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「読む」を読む

昨年から朗読を始めた。本棚から一冊を選び、一人で声に出して読む。
何故朗読に手を出したのか、それはオーディオブックに興味があったからだ。私はずっと紙の本を好んできたが、聴く本というのも是非生活に取り入れたい文化だと思っていた。家事をしながら、寛ぎながら、言葉に触れられるなんていいじゃないか、と。

ただ、私は聞き取り困難症/LiDの症状があり、ずっと発話に耳を傾けるのは決して優雅なものではない。
実際に既に活字で読んだ小説を耳で聴いてみたのだが、何せ集中力が続かない。それよりも、読むリズムが合わない。
当たり前だが、私が脳内で響かせてきた緩急に慣れ過ぎて、他人の安定した読みを心地良いものに思えなかった。音声の再生速度を調整して済むものではない。

それでもオーディオブックに何とか関わりたくて、そうか私が声にして読んでしまえばいいと気が付く。
小学生以来の音読、いや朗読を始めた。

初めは重たいミステリー小説だった。
口が回らず、声が安定せず、物語の温度に嚙み合わない私の読みは、散々なものだった。

どんな本を選ぶのかは案外難しく、熟練度とそのときの気持ちの兼ね合いで読みは全く違うものになる。
私の場合、初めての一冊を誤ったかと思ったが、上手く読めない歯痒さを最初に味わえたのがよかった。

それ以降は軽めの物語や、共感したエッセイが続いた。抑揚をつけても淡々と声にしても面白いのだと知った。

朗読を始めて半年ほど経ち、紙で読むのを諦めた宮沢賢治の「新編 銀河鉄道の夜」を読んだ。慣れない言葉に苦しみ、毎日15分だけの朗読に鬱々としたこともあった。これまでの本なら5~10ページは読めるのに、3ページしか進めないというのも歯痒い。

「ビジテリアン諸氏~」を最後に本を閉じたとき、青い表紙を見つめる私には達成感があった。それは、初めにミステリー小説を朗読し終えたときの気持ちに並ぶものだった。声にして知るリズムもあるのだ。

中には、読めない一行もある。
ある思い入れの強い本の一節は、活字で読んでも気持ちが動くが、朗読しようとするとどうしても声にならない。それは、あくまで人から受け取りたい言葉であって自分では口にできないとか、境遇が重なり声を操作して読むのが苦しいとか、活字に身を委ねて読んでいたときにはなかった読みだった。

私にとって、「読む」とは「文字を読む=目で読む」と「意味を読む」ことだけだった。そこに「文字を読む=声にして読む」という新たな読みが加わると、上の後者の読みもまた深くなった。



今読みたいのは、台詞で物語が展開していく小説だ。今なら、気持ちを乗せて、また文字に気持ちを乗せられて読んでいくことができるだろう。
いつか読みたいのは、「読む」ことを教えてくれた高田大介さんの小説だ。

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