見出し画像

パラシャ第22週:ヴァ・ヤクヘル(集めた)

  • パラシャット・ハシャブアとは?→ こちら


基本情報

パラシャ期間:2024年3月3日~ 3月9日

通読箇所

トーラー(モーセ五書) 出エジプト記 35:1 ~ 38:20
ハフタラ(預言書) 列王記 第二 12:1 ~ 17
新約聖書 ローマびとへの手紙 15:25 ~ 33
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所) 

神は幕屋の中に住まわれる
ユダ・バハナ 

ユダ・バハナ師
(ネティブヤ エルサレム)

閏年の特殊なパラシャ事情

今年(5784年)は、ユダヤ暦でも閏年だ。
西暦の閏年は2月29日という1日が足されるだけだが、ユダヤ暦の閏年はアダルという冬の月(西暦では2~3月)が、アダル・アレフ(A)+アダル・ベイト(B)と2度繰り返される。したがって閏年にはシャバット(安息日)の数がいつもの年よりも増え、ダブル・パラシャ/ポーション(2つのパラシャを1つと見なして読む事)を2つに分けて、単独で朗読して学むのだ。
したがっていつもの年であれば今週のパラシャ「ヴァ・ヤクヘル」と、来週の「ペクデイ」はダブル・パラシャとして繋がっているが、今年はそれらを2週間にわたって読んでいく。
(閏年を入れる最大の目的: ユダヤ暦がずれ続け、春の祭であるペサハ=過ぎ越しが違う季節にならないようにするため) 

4度目の安息日に関する規定

今週のパラシャの内容も、幕屋の建設についてだ。これは出エジプト記が取り扱う最後のテーマであり、来週のパラシャでは神自身が天から聖所に降り、イスラエルの子らによって神のために建てられた家に入られる。これが出エジプト記のエンディングだ。
 
そして今週のパラシャの初めに目をやると、モーセがイスラエルの人々を集め、シャバット/安息日を守るよう、再び命じている。聖書の中で4 度目となる、シャバットに関する命令だ。 

モーセはイスラエルの全会衆を集めて、彼らに言った。
「これは、主が行えと命じられたことである。
六日間は仕事をする。しかし、七日目は、あなたがたにとって主の聖なる全き安息である。この日に仕事をする者は、だれでも殺されなければならない。
安息日には、あなたがたの住まいのどこであっても、火をたいてはならない。」

出エジプト記 35:1~3 

一切の労働を禁ずるというこの御言葉に基づき、賢者・ラビたちはシャバットに労働として禁止されるべき 計39 種類の行為のリストを作成した。火をたくことをはじめ建築や種まき、色染めなど、これら39の行為は聖所を建設するために行われた労働行為であり、これはこのシャバットの労働禁止の命令が聖所建設という文脈の中に出てくるからだ。
ここからもユダヤ人・イスラエル民族にとっての、シャバットの持つ重要性が分かる。幕屋という神の家を建てている間も、労働は6日間であり7日目には休むのだ。 

正しい行いはトーラーに先んずる

「正しい行いはトーラーに先んずる」のグラフィティー。
イスラエルでは超正統派など腐敗したユダヤ教世界に対する、
抗議の言葉としてよく使われる。
(Haaretz.co.il より)

そしてその直後には奉納物に関する記述があり、イスラエルの子らはそのモーセの呼び掛けに応えた。人々は聖所の建設のためにささげ物を持って来、民のうちの最も有能な者たちが建築に携わりたいと志願した。出エジプト記のフィナーレである幕屋の完成は、イスラエル民族の1人1人が苦労した結果なのだ。
 
こうしてすべての人を創造した全能の神は、人と共に住むようになる。これは細部にまでに気を配り、懸命に努力し、心を込めて私たちが捧げる時、神は私たちのただ中に住まれるという、重要なレッスンになっている。
 
この理解は、非常に重要だ。
なぜなら霊的なことにおいては、細部まで正確でなければならないからだ。そして賛美や祈り、教えの前に、親切と愛・倫理観をもって互いに振舞うことから始めなければならない。客人を温かく迎えて互いを理解するよう努力し、「自分」を中心に置かないようにしなければならない。
私たちの本能的考えとは反対に、聖書のフォーカスは私たちの隣にいる人、隣人だ。それは、(もちろん大切ではあるが)自身や自身の信仰よりも重要だ。自分の信仰が中心テーマとなっている聖書の箇所は少なく、大半は他人に対して何をし、いかに振舞うかが中心的主題となっている。
 
それを色濃く反映しているのが、よく知られたユダヤのことわざだ。 

「正しい行いはトーラーに先んずる」 

トーラーが与えられるずっと前から、聖書は私たちが互いにどう適切に行動すべきかを示し、要求している。これは、それを理解していたラビ・イシュマエルの言葉だ。
義にかなった道徳観とそれに沿った行動こそが、トーラー知識の礎となるのだ。 

だれが主の山に登り得るのか。だれが聖なる御前に立てるのか。
手がきよく心の澄んだ人
そのたましいをむなしいものに向けず
偽りの誓いをしない人。

詩編 24:3~4 

トーラー・聖書を学ぶためには、正直で正しい行ないが必要だ。
これは、私たちの周囲に対する基本的な道徳心および思いやりのある態度なしには、トーラーには触れることができないことを意味する。 

聖書的角度からの、「個人」と「集団」

(ictinc.ca より)

そして私たちが祈りの家という主のための特別な場所で、御前に出ようとするとき、この必要性はさらに大きなものとなる。私たち教会やコングリゲーション・シナゴグなど、神の家に立つ時だ。そんな時に周囲に対して細部にわたって注意を払わなければ、聖霊は居場所を失う可能性があるのだ。
 
しかし愛と正しい心をもってすべてを行なうなら、神が来られ私たちの真中に住まわれる。そこで私たちはこう尋ねる―
では、神はどこに住まわれるのか。人々が言うように、神は私たち1人1人の中に住まわれるのか。それとも民族として、国家として人々の間に住まわれるのだろうか。
 
一般的に私たちは各自1人1人を神殿と見なし、神とその霊がすべてのビリーバーの中に宿っていると理解している。この理解・信仰は、パウロの次の言葉に基づいている。 

あなたがたは知らないのですか。
あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。

コリント第一 6:19 

真のメシアを知るビリーバーとして、自身の人生の中に神を招いた全ての人の心のなかに聖霊が宿ると信じている。しかし私たちは何もない真空のなかで孤独に生きているのではなく、周囲や環境との間の関係性の中で生きている。天地創造時に神が、「人がひとりでいるのは良くない」と言われたようにだ。
 
出エジプト記はイスラエルが奴隷という集団から、律法(トーラー)を与えられて国・国家に変化していく物語、とも言える。まさに、国としてのイスラエル誕生だ。この幕屋・聖所をイスラエルが1人1人の個人としてではなく、コレクティブとして捧げ物をし、建築に関与して作り上げたように、神と人との関係において人が1人で神と相対するのは正しい姿ではない
神の約束と救いは、民・コレクティブのためのものであることからも、それが理解できる。 

コレクティブのユダヤ的重要性とイェシュア

毎日祈りの時間が近づきミンヤンが足りないとなると、
シナゴグの外で男性を探す姿が見られる。
(myjewishlearning.com より)

ユダヤの文化には「ミンヤン」という決まりがある。これは祈りにおいて10人以上が集まって祈れば、それは正式な祈りになるという規則だ。Aさんがどれだけ完全な信仰を持つ聖者であっても、そしてたとえAさんのような聖人・賢人が9人集まったとしても― 10人が集まっていなければミンヤンとならず、シナゴグで捧げる正式な祈りを行うことはできない。たとえその人が赤の他人で全く知らなくても、またはその人が全く神を信じておらず戒めを守っていなかったとしても、その人はミンヤンを完成させる一人となることができる。
この背後にある考え方は1人1人がどういう人物かという点は、会衆として集まることほど重要ではないというものだ。神の臨在はあくまで会衆の中に来、人々の真中に住む。
 
私はこのユダヤ教のアプローチに完全に同意するわけでも、不信仰な悪人の祈りを正当化させるつもりもない。
しかし、このミンヤンというアイデアのベースにある、『霊的コレクティブ・共同体に所属することが極めて重要である』という点には、完全に同意だ。そして同時に、共に祈る人々の信仰・心の聖さも重要だ。明確に私たちの仲間ではなく、同じ霊的経験・共通項を全く持たない人と祈ることは、祈りの持つ意図と団結・一致を傷つけるからだ。
そして少人数で祈った方がいい場合もあり、ミンヤンや完全に定型文化しているユダヤ的な祈りには欠けている部分も確かにある。
 
ちなみに新約聖書でイェシュアは、ミンヤンに似た原則を教えている。 

二人か三人がわたしの名において集まっているところには、
わたしもその中にいるのです。

マタイ 18:20 

ミンヤンは10人で、イェシュアは人数に関しては指定していない。しかしグループ・コレクティブとして祈ることが、特別な意味を持ちあるべき姿であるという点では、イェシュアのこの言葉はミンヤンを連想させる、非常にユダヤ的なものと言える。 

イスラエルはすべて、互いの責任を負う

この言葉は10月7日以降の、人質解放という文脈でも使用される。
人質の命の重さは世界全体と同じ重さであるべき、というメッセージが込められたオブジェ。
(jewishstandard.timesofisrael.com より)

幕屋からは神は人の心の中に住んでいることを学べるが、それだけではない。私たちは社会や国家、民族の一部として創造されている。したがって神は個人としての私の中だけではなく、集団や国家としても私たちの内にも住まわれているのだ。
 
幕屋が完成した様子は非常に壮大で、ドラマティックなものだった。神の臨在が幕屋に満ち、誰もその中に入ることができない。面と向かって神と話したモーセでさえも、聖所に近づくことができなかった。
 
それは会衆や人々全体という集団の内において、主の臨在はより強く大きくなることを意味している。だからこそ信仰において、他者(特に他のビリーバー)との関係は極めて重要だ。交わり、健康的で温かい会衆を築く。そして交わりに参加するということは、自分たちの人生を互いに分かち合い、パートナー・仲間になることを意味している。そしてそんな仲間同士の交わりの中にこそ、神の御霊・臨在が宿るのだ。
 
使徒パウロは、それを「メシアのみからだ」と呼んでいる。
1人1人のメンバーの中に、神・聖霊の臨在がある。しかしそれに加えて重要なのは、個人より大きなコレクティブ・会衆に聖霊の宿りと主の臨在があり、その一部・一端を私たちが担っているということだ。
 
キリスト教内では個人の救いが何より重要なこととして捉えられがちだが、新約聖書も共同体の重要性、そして共同体の平和・一致に対して私たちが負う責任について教えている。例えば迷った羊の譬え話の中でイェシュアは、コレクティブ・群れとして家に連れ戻す責任があると教えている。 

あなたがたはどう思いますか。
もしある人に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
まことに、あなたがたに言います。もしその羊を見つけたなら、その人は、迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜びます。このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません。

マタイ 18:12~14 

イェシュアはこの譬え話を通して、交わり(群れ)を離れた人(羊)について話している。私たち会衆は、迷ったりした人が居れば助けに行く義務がある。互いに対し責任感を持つように、とのメッセージだ。このイェシュアの言葉も、ユダヤの有名な格言と非常によく似ている。 

「イスラエルはすべて、互いの責任を負う」

バビロニア・タルムードなどより 

イェシュアもラビたちも、互いのために責任を持つ重要性を説いている。交わりから脱落したり、まっすぐな道から迷い出たりした場合、共同体にいる私たち全員に責任が生じ、その代償を負うことになる。
 
イスラエル民族にとっては「私・あなた」ではなく、「私たち」という感覚が最も重要だ。良い時も、そして罰がある場合でも「私たち」であり、イスラエル国民全体が良きも悪きもそれを受けることになる。私たちは共に民族として、祝福も罪も受ける。
イェシュアはこの羊の例を通して私たちに、ユダヤ的な共同体としての「私たち」という感覚を教えている。
 
このイェシュアの言葉の背景を考えてみよう。彼がこの譬え話を語っているバックグラウンドには、イェシュアが罪人たちと時間や食事共にしていることを見たパリサイ派たちの間で、疑問や不満が持ち上がったからではないか。

  • なぜ彼(イェシュア)は罪人と一緒に座ることをいとわないのか?

  • 罪人よりも彼の教えに耳を傾け、学びたい人は多く居る。
    彼らに教えないのはなぜか?

  • なぜイェシュアは正しい道から迷い出た人々に対し、時間と労力を費やしているのか?

そんな疑問が上がっていたのだろう。そしてそんな彼らに対してイェシュアは、この譬え話をもって答えている。ラビたちの「イスラエルはすべて、互いの責任を負う」という言葉の通り、私たちは周りに対しての責任を負っているからだ― これがイェシュアなりの答えだったのだろう。
私たちは自身(の信仰)に関して腐心するのではなく、失われた羊を連れ戻さなければならない。そうしなければ、それは私たちにとっては一種の罪であり、それを負うこととなるのだ。

イェシュアの体はすべて、互いの責任を負う

私たちは真空の中ポツンと生きているのではない。
私たちの行動は互いに影響を与え合う。私たちはちっぽけで小さく、1人1人は取るに足らない存在だ― この言葉はある意味正しい。しかし同時に私たちには群れ・コレクティブの一員として、極めて重要な役割と価値がある。模範的ではなく決して褒められるような存在ではない、迷い群れからはぐれた羊でさえ、その他の群れ全体・99匹の動きを止めるだけの価値があるのだ。私たちは神とその栄光の名において集まっている、群れだ。どれだけの聖霊と偉大な力、そして聖さが、私たちの群れに注がれていることだろうか。
 
そしてそれに応えるように、イスラエルの人々は、銀・金・その他高価な原材料を捧げ物とし、心をこめて奉仕をした。あまりにも多くが捧げられたので、モーセはもう十分である・持ってこないように、と命じなければならなかった。 

それでモーセは命じて、宿営中に告げ知らせた。
「男も女も、聖所の奉納物のためにこれ以上の仕事を行わないように。」
こうして民は持って来るのをやめた。
手持ちの材料は、すべての仕事をするのに十分であり、あり余るほどであった。

出エジプト記 36:6~7 

イェシュアの体はすべて、互いの責任を負う―
これは何も『ユダヤ教・パリサイ派』の教えではなく、旧新約を貫く主題でありイェシュアの重要な教えでもある。
私たちがそれぞれの置かれた教会・コングリゲーションでこのメッセージを胸に、健康的なイェシュアの体を作り続けることができるように。
日本の皆さまに、平安の安息日があるように。
シャバット・シャローム。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?