってきて、お正月のテレビ番組を見返していたらあることに気が付いた。

 番組はガキの「笑ってはいけない」で、恒例の方正が蝶野にビンタされる件のところだった。毎年見るけど、この場面だけは何が面白いのかよくわからない。

 基本的にこのコーナーで起きる批判は、「これはいじめである」もしくは、それを助長するものであるという批判だと思っていて、僕もその線で認識しようとしていたのだけれど、なんだかちょっと違和感があった。

 その違和感は、このコーナーがいじめという文脈よりも広いカテゴリーである社会という文脈に即していたからかもしれないと思い始めた。そう考えてみると、このコーナー、ひいてはこの番組が扱う「笑い」の目線というものが少しだけ見えるような気がしていた。とはいえ、これは自分自身が感じたことで、確かな文献的な裏付けがあるわけではないので、まぁ気になったことをぽつぽつ書いていくという感じにしたいと思う。

 今回は、メンバーが打ったゴルフボールが蝶野に命中した犯人捜し。まずは嘘つきであるかどうか、つまり正直者であるかどうか問う。ここで言い逃れが出来ない様にする。

 さらに、ゴルフが下手な奴が犯人だとして、ゴルフの腕をパターではかる検証実験をする。とはいえ、ボールは遠隔操作なので、方正以外のメンバーはカップインし、方正は外れる。

 結果が決まっているにもかかわらず、公正を称するために競争をさせる、いわゆる出来レースは、社会においては当たり前のようにおこる。某N関係番組の制作会社で働いていた頃、自分も経験したことがある。とある企画のコンペで、担当するプロデューサーとディレクターがすでに裏で決まっているという「紐づき」と呼ばれるものがあったし、上の人がこっそり「あの企画は(絶対に通らないから)提案を書かないほうがいいよ」と教えてくれたりしていた。

 そのようにして仕組まれた中で犯人にさせられた方正は、先ほどの正直者であるという前提が余計に首を絞める結果になり、謝罪を要求される。卒業式でみんなの喜びを台無しにするところだったと、これもまたいわれもないことで、責められる。

 ダメ押しは、ビンタをする(罪を清算する)まえに、それを許すために、牛乳をすべて飲み干せという条件を出すところだ。この時点で方正はすでに罪を認めていることになっており、本人も知らず知らずのうちにそれを納得している。またこの牛乳にも仕掛けがしており決して飲み干せない様になっている。

 何かを成立させるために、何の関係もない人間に対して、意図的に罪を作り、それを清算、もしくは制裁して責任をとることで収拾をつけるというやり方は、政治でも学校でもあらゆる社会において行われている。

 これを笑える人間は間違いなく強者であり、笑えない人間は弱者である。このコーナーの目線は、間違いなく強者の視点で作られており、方正のあのニヒルな笑いは弱者を象徴している。ここでいう強者というのは学校で言うならスクールカースト上位層、会社で言うなら上司、政治で言うなら役人や総理ということなのだろう。この番組では弱者が強者の視点を持つということろに「笑い」の可能性を見ているのだろうが、こうしてみるとなんとお寒い構造なのだろうと思う。実社会では弱者だが、テレビの向こうがわにはさらなる弱者がいることで、相対的に強者になったと思い込むことで笑うという構造は。

 基本的にこの類の理不尽は、経済的、もしくは社会的地位のために利用されるけれど、この番組おいては「笑い」のために利用されていたというだけなのだけれど、なんだかひどいものだなぁと思ってしまった。確かに、「笑い」には絶えず差別的なものがつきまとっているのはわかるのだが、この「笑い」に関しては視聴者の視点を意図的に操作する点で下品だなぁとおもった。

 また一つ世界が大嫌いになったのであった。

チョコ棒を買うのに使わせてもらいます('ω')