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賑わいは静かに


都心の大型書店は平日でも賑わっていた。書店の賑わいは、穏やかな静けさに満ちている。西山涼が好きな環境音の一つだ。

『集中して探していい?』
隣を並んで歩く友人に問いかけると、彼は表情を変えることなく頷いた。書店に誘ったのは涼だが、別行動はお互いに想定内だった。
『朝陽君もこのあたり見る?』
二宮朝陽が首を傾げ、涼が持つノートとペンに手を伸ばした。
『今日は見ない。適当にいるからごゆっくり』
朝陽は左右の髪を耳に掛けると、さっと向こうに歩いていった。鈍く光る補聴器がよく見えた。


学術書が並ぶ棚から離れると、朝陽はビジネス書が密集したエリアで足を止めた。笑ってしまいそうなフレーズが強調された表紙に、効率性が反映された薄い背表紙。それらを流し見ながら、涼を振り返った。
ビジネス書7冊分はありそうな本を手に取って、涼は何冊かの本を比べていた。時間をかけて選んだ本を読み込んで身にする。それが涼のスタイルだった。人気の少ないエリアのせいか、涼は周囲を気にすることなく本を選ぶことに集中していた。

趣味のエリアでカメラの本をめくり、また歩みを進めていると、首や肩の不快感に気が付いた。ああ、と思ったときには既に遅く、全身の鈍い痺れと脱力感に襲われた。
本棚の縁を掴んで目を閉じてみるが、視界が遮られた方が不安になった。本の隙間に設けられたベンチを見つけると、本棚を伝うように近付いてゆっくりと腰掛けた。
最近、これが多い。以前よりも目に頼るようになって視覚情報を多く取り入れるせいか、普通に過ごしているだけで人の流れや景色に酔うことがあった。最近は書店に出入りしなくて気が付かなかったが、文字だらけのこの空間は、今の朝陽にはまずかった。

肩に掛けたバッグを誰かが叩いて、朝陽は目を覚ました。数分か、それとも一瞬か、意識が飛んでいたようだ。
『気持ち悪い?』
涼は目の前でしゃがみ込んでいた。重力に従うように彼を見下ろすが、満足に目が合わない。
『まだ座ってる?それとも外に出た方がいい?』
でたらめに頷いてみる。どっちでもいいけど、涼に近くにいてほしい。


エレベーターを嫌がった朝陽と横に並んで、涼はしんとした階段をゆっくりと下りた。二人分の足音がぴったりと揃って響いているのだが、隣の朝陽はそれを知らない。
朝陽に顔を向けると、左の目の下が小さく痙攣していた。それに、いつもより背中が曲がっている。

書店を出て一度立ち止まると、朝陽がバッグからノートを取り出した。さりげなく数歩下がって、道の端に誘導する。
『どこかに入って休みたい』
大きく頷いて、こっそりと微笑む。こういうとき、普段の朝陽なら一人になりたがる。書店に誘った涼が責任を感じないように、気を遣っているのだろうか。涼としては悪いと思っても自分のせいだとは考えないので、朝陽の意外な可愛らしさが嬉しかった。

最初に目に入った喫茶店を指差すと、朝陽が頷いた。外観からして、店内は暗めの照明が使われているだろう。できるだけ目に辛くない方がいい。
「こんにちは」
いらっしゃいませ、ではなくこんにちはと声をかけられたことに密かに喜ぶ。涼の好きな店の条件の一つだ。
「こんにちは」
「どこでもどうぞ」
歳を重ねた雰囲気のある店主だった。コーヒーの香りが心地よい。

「あ、ごめん」
メニュー表を開いて呟く。コーヒーの種類が豊富だと思えば、コーヒーしかない店だった。
『コーヒーしかないみたい。今は飲めないよね』
朝陽が首を振ったが、どちらなのか分からない。
「すみません」
店主に簡単に事情を説明する。
「彼は水だけでも構いませんか。申し訳ないんですが」
店主が軽く眉をひそめる。それだけで色気を感じる表情だった。
「ココア、用意しましょう」
「ココア?いいんですか」
「お菓子に使うので、置いてあります。ミルクを多めにしましょう。ああ、彼が飲めるなら」
やり取りを眺めていた朝陽に伝えると、涼に一度頷き、店主に頭を下げた。
『ありがとうございます お願いします』
「お願いします。僕は、これをお願いします」
いつもより少し高いコーヒーを選んだ。ココアの値段が分からなかった。


何を話すでもなく二人でぼうっとしていると、身体の不快感が和らいで手を動かす余裕が出てきた。いつものノートをテーブルに置くと、随分気持ちが安定した。

涼と話すとき、二人は間にノートを挟んだ。スマートフォンに文字を打つ方が速いのだが、元々よく喋る二人ではなかったし、涼との会話に丁度良いテンポが筆談だったのだ。
今では、涼も筆談用のノートを一冊持ち歩いている。それだけで、いつでも話せる状態を作ってくれていることに安心する。

『大丈夫だから』
もう大丈夫、という意味と、お前は気にするな、という意味を込めてペンを動かした。店内が暗いせいか、まだ目が霞む気がする。
『ありがとう』
こういうときに、涼は謝らない。去年は謝ってばかりだった。
水の入ったグラスに触れ、手の平にひんやりとしたものを感じると、素直にグラスを口に運んだ。鬱々としたものが一枚剥がれた気がした。

「        」
先程の店主が現れ、テーブルにコーヒー、ココア、そして四角い焼き菓子が載った皿を置いた。顔を上げて何かを尋ねた涼が破顔したことで、店主の厚意だと分かった。
『サービスしてくれた。食べられそうだったら食べて』
随分と気前のいい店だ。それでいてしつこいことはなく、朝陽には心地よかった。
ココアを一口だけ舐めるように飲むが、吐き気を覚えてカップを置く。多分、ココアでなくてもこうなっていた。
ちらりと目を向けた涼が、ふっと微笑んだ。
『コーヒーおいしい』
たまに無邪気なふりをする涼に去年は苛つくこともあったが、今は凄いと思える。
『香りで分かる。飲むの久しぶりか』
『一年近く』

そうだ、去年の夏だった。そこから春までがあっという間だった。
『あの本読んだ』
『何か読めって言われたっけ』
首を振って苦笑する。
『翔吾が渡してきたやつ』
『読んだ。重いけど、一瞬で読んじゃった』
病室で、だろう。確かに薄暗い雰囲気のある小説だったが、朝陽も読む手が止まらなかった覚えがある。おもしろかった。
『あれ何』
『翔吾が一番かっこいいところもっていった、アピール』
言いながら、涼が心底嬉しそうな顔をする。
『それ、俺も気に食わない』
『別に気に食わないとは言ってない。いいじゃん、実際に結構気を遣ってくれてたし』
「はいはい」
口にしてから、それが声になっていたことに気が付いた。
『うるさい?』
『大丈夫』
たまに、涼の言葉はすごく優しい。今も、朝陽の言葉をぐるっと囲んで大丈夫と言ってくれた。
『朝陽君は?』
『真面目に言うと、みんな生きてたのがよかった。あっちでもこっちでも』
涼の手が止まる。
『そうだね』
『とにかく、生きていてよかった』
少し恥ずかしくなって、ココアを一口飲んだ。普通に飲んだ。
涼が焼き菓子を手に取ると、その手を軽く振った。
『これ何だっけ』
涼が知らないなら朝陽が知るはずもない。ものを食べるときにもえくぼが出る涼が、何故か可愛いと思った。


少し前まではぐったりしていたのか気が抜けたのか、ぼんやりとしていた朝陽だったが、今は普段通りに話していた。血の巡りが戻ったのか、まだ白い顔や首の中で頬だけにほんのりと赤みが差していた。
『知らない。甘いもの好きだっけ』
『甘ったるいのは好みじゃないけど、こんなお菓子は好きだよ』
『惜しかったな、学部生のとき』
『ちょっと羨ましかった』
朝陽が、指で涼が今書いた文字を二度叩いた。その意味は分からないが、朝陽はたまにノートや机をトントンと叩くことがある。
『はずれのときしか呼ばれないのに?』
口元を緩めた朝陽が、補聴器を外した。ようやく見慣れたそれに視線を向けると、朝陽は小さな機械をひらひらと振った。
『それ付けているとどうなの』
『聞こえないけど?』
『耳が痛くなったりするのかなって』
『それはないけど、付けてない方が楽だし』
悲しいな、と思う。人目を気にして実際よりも健康に振る舞うだけではなく、認めてもらうために不調や障壁を誇張しなければいけないときがある。
「ほんと、やめてよね」
こっそりと呟く。声を潜めなくても朝陽に聞こえることはないのだが、喋ったこと自体に気が付かれたくなかった。
『他に、何我慢してるの』
『他』
『いろいろと?』
『いろいろと?言うタイプじゃないのに、お互い』
『お願い』
ゆっくりと書いた三文字に、朝陽は何を感じたのだろう。ノートに目を落として、首を捻った。
『言うほどのことはないよ』
それなら顔を上げればいいのに。
『そういうのが溜まっていくのが一番辛いよ』
『さすが経験者』
はぐらかすなぁ、と少し悲しくなる。朝陽の性格からして涼が彼に苛立つことはないが、まだ朝陽は不安定だ。せめて涼の前では、涼しい顔でいないでほしいと思う。

「涼」
『心配し』
アンバランスな言葉が、紙の上に残された。驚いて顔を上げる。
意識的に出された声は、先程と違って緊張のせいか掠れていた。たまに漏れる笑い声や「うん」という相槌以外で聞く久しぶりの朝陽の言葉には、もう以前の鋭さがなかった。
「ん?」
しっかりと朝陽の目を見つめる。絶対に見逃さない、聞き逃さない。
『いつでも距離取って』
いいから、と唇が後を継ぐ。
その言葉に多少の衝撃を受けたが、すぐに笑いがこみ上げてくる。この人、ばかだな。
『自覚ないの?』
眉を上げて尋ねると、朝陽は反対に眉をひそめた。数秒見つめ合っても、朝陽は何も言ってこない。
『自分の容姿に自信は?』
『何で?』『別に。いいのは分かるけど』
『十分』
やっぱり自覚がない。今、すごくいい顔をしている。
『俺もそうだったけど、まずはこの人かっこいいな、綺麗だなと思って、ちょっと距離取るでしょ』
『知るか』
『愛想悪いし。それで、関わっていくと意外と面倒見がいいとか、不器用なところあるなとか、可愛くなって。しかも、結局かっこいい』
ますます眉をしかめた朝陽が、涼の『面倒見がいい』『不器用』『可愛く』の文字の上にバツを書き足した。『愛想悪い』『かっこいい』が残った。
『そんなこと思ってんの』
『おかしい?』
『センス悪い』
『ご謙遜を』
やってられないというように、朝陽の表情が崩れる。
『この顔じゃなかったらどうなってたの』
『朝陽君じゃないじゃん、分からない。そんなもしもの話』


勝てない。朝陽とはタイプの異なる西山涼に、いつまでも勝つことができない。ただ、それでもいいかと思い始めていた。
『顔が崩れたら?』
『崩れるとは。』『もし何かあっても朝陽君の場合、それさえ味方になりそう』
『涼って意外と』
いや、言いづらい。首を振って今書いた文字に線を引いて消す。
『分かった?そもそも朝陽君に魅力があるんだから、そんな可愛い心配しないで』
それでも、朝陽は言っておきたかった。
『負担になったら本当に、離れて』
『じゃあ言うけど』
心拍がみっともなく焦りだした。
『朝陽君の愛想の悪さとか、分かりにくいところ、去年から全く変わってないよ。そこが一番面倒くさいのに』
震えた息が漏れる。
『改めましょうか』
『やめて気持ち悪いから』
少し泣きそうになっている自分に気が付いた。嬉しい。誰にでも優しい涼の率直な言葉が、嬉しかった。

『話変わるけど』『一緒の部屋で住むの、どう?』
『いきなり』
唐突な提案に戸惑っていると、涼はおかしいものを思い出したような顔をする。そこで、朝陽にも何か引っかかるものがあった。
『読んで憧れたとか言ったら引く』
涼のコーヒーを飲む口元が、何事か言った。
『引かないで。よくなかった?』
『引いた』『まず、人間が違う』
『ここ二人も上手くいくと思うけど』
『俺が、嫌』
書いた文字の下に何度も線を引いて強調する。誰かと住むなんて御免だ。
『研究室でも家でも一緒なのは最悪だろ』
『むしろ便利だと思ったけど』『朝陽君が、あまり家の匂いをさせないから。ちょっと気になって』
『それは。』
それは、何だろう。
『その方が、キャラに合ってるから?』
『まあいいよ。考えてみて』
正直、言われた瞬間は興味を持った。でも、きっと続かない。生活に慣れると、朝陽は一人になりたくなってしまうはずだ。相手が涼であっても。

変な空気になったな、と思っていると、涼がバッグから小さな包みを取り出した。本にしてはおかしい大きさと形だった。
『本屋の』
『そう、さっき買った』
はい、と涼の口が動いて、その包みが朝陽に差し出された。ひとまず受け取り、涼を見つめる。
開けて。
完璧に包装されたそれを開けていくと、落ち着いた色の細長い箱が姿を現した。見当が付いて、そっと箱を開けると、やはり普段使うものとはかなり印象が違う文房具が光った。
『ボールペン』
『ボールペン。』
『何で』
『よく使うから』
『そうじゃなくて、誕生日でもないのに』
『むしろ誕生日に何か渡した記憶がないね』
まだお礼を言っていないことに気が付いた。
『ありがとう』
『どういたしまして』
『もうちょっと説明しろよ』
言葉が止まる。考え込む涼が、やがて朝陽を小さく睨んだ。
『それで書いてよ』
それはそうかもしれない。苦笑して頷き、真新しいボールペンを握る。新鮮な重みだった。
『これ、どうしたの』『書きやすい』
『よかった』『普段はスマホでしょ?だからこれは俺の勝手なプレゼント』
涼は優しい。しかし、改めた方がいいのかもしれない。人に甘えるのが上手い。彼の圧倒的な個性。

『もう歩ける?』
腕時計を見ると、喫茶店に入って二時間近くが経過していた。体調はほとんど回復していた。
『助かった。もう大丈夫』
涼が窓に顔を向ける。つられて朝陽もそちらを向くと、先程よりも外が暗かった。
『雨だね』
雨?今日は一日中晴れだったはずだ。
『傘持ってない』
『俺もない。結構降ってる』
『雨の音する?』
『しない』
涼は嘘をついた。予測でしかないのだが、このような古い喫茶店と外の様子からして、雨が降る音が聞こえないことはないだろう。
『梅雨入りかもね』
雨は少し嫌いだ。元々雨の日に不調になりやすいのに加えて、近頃ではあの日を思い出してしまう。嫌な日ではなかったのに、どうしても気分が落ち込む。
『走るか?』
『どうせ濡れるし、滑るよ。潔く歩こう』
立ち上がって会計に向かおうとすると、涼が手で制した。それはないだろ。
『付き合ってもらったお礼』
『もらいすぎ』
今日は一度も金を使っていない。気を遣ったのか知らないが、それも不要だ。
涼は朝日を無視して、店主が待つレジへ向かう。小さく溜息をついて、彼に続いた。
『ごちそうさま』
隣に並んで伝えると、涼が満足そうに笑った。本当、こいつは凄い。


喫茶店を出ると、やはり雨はどしゃ降りだった。自分たちと同様に傘を持っていない人は多く、あちらこちらで人が走っているのが見える。
「潔く歩く?」
独り言だった。朝陽が唇に目を向けたのが分かったが、笑って首を振る。

隙間なく続く雨の音はうるさかった。でも、朝陽が隣にいるとむしろ静かな音に感じられた。何故か、穏やかな静けさに満ちた書店の音を思い出した。


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