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残したい景色はいつも目の前にあって、嵐のように去る話

無謀にも、「覚えておきたい」と思う。
人は忘れる生き物なのに。

外に出ると、3歳の娘と私は手を繋ぐ。
玄関を出て、娘は左手を差し出す。目は行く先のみを見ている。
娘の頭の横で宙に浮いている小さな手は、握り返されるのを静かに待っている。その手をぎゅっと掴むと、弾かれたように駆け出す。

待って、早いよ。そう言って、娘の揺れる髪の毛と、きゅっと上がった頬を斜め後ろから見る。喜びが、小さな身体からぽろぽろとあふれて笑い声になる。娘の奏でる音は、私の耳を通って胸のあたりに入りころころと鳴る。
時折振り返って、私に視線を向ける。笑っている私を見ては、娘は何度も声を弾ませる。

一本道をしばらく走り徐々に速度が落ちた頃、頬を赤くした娘が「娘ちゃんの、勝ち?」と言う。
肩で息をしながら私の目を見つめ、いつもと同じ答えを待っている。
玄関を開けて外に出るたび、毎日、同じことを繰り返している。

娘は2歳の誕生日を迎える前に、保育園へ入園した。
入園から2年間、行き帰りは手を繋いで歩いている。

入園したての頃、娘は私の人差し指と中指をつかんで歩いていた。娘の小さな手は、たった2本の私の指を掴むのも精一杯だった。ふらふらと歩く娘の手を強く握りすぎていやしないかと、汗ばむ手を何度も握り直した。
2年経ち、娘の手はひとまわり大きくなった。今では指をつかまず手を繋ぐ。その手を握る強さを迷うことは、もうない。

周りを見る、車を避ける、道の端を歩く、赤信号は止まる。
いつの日か信頼して離すことができるよう、今、手を繋いでいる。

保育園の入り口で娘と手を離す前に、一度だけ親指で娘の手の甲を撫でる。
しゅるりと滑る絹のような肌。ぷっくりと膨らみを持った手がいつの間にかすらりとしたことに気づいた今も、その習慣は変わらない。
あのとき確かにあったはずの手が、もう私の記憶の中にしかないというだけのことだ。

娘を前に「今の瞬間を覚えておきたい」と思うこともあれば、離れている時に、ふと思い出すこともある。

ひとりでバスに揺られているとき、散歩中の見知らぬ親子を窓の外に見た。たどたどしく芝生を踏みしめる小さな子ども。子どもは自分の足元しか見ていない。ふら、ふら、と足を踏み出すたび、手を繋いだ母親は、確かめるように顔を寄せてしゃべりかけている。

バスが発車すると、その親子は視界から姿を消した。
ビルとマンションが並ぶ通りを抜ける。隙間から夕暮れの空が見えた。トンネルに入り、オレンジ色の照明から駆けてゆく光の尾を目で追う。視界から消えたはずの知らない親子の姿は、まだ脳裏に薄く漂っていた。
大きく聞こえるエンジンの音が全身に響く。その音に紛れて、遠く、もう掴めないはずの昔聞いた娘の声が、内緒話のように耳たぶへと触れた気がした。

そこにいない君を、時間や距離が遠く離れてから、強く想ったりする。

そして「最後のとき」がいつの間にか過ぎ去っていたことを知る。
当然のようにあった毎日は、すべてが異なっていたことを。日常を日常にしていたのは、自分自身であったことを。同じだと思っていた景色が、いつも気づかないうちに見えなくなってしまっていることを。

見て、触って、聴いて、その感覚を残しておきたい。書くという作業で、何度も思い返して、だんだんと色濃くなってゆく。
頭の中の記憶と、目の前に並ぶ文字に刻まれる。

すべてを拾うことなどはじめから求めていない。
そもそもとめどなく溢れて、きりがない。
ふとした時にその記憶に触れることができるよう、途方もないけれど終わりのくる、不確かな時間をすこしだけ切り取っている。

残したいと思った瞬間からゆるやかに、けれどカメラのシャッターを切るよりもはやく、その景色は指の間からさらさらと砂のようにこぼれ落ちてゆく。
切望するような「最後のとき」は、きっと知らないうちに訪れる。

瑣末で、それでいて切実なストーリーをいくつだって書きとめておきたい。
残したい景色はいつも目の前にあって、嵐のように去るのだ。


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