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娘の雨傘を買った話

「明日のお天気、雨かなぁ?」
 夜、天井のライトをちいさく灯してベッドへもぐりこむと、もうすこしで4歳になる娘が言う。ぱちり、と大きく瞬きした瞳は、暗闇の中で溢れそうな光をきらりと灯している。こぼれた輝きをまっすぐに受けながら、私の言葉で残念がらせてしまうのがわかって、ちくりと心が痛む。
「明日は晴れるみたいだよ」
 夕方の天気予報でそう言っていたと伝えると、「そっかぁ」と気の無い返事をしたあと、娘は深くため息をついた。ほんのりと力を入れている細い眉の間に、米粒ほどの陰影が付く。
「何回、夜に寝たら、雨ふるかなぁ」
 と、ひたいを近づける娘に、明後日は雨予報だったよ、と伝える。
「あさっては、何回寝たら、あさって?」
「今日と明日。2回寝たら明後日、雨だと思うよ」
「そっかぁ」
 2度目の相槌は、わずかに弾んでいた。
「雨、はやく降るといいね」
 そう言って、短く切った娘の前髪を指で撫でる。くすぐったそうに笑う顔を見て、私はそっと、雨を乞う。

 待ちに待った雨は、天気予報の通り2日後に降った。
 目覚ましが鳴っても起き上がれないでいる私や夫をよそに、娘は窓に貼りついて、
「お外! 雨がふってるよ!」
 と、朝一番には大きすぎる声で言った。
 娘が飛び跳ねていると、私の隣りで丸まっていたふとんがごそごそと動き、「雨降ったかぁ、よかったねぇ」と夫の間の抜けた声が聞こえた。その夫の頬を娘はぱちぱちとたたき、
「もう朝だよ、おーきーてー」
 と言う。くく、とふとんの山から聞こえ、
「それ、かかの言い方と一緒じゃない?」
 と笑う夫の腕を、娘が「よいしょ、よいしょ」と引っ張っていた。

 娘は早かった。
 ニュース番組に気をとられることなく食事を済ませ、保育園へ持っていくリュックの中身確認し、「かか、コップとしょっき、入ってないよ!」と言う。お昼寝用のおむつをリュックに入れ、ゴールデンウィーク中に衣替えして出しておいた、ピンクのボーダーTシャツに腕を通す。その上に、4月から着ている紺色の制服を羽織る。
 いつもの倍近くの速さで保育園へ行く準備を終えた娘は、靴箱から赤い長靴を取り出した。座り込んで、片方ずつ足をねじ込む。
 リュックを背負って薄暗い玄関で仁王立ちする娘は、
「かか、できたよ、早く行こう」
 と足踏みをして急かす。
 夫と目を見合わせて、「いつもと立場が逆だね」と言う。朝ごはんの食器を洗うことを諦め、シンクへ置いて水に浸した。ソファに投げていた洗濯済みのタオルは帰ってからたたむことにする。夫も、今日は仕事靴を磨かずに靴べらを手に取っている。
「よし、じゃあ雨なのでこれをどうぞ」
 そう言って夫は、靴箱に入れていた新しい傘を取り出した。娘はこみ上げる気持ちを抑えきれないのか、何度もその場で飛び跳ねる。大きめの長靴がこぽこぽと音を立てた。
 先週末、ショッピングモールへ、娘にとってはじめての雨傘を買いに行った。アイスクリーム柄と悩みに悩んだ娘は、「こっちの、水色のハンドルがいい」と言い、真剣な顔をしてレジへ持っていっていた。クリーム色の生地には、カラフルな恐竜が描かれている。店員さんから傘を受け取った娘は、その日ショッピングモール内を歩くときも、帰りの車内も、夕食で出た鮭のホイル焼きを食べるときも、片時も目を離さず、はじめての傘をそばに置いた。

 娘は小さな手でその傘を両手でうやうやしく受け取り、ししし、と笑いながら、2、3回小さく飛び跳ねた。
「行こ!」
 そう言って、手を引かれながら走る。
「ききーっ」と車のブレーキ音を真似た娘の声とともに、軒先で足を止める。雨と泥の混じった匂いが全身を包む。いつもの雨の日と同じように、一歩踏み出せばまとわりつく湿気や、べったりと張り付くシャツや、足元を跳ねる水を想像して一瞬気が滅入るけれど、厚い雲を見上げて目を輝かせる娘を見て、ふっと肩の力が抜ける。
 後から追ってきた夫が、パンッと張りのある音を響かせた。娘ははっとして、手に持った傘のマジックテープをビッと外す。ぎゅっと力を込めて開かれた傘は、ぱたた、と音を立てて濡れた。
「傘だぁ! ちょうりゅう、たくさん見えるねぇ」
 曇り空の淡い光に透けた恐竜を、娘の手が傘の内側から撫でる。落ちてくる水滴を指でなぞり、手の上に乗せる。
「雨、つめたぁい!」
 雨の中、かっぱを着て歩いたり、私の傘へ一緒に身を寄せたりしたことは何度だってあるのに、今日、はじめて雨の日を知ったような顔をしていた。

 濡れたアスファルトを歩く。
 娘は背筋を伸ばし、しっかりした足取りで、傘をキュッと持ち歩んでゆく。私はその横で、すこしだけ心が震える。
 傘を持つと両手がふさがり、娘と手を繋げない。まっすぐ前を見ていると思われる娘の表情も、傘に隠れて見ることができない。横顔すらも見えない今、娘はどんな顔をしているのだろう。
 たったそれだけで、毎日手を繋いで歩く道がまったく違って見えた。
「道の端を歩いてね」
「後ろから車が来てるよ」
「傘ばっかり見ずに、前も見てね」
 慣れない重みで、45センチのカラフルな傘は、風になびくようにふらり、ふらりと揺れる。
 その傘が動くたび、堪えつつも口うるさくしてしまう自分がすこし悲しくて、それでも絶対に危険にはあってほしくなくて、その間で心が揺れる。
 横断歩道を前に足を止めた。娘も「しんごーう、あか!」と言いながら、私の横にピタリと足を止める。
 1メートルも離れていないところで車が行き交う。ジャ、と水と砂利の混じった音を聞いて、こんなにもはらはらしたことがあっただろうか。たくさんの自動車が、水たまりの上を音を立てて通り抜ける。その度、雨の匂いが強まった。
 もしも、娘が何かのはずみで飛び出してしまったら。車がこちらに向かって走ってきたら。薄い不安のベールに、全身が包まれる。真剣な眼差しを信号機に向ける娘を、私はずっと見つめていた。

「かか、しんごう、青よー」
 え、と声が漏れた。前を見ると、歩行者信号が青に変わっている。どうして進まないの、という顔をして見上げる娘に、行こうか、という。娘の顔がぱっと明るくなり、「うん!」と返事をすると「みぎ見てひだり見て、もう一回みぎ見て」と言ったあと、大股で歩き出した。
 斜め前を歩く娘は、雨の日も変わらず白線だけを踏んで歩く。
 私がいくら心配をしても、いつまでも手を握っていられないのだ。きっと、その方がいいのだろう。びりびりと頭が痺れるほどの過度な心配を、そっと奥にひそめる。
 跳ねるように足を出すたび、びしゃり、びしゃりと水飛沫が光る。
 私が、あなたの足枷になりませんように。私の心を知らず、どうか前へ前へと進んで欲しいと思う。


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