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なんでもない日にケーキを買う話

踏んだら痛いことは知っていた。
現に、ジンジンとした痛みが私の足裏に広がっている。

カーテンを開けると、リビングに散乱したカラフルなブロックが色あざやかに映った。惨状を知っていたのに、娘がねむる横ですべてあきらめて目を閉じた昨晩の自分を、苦々しく思う。

重いはきだし窓を開けると、澄んだ空気が足元をすうっとかけ抜けた。
ベランダに出て太陽が差す場所へ手をかかげると、春になりたての光が皮膚の薄皮をほんのりと暖める。

2月に入り、ぽつりぽつりと暖かい日が増えた。
気候の谷間にできた貴重な今日を満喫するため、まだ寝ている娘をどう起こそうかと考えながら、寝室へ向かった。

3歳の娘は、日陰に入ると「さむーい!」と走り、日向に出ると「あったかーい」とじりじり歩く。

おひさまがいるところは暖かいね。春だね。そういうと、
「春ってことは、たんぽぽがあるってことじゃない?」
と、跳ねた声が返ってきた。

それからしばらく、娘は腰をかがめてあたりをきょろきょろと見渡しながら、ゆっくりと歩いた。知らないお家の花壇をじいっと眺め、電柱をくるりとまわり、排水溝の中を覗き込む。その姿は、冬眠から覚めたばかりのこぐまが、あてもなく木の実を探しているようだ。
経緯を知らないひとから見ると不思議な行動も、すれ違うときにちらりと向けられる視線も、娘と過ごすうち存外慣れた。
横に倣って地面に目を向けると、道路脇の青く艶やかな雑草を見た。萌黄色の葉も、三寒四温を繰り返す春の空気をやわらかく纏い、しなやかにのびてゆくのだろう。


ケーキ屋の前には小さなもみの木と茶色いベンチがある。
訪れるたび、娘はそのベンチに座りたがる。
一瞬で降りてしまうときもあれば、目の前を通り過ぎる車をただひたすら眺めるときもある。

はじめて訪れたとき、お店で買ったケーキをベンチで食べたいと娘は泣いた。同じようにケーキを手にした婦人や、くすくすと通り過ぎる学生たちを横目に、その場を動こうとしない娘を説得するのに苦心した。真っ赤になって泣く娘の隣で、きっと私は娘以上に真っ赤になっていた。

おおきな声をあげる娘を落ち着かせようとしながら、ケーキというものは、おいしい飲み物とともにいただくとより楽しめるんだよ、と伝えた。けれど、娘の耳には遠く聞こえない。手を繋ごうとしてはねのけられ、頭を撫でようとして寝転がられた。やっとの思いで、流れる涙の合間をぬい、

「そう、おいしい飲み物……例えば、えっと、ジュースとか」

というと、娘はぴたりと泣き止み「じゅーちゅ?」と呆けた。
コンビニでりんごジュースを手にとり、嬉しそうに笑う娘の頬には、涙の跡がくっきりと残っていた。


「ケーキ屋さん、あった!」と前のめりになる娘に手を引かれ、自然と足取りが軽くなる。娘は入り口のガラス扉に飛びつき、ぐっと体重をかけて押し開ける。リリン、と扉に付いたベルが高い音を奏で、こめかみにじんと響く甘い香りと、店員さんの朗らかな声が迎え入れてくれた。

娘はおおきなイチゴがひとつ乗った、ショートケーキを選んだ。夫には娘が選んだガトーショコラ、私はモンブランを買った。

3つのケーキが入った白い箱を、娘は持ちたいと言った。
手渡しながら、ななめにするとケーキが潰れちゃうから気をつけてね、と添える。

「だいじょうぶなの!ななめにならないの!」

むっとした顔をして、怒りながらそう叫んだ10秒後、白い箱はしっかりとななめになっていた。

いびつになってしまったケーキを見て顔を歪ませる娘をなだめつつ、赤いイチゴがひとつ乗ったケーキをそうっと箱から出す。
ターコイズブルーの平皿に置くと、イチゴの赤と緑がかった青がよく映えて、私はひとりで満足する。

娘はおおきなイチゴをひとくちで食べた。
口から出ないよう、フォークを置いて、そっと両手の指先で口元をおさえる。リスのように膨れた頰は、しばらくもこもこと動いて、最後にごくりと喉が鳴った。

モンブランを一口放り込み、もう一度娘を見ると、フォークを持つ右手にべったりと生クリームがついていた。
ティッシュペーパーを差し出しても、スポンジについている生クリームをはがすのに夢中な娘は、がんとしてケーキから目を離さない。だって、目の前にあるケーキは、甘くて、酸っぱくて、ふわふわしていて、余すことなく娘がだいすきなものなのだ。

食べ終わってから拭けばいいかと諦め、先ほどたどった春の日を想う。

今日、久しぶりにコートを持たずに外へ出た。
いつもより身軽な娘は、ツーステップを踏むようなスキップをしたり、突然走ってすがすがしい風に身をゆだねたりしていた。

帰り道、赤信号に遮られ、わずかな時間立ち止まった。
正面からぶつかる春風に好き勝手頰を撫でられ、くすぐったそうに目を細めて笑う娘の横顔を、私はきっと、ずっと覚えている。


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