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パラシャ第21週:キ・ティサ(取りなさい)

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基本情報

パラシャ期間:2024年2月25日~ 3月2日

通読箇所

トーラー(モーセ五書) 出エジプト記 30:11 ~ 34:35
ハフタラ(預言書) 列王記 第一 18:1 ~ 39
新約聖書 コリントびとへの手紙 第二 3:1 ~ 18
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所) 

永続する契約
ユダ・バハナ 

ユダ・バハナ師
(ネティブヤ エルサレム)

今週も引き続き幕屋の建設についてのパラシャだが、取り扱う内容は豊富なものになっている。ベツァルエルが職人たちを束ねる責任者として任命され、優れた技術と知恵で幕屋の神聖な器を設計・製作した。そして今週のパラシャは国の秩序を守るための適切な行政を作り上げるため、人口調査を行なうようにという命令から始まっている。 

安息日・シャバットの重要性

異端審問下でも、多くの新キリスト教徒(強制的に改宗させられたユダヤ人)が
安息日を守り続けた。

そして安息日を守ることの重要性についても、再び目にする。この戒めは創世記=天地創造の最初から述べられている、最も重要な戒めの1つだ。 

神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。

創世記  2:3 

イスラエルの子らがエジプトを出たばかりの時、彼らは天からのパンであるマナから安息日(シャバット)について学んだ。神は1週間の間マナを降らせるので、それらを集めるよう命じた。しかし安息日は例外で、マナは降らなかった。 

安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。
六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。
七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。

出エジプト記 20:8~10 

聖書時代から現在まで、安息日は歴史を通じて私たちのしるしとなると言っている。そしてその事実は今週のパラシャの次の聖句、イスラエルの民と神とのあいだの永遠の契約が根拠になっている。 

あなたはイスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるしである。わたしが主であり、あなたがたを聖別する者であることを、あなたがたが知るためである。
・・・
イスラエルの子らはこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。

出エジプト記 31:13、16 

こうして、安息日を守ることは最も重要な戒めの1つとなっている。
その証拠にユダヤ教の文献には、安息日に関する事細かな議論・決定事項があふれている。また新約聖書でも安息日はユダヤ的生活において重要なものとして頻繁に言及されており、七日目について様々な観点を示している。 

1世紀のパリサイ派とイェシュア

パリサイ派(上段)とサドカイ派(下段)
(イスラエル公共放送Youtubeチャンネルより)

安息日に関しさまざまな規則があることを知っておくのは有用で、例えばパリサイ派内ではヒレル派とシャンマイ派の二つのラビによる学派は様々な戒めに対し、異なるアプローチを持っている。ヒレル派の教えはよりオープンで寛容、シャンマイの教えはより厳格でより律法的主義的だった。
シャンマイ派は規則を守る人々の弱さを含めた能力などをあまり考慮しなかったが、ヒレル派は正当な理由なしに人々に過負荷をかけないよう努めた。
ではヒレル・シャンマイの2つの学派に分けるならば、イェシュアの立場はどうだっただろうか。
 
イェシュアと新約聖書の立場はしばしば、この両派を融合させたものでもあり、両者の間または違ったスタンスを持っている事が分かる。自分と神との関係は妥協せずに、厳格であるべきだ。これはシャンマイ派に近い。しかし他の人に対しての在り方は、より肯定的に理解する心を持ち疑わしきは罰せず、というヒレル派に近いものだ。
例としてイェシュアの有名な言葉を見てみよう。 

あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、
自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。

マタイ 7:3

イェシュアは、人の欠点を自身の友の同じような欠点と比較している。
それによれば、自分の抱える欠点・問題に対しては梁のような大きな板=大きな問題として捉える必要があると言う。しかし人の欠点は、ちりのように小さく(そこまで重要視せずに)見なければならない。
このようにイェシュアは自身に対しては厳格に、他者に対しては寛容に捉え接するようにと教えている。ここで新約聖書の題材にもなっている、安息日の決まりについて見てみよう。イェシュアはマタイ 12 章で次のように尋ねている。

そこで彼らはイエスに「安息日に癒やすのは律法にかなっていますか」と質問した。

マタイ 12:10 

イェシュアは何と答えただろうか。
イェシュアは、優先順位があると教えている。安息日は人に対して与えられているので、人は安息日より優先順位で言うと先んずる。人は安息日を守るためだけに造られた訳でも、安息日のために存在している訳でもない。だから人は安息日よりも重要であり、安息日に(安息日よりも重要な)人を助けたり、人を癒したりできるなら、そうすべきだ。イェシュアはそう教え、安息日に人々を実際に癒した。 

絶対的悪・パリサイ派に一石を

(faithbibleministriesblog.com より)

「パリサイ人とイェシュアが討論・口論している構図」というは新約聖書の軸の1つとなっており、このことからイェシュアとパリサイ派を対極の位置に置き、完全に正反対の世界観を持った敵同士、と捉えることがクリスチャンの世界では一般的だ。
しかしこの見方は、不正確で間違っている。ユダヤ教のさまざまなグループの中で、パリサイ人(派)はイェシュアに最も近かったと言える。非常に近かったためにパリサイ派はイェシュアと律法に関する質問・討論を仕掛け、反対にイェシュアも自身と近い立場の彼らに大きな期待を寄せていたので、彼らを最も批判しているのだ。
そしてなによりも、パウロは自分自身についてこう明言している― 

兄弟たち、私はパリサイ人です。パリサイ人の子です。
私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。

使徒の働き 23:6

ここでパウロは私はパリサイ人「だった」とは言わず、(現在形で)私はパリサイ人で、パリサイ人の子であると主張している。
このように新約聖書を読むと、イェシュアやパウロたちがパリサイ派と非常に近かったことが分かる。 

さて、あるパリサイ人が一緒に食事をしたいとイエスを招いたので、
イエスはそのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。

ルカ 7:36

パリサイ派がイェシュアを完全に敵視し憎んでいるのであるならば、このようなことが起こるとは考えにくい。
さらに言えば、イェシュアは弟子たちにパリサイ派の指導者であるラビたちの裁定を守るように命じつつ、厳しく彼らを批判している。 

そのとき、イエスは群衆と弟子たちに語られた。
「律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座に着いています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです。」

マタイ 23:1~3

イェシュアは、律法を解釈し(自身の弟子たちを含む)ユダヤ人全体に律法の決定を下す、パリサイ人の権利と重要性、さらには戒めにおける権威を認めているのだ。
しかし同時に彼らは、賢者の地位を確立したことで名誉・権力を追い求めている、と彼らの行い(と言うことの乖離・矛盾)を手厳しく非難している。彼ら自身がトーラーに従わないのに他に要求した際、偽善だと主張した。
「彼らの言うことのみから学び、行いからは学ぶな」というイェシュアの主張には、こういった意味がある。両者間の新約聖書に見られる緊張関係は、ユダヤ教内しかもパリサイ派系という『内輪』の中で起こった意見の不一致を描いたもので、破壊的な敵対関係ではない。
 
信じられない兄弟姉妹は、預言者によるイスラエル・ユダに対する批判を見て頂きたい。
イスラエルの民はそれを好まず、預言者に敵対し時として迫害も行った。そんななか預言者たちの民と国に対する警告の預言は、決してやさしい口調のものではなかった。文字としてはまるで預言者と国が敵対しているように見えるが、実際には預言者は人々のために愛をもって最善を尽くしており、同胞・兄弟同士特有の激しい言い合いだった。
イェシュアの言葉も、同じように理解しなければならない。
 
そしてキリスト教内でパリサイ派は悪が具現化したもののように見られるが、ではキリスト教の歴史を振り返って見た時― イェシュア時代のパリサイ人が、ユダヤ教・キリスト教や他の宗教の指導者よりも偽善的で、腐敗し権力と権威のみを愛していたのだろうか?
恐らく、答えは「いいえ」だ。パリサイ派のような腐敗は、どの宗教・信仰によるコミュニティーにも見られる、人の弱さを根源に持つものだ。
 
歴史を通して、完全に純粋で腐敗の一切ない信仰者の集団を見つけることはできない。これは私たちメシアニック・ジューも同じだ。イェシュアがもし、今日イスラエルで活動する私たちを見られたならば―イェシュアはおそらく、パリサイ派の時以上の批判と厳しい口調をもって、私たちに対して警告し、教え諭されるだろう。 

人が神を変える

アブラハムもソドム・ゴモラを救うため神と交渉し、御心を変えている。
(thetorah.com より)

今週のパラシャの『ハイライト』は、金の子牛とその罪を見たモーセが契約の石板を砕くという、イスラエル民族史に残る汚点だ。ユダヤ文化だけでなくキリスト教圏で「金の子牛」はエデンの園やリンゴとほぼ同義の、大きな罪や神への反逆を意味する象徴的な概念となった。
 
実際には、この金の雄牛の罪はどのように起こったのだろうか。
モーセはシナイ山に行き、40日が過ぎている。そしてその間、彼からの知らせや戻って来る予兆も全くなかった。そこでイスラエル人は、モーセに何が起こったのかと尋ね始め不安に駆られた。
全ての顛末を知っている私たちが、当時のイスラエルを批判するのは簡単だ。
 
私は彼ら父祖の罪を、正当化するわけではない。
しかし40日が経過し、神に直接会いに行った彼らの唯一無二のリーダーが戻って来ない。「モーセは遅れた」と書かれている(32:1)。人々は「モーセは戻ってこないのではないか」や「モーセを失ったのであれば、どうすべきか」と不安とともに自問していた。
どうするべきか?
立ちあがって行くべきか?旅を続けるのか、それとも彼を待つべきか?
どれくらい待つのか?一週間、一ヶ月、一年?
待っている間に、他民族に攻撃されたら…?
もちろんイスラエルの子らは罪を犯し、異なる偽の神を造ってしまった。そして彼らの行動は、結果的にモーセと神の対面を邪魔し、中断させてしまった。民は罪を犯して堕落したので、神はモーセを山から降ろし、イスラエルのところへと戻された。
 
そしてこの罪に怒った神は、イスラエルを滅ぼし、モーセから新しい国を造りたいと思った― まるで置換神学的な発想だ。アブラハム・イサク・ヤコブの唯一の神であることを正確に理解し、世界へとそれを知らせる民をモーセから新しく立てようとした。
もし神がこの時点でイスラエルを滅ぼしていたなら、周辺諸国・他の民族たちはどう思っただろうか。「荒野で滅ぼすために、イスラエルの神は民を奴隷から解放した」と、嘲笑の的になっていただろう。
モーセはそんなレトリックを用い罪を犯した彼らのためでなく、彼らの父祖アブラハム・イサク・ヤコブのため、彼らに与えた神自身の約束のゆえ=神自身ために、イスラエルを滅ぼさないように神を諭した。
そしてモーセは神を説得することに、成功した。 

すると主は、その民に下すと言ったわざわいを思い直された。

出エジプト記 32:14

これは信じられないほど力強いメッセージだ。私たちは、事の重大さを完全に理解することはできない。トーラーは私たち人間に対して、神と対話するように呼びかけている。トーラーは世界だけでなく御心を変える能力が私たちにあることを、教えている。神と対話することができ、神の考えを変えることさえもできるのだ。 

祈りは神を変える

イスラエルに帰還後、祈りを捧げるユダヤ人たち。
(1939年 ハイファ)

御心を変えるという大それた権利は、モーセだけに与えられたものではない。断食や祈りが神をなだめた変えたという、他の例が聖書にはある。
 
ヨナ書ではニネベの人々が断食して悔い改め、神の考えを変え、ニネベを救われた。主は最初に計画されたニネベ滅亡を、実行されなかった(ヨナ3:5) 。
新約聖書のイェシュアのたとえ話の1つに、やもめと裁判官の話がある。正義を得るため女は、裁判官に頼り何度も何度も助けを求めた(ルカ18)。最初、裁判官は彼女を退けその件には触れず、思いやりも感じず、女のために正義の裁判をしようとしなかった。しかし、最終的にそんな冷酷な裁判官でさえも折れたのだ。最終的に彼は裁判をし、やもめに正義を与えた。
 
裁判官がそうした原因は何か?
それは憐れみでも同情でも、神への畏れでもなかった。イェシュアの譬え話の裁判官が、貧しいやもめのために正義の裁きをすることとなった唯一の理由は、彼女の粘り強さ・しつこくさだ。絶え間ない懇願と、終わりのない要求だ。
裁判官は彼女から解放されるため、その事件を処理したほうがよいことを理解した。このままでは、彼女は毎日やって来るだろう。その事件を片付け彼女から解放されることを、裁判官は選んだ。裁判官はしつこさに、うんざりしていたのだ。
 
イェシュアはこのたとえ話を通し、祈りを一貫して行なえば最終的には答えを受けると教えている。もしそんな裁判官でさえやもめに答えたのならば、恵深き主は答えられるだろう。
 
「絶えず祈る」ということは、私たちが答えを得るまで祈り続けて神に懇願し、立ち止まらないことを意味する。イェシュアのたとえ話の冒頭には、こうある―

いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。

ルカ 18:1

イザヤもこう言っている。 

シオンのために、わたしは黙っていない。
エルサレムのために沈黙はしない。
その義が明るく光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは。

エルサレムよ、わたしはあなたの城壁の上に見張り番を置いた。
終日終夜、彼らは、一時も黙っていてはならない。思い起こしていただこうと主に求める者たちよ、休んではならない。
主を休ませてはならない。主がエルサレムを堅く立て、この地の誉れとするまで。

イザヤ 62:1,6~7

これらの聖句は、常にエルサレムのために祈り、常にエルサレムについて語るようにと教えている。エルサレムの義と救いが、すべての人に見られるまでだ。これがビリーバーとしての、私たちの仕事だ。
 
エルサレムに居る私たちも日本に居る皆さまも、神の忠実な僕であり神に祈りエルサレムの城壁の見張り人とならなければならない。そして私たちは昼夜問わず、黙っていてはならない。
 
日本の兄弟姉妹の皆さまに、2つのお願いがある。
まずはこの困難な時にこそ、イスラエルとエルサレムの救いに関する神の約束・預言を神に思い出させて欲しい。そしてイスラエルについて広まっている嘘を断ち切り、代わりに真実を広めて頂きたい。
 
イザヤとイェシュアの言葉に学び、粘り強く何度も何度も、イスラエルの義が夜明けのように輝き、その救いが燃えるたいまつのようになるまで、共に祈り続けよう。
 
日本の皆さまに、平安の安息日があるように。
シャバット・シャローム。

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