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振り返った娘と目が合う、5秒前の話

 両足を投げ出して床に座り、時計を眺めて途方に暮れる。
 規則正しく進む針は、頭の中で数えるよりも随分はやく時を刻む。
 ちく、たく、ちく、たく。
 秒針の音はおおかたそう表現されているけれど、誰もが、いつでもそう聞こえているのだろうか。
 少なくとも今の私にとっては、ちく、ちく、ちく、ちく、と耳の奥へ柔らかい針を打ち付ける音に聞こえる。1秒おきに増えるその針の先から、得体の知れない生あたたかいジェルを注がれているようだ。ジェルは脳天からじわじわとしたたり、やがて全身を包もうとする。頭が重く、びりびりと痺れる。振り払うように、リビングのソファを隔てて反対側にいる娘へ声を掛ける。
「ねえ、うさちゃん寝た?」
 娘は勢いよく振り返り、
「かかさんが大きな声出したから、うさちゃん、赤ちゃんだから起きちゃったよ!」
 と言う。ええ……、と言いよどむ私をよそに、娘はむくれた顔をすぐにうさぎへ戻す。
「だいじょうぶよ、ねんねよ」
 と顔を近づけて、やさしくささやく。うさぎのお腹の上にかけた、ふとんがわりのハンドタオルを指でピッと引っ張り、しわを丁寧にのばす。小さな手は、胸のあたりでトン、トンとやさしく音を刻みはじめた。

 15分ほど前に、そろそろ寝る時間だと伝えながら「歯みがきをする時間、今日はどうする?」と聞いた。
 うーん、とすこし悩んだ娘は、
「うさちゃんが寝たら、歯みがきする」
 と言った。娘が自分で言葉にした約束は、だいぶ守れるようになってきた。
 待とう、と決めたのだ。

 娘はずっと、眠ることが苦手だ。だいたい、歯みがきを嫌がり、ベッドに入る時間が遅くなる。
 3歳になりたての頃、歯みがきをしたくないと逃げ回る娘に理由を問うと、「歯みがきをしたら、すぐ寝るでしょ。寝たら遊ぶ時間が少なくなっちゃうから」と言った。
 
 娘に「何かをしてほしい」と思ったときに、その伝え方に苦心する。
 試行錯誤を繰り返している中、ぽろりと見かけた“子どもの夜型化”、“3歳、理想の睡眠時間”の文字。親戚からかけられたことば。私の根底に潜めている思い。
 ちく、ちく、ちく、ちく、と刻む音を聞くたび、それらを思い出しては重く沈んでしまいそうになる。

 右足の近くには、乱雑に重なった2冊の本があった。後から一緒に本棚へ片付けようと思いながら、大きさの異なる絵本の背表紙を揃える。
 ひとつは昨年の夏に買った昆虫の図鑑だった。毎週のように木の生い茂る公園へ行き、セミやカミキリムシを探していた。
 年が明けて冬が過ぎ、春になった保育園の帰り道、自動販売機の横に生えたヒナゲシに赤い小さな昆虫がいた。
「みて! かか、てんとう虫いた!」
 娘はしゃがみこみ、細い茎をふるふると登るナナホシテントウを見ていた。しばらくして薄い朱色の花弁にたどり着いたのをみて、立ち上がって「ばいばい」と手を振った。
 自動販売機が小さくなるまで、娘は何度も振り返る。
「てんとう虫、ひさぶりにいたねぇ」
 と言う娘に、
「春になって暖かくなったからね。夏になったらまたセミを見れるね」
 と言った。娘は目をくるりと光らせ、
「なつ? 娘ちゃん、今日寝たら、明日、なつになってる?」
 と聞く。
「明日はまだ春かな。100回くらい、夜に寝たらかな」
「えー、ひゃっかいもぉ?」
 そう言いながらもふふふと笑っていて、すこしでも昨年の夏の日を思い出してくれていたらいいなと思う。
 家に帰ると本棚に飛びつき、冬の間あまり見ることのなかった昆虫の図鑑をぺらりぺらりとめくっていた。そこから毎日、図鑑を眺めている。

 もうひとつは今年の3月に叔母からもらった絵本だった。表紙には黄褐色の細い枝に淡い薄桃色の花が散りばめられている。
 今年も花見には行けないと思うからと、娘の進級祝いに叔母からもらった桜の本だった。なかなか会う機会を作れず、叔母と娘が顔を合わせたのは1年ぶりで、叔母はしきりに「大きくなったね、元気そうでよかった」と繰り返していた。

 そんなことを思い出し、娘のまるい後頭部を見ていると、私を覆っていたジェルはとろりと溶けはじめる。
 すやすやと眠るうさぎのぬいぐるみは、娘が産まれたときにうちへやってきた。そのうさぎも、もう少しで4歳になる。
 娘の小さな手は、静かな部屋で、まだ等間隔の音を奏でている。指先までしなやかに伸びるその手と、うさぎへ向けるまなざしを見ると、そこだけがじわりとした熱を持った空間のように見えた。
 娘がもっと小さかったとき、私もそうだったのだろうか。
 きっと、そうだったのだろう。

 音を刻んでいた娘の手が、うさぎのお腹の上で止まっていた。そろそろだ、と思う。きっと娘は、「ぬちあし、さしあし、しのりあし」と言いながら、つま先歩きでこちらに歩いてくる。
 私は、その娘に声を潜めて言うのだ。
「ちゃんと、自分で言ったこと守れたね」
 そう言わせてほしい、とずいぶん前にペースト状の歯磨き粉をつけた、蛍光ピンクの歯ブラシを握りながら願う。
 こちらを振り返った娘と目が合う、5秒前。


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