私の「何を見ても何かを思い出す」

 今日は、南に向かって散歩をはじめた。

 私が住む私鉄沿線からJR沿線に向かう。緑が徐々に減っていく。家と家の間隔が狭くなり、東西に走る広い道路を越えるあたりになると、ホコリっぽくなり、空気のニオイまで違ってくる。

 自宅周辺では、外で遊ぶ子供は少ないが、JR沿線では大きな声を上げて遊び回っている子供の姿が見られる。人なつっこい子供も多く、通りすがりの私にも声をかけてくる。

「おっちゃん、セミおらへん?」

「今は、まだ5月だ。この辺に発生するセミは、クマゼミが多いが、発生するのは7月である。ちなみに私が好きなヒグラシは……」

 この辺りの子供の特徴として、しつけがなっていないと言うことがあげられる。その子も、まだ私が話しているのに駆けだしていった。せっかくヒグラシの声帯模写をしてやろうと思ったのに、失敬なやつだ。

 実は、この辺りを歩いていると、自転車にひかれそうになったり、おばさん連中が横に広がって歩いていたり、不良がタバコを吸っていたり不愉快なことが多い。だが私は、ときおり散歩で訪れる。決して苦痛ではないのだ。

 人々のエネルギーを感じることができるからか?

 いや、正直に自分の気持ちをさらけ出すと、感じているのは優越感なのかもしれない。下々の連中を見るのは愉快よのおフォフォフォ、などと公家のような笑い声を上げるのが私の楽しみの一つになっているのだろう。

 いや、楽しみは、もう一つある。目の前に、その楽しみの一つが現れた。幹線道路にかかる歩道橋である。

 私は、ある種の感慨とともに歩道橋をのぼりはじめた。あれは、まだ私が高校生だった頃だ。今と同じようにこの歩道橋をのぼりはじめ、ふと気がつくと目の前に女性がいた。赤いミニスカートだった。

 当時のミニスカートは、今のように見えそうで見えないという詐欺のようなタイトスカートではなく、仰角35度から見上げれば、確実にパンツが見えるという本物のミニスカートだった。

 赤いスカートの奥の白いパンツがはっきりと見え、私は「ほお、今私の目に映る赤と白の比率は、日の丸の赤と白の比率の真逆である」と頭の片隅で分析したものだった。

 その先にある公園では、ベンチに座るOLの青いスカートとピンクのパンツを観察し、その先のグランドで見たのは、女子大生のテニスウェアの奥の白いパンツだった。まあ、あれはアンダースコートだったが。

 町を歩けば、無数のパンツの思い出と出会える。それが私が散歩をする理由である。

 さて、ヘミングウェイの作品に「何を見ても何かを思い出す」という短編小説がある。

 主人公(ヘミングウェイ)の息子が小説を書き、学校のコンクールで一等をとる。主人公は喜び、「前に読んだ私が好きだった作品を思い出したよ」と息子に語る。息子は、「父さんは、何を見ても何かを思い出すんだよ」と答える。

 だが、実際には、息子は主人公が以前読んだその作品を、タイトルから本文まで一字一句変えずに盗作したのだった。そのことに気付き、主人公は、息子が一貫してダメな男だったことを知り、悲しみに打ちひしがれるという物語である。

 私は、散歩を続けた。

 町のどこを見ても、当時、その場所で見たパンツを思い出した。私の脳裏に、白やピンクや青や黒のパンツがいくつもよぎった。そんなパンツ見放題の時代は、盗撮が流行り、女性の警戒心が高まる今、もう、決して来ることはないだろう。見えるのは、奥ゆかしさに欠けた、女子高生の汚いパンツだけである。

 ヘミングウェイの悲しみが、私にはわかるような気がした。

 いや、ちょっとちがうか。


 

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