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第23週: ペクデイ(記録)

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基本情報

パラシャ期間:2024年3月10日~ 3月16日

通読箇所

トーラー(モーセ五書) 出エジプト記 38:21~40:38
ハフタラ(預言書) 列王記 第一7:51~8:21
新約聖書 ヨハネの福音書 14:12~31
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所) 

奉仕する真摯さ・惜しみない心なくして、コミュニティーは存在しない
ユダ・バハナ

ユダ・バハナ師
(ネティブヤ エルサレム)

先週話したように、今週のパラシャが単独で呼ばれるのはだいたい3年に1度やって来る閏年だけだ。しかし出エジプト記を締めくくる最後の、重要なパラシャだ。
今回は少し、出エジプト記に関するおさらいをしてみよう。 

出エジプト記のおさらい

出エジプト記を通してイスラエルがたどった長い道のりを、要約してみよう。
 
出エジプト記は干ばつと飢饉の中、ヤコブ一家がエジプトに下ったところから始まっている。そしてこの家族が『ヤコブの子たちとその家族』から、次第に大きな『民族』となっていった。イスラエルの民が400年間エジプトに居た事を、もう一度思い出してみよう。
そして書の序盤で私たちはモーセという人物に出会い、彼はミデアンの地に逃亡し、そこで燃える柴の中に神が現れた。
 
そして出エジプトの物語が、本格的に始まっていく。
私たちはここから、神の力強い御手を見ることになる。神がどのようにエジプトを10の災いをもって打たれ、イスラエルをエジプトから連れ出されたか。そして紅海が分けられ、その中を民族全体がどのように歩き渡ったか。
 
そしてやはり出エジプト記は、シナイ山での啓示・契約の板の授与抜きに語ることはできない。そして律法が与えられた後、幕屋の建設とそのための献金・奉仕が始まった。また私たちは金の子牛という、不幸な事例も目撃した。紆余曲折の後に私たちは、出エジプト記の最後に到達した。それが今週のパラシャだ。
 
次々に起こった出エジプト記の出来事を要約すると、それは不思議に満ちており、偉大な驚くべき物語の集大成として見ることができる。そのような物語の後のこのパラシャは、どちらかというと平凡でありふれた内容になっており、少し読むのがつまらなく・難しく感じるかも知れない。
 
再度、幕屋の建設材料やその労働について、そして献金について触れられている。これら全ての退屈な細かい作業の後に神が来られ、人々が建設・彫刻・裁断し、献金と奉仕をしたその幕屋に、イスラエルの人々の目の前で、神の栄光が住まわれることになった。
 
この長く、面倒で細心の注意を払って行われた行動によって、偉大なる神が私たちの間に住まわれるという素晴らしい特権に預かったのだ。 

惜しみなく奉仕する心の力

出エジプト記は、こうして力強い終わりを迎える。 

そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。
モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。

出エジプト記 40:34~35

神がお住まいになる幕屋は、何でできていたか。数週間前に読んだ箇所には、こうある。 

わたしに奉納物を携えて来るように、イスラエルの子らに告げよ。
あなたがたは、すべて、進んで献げる心のある人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。

出エジプト記 25:2

この惜しみない心はまた、先週のパラシャにも出てくる。(35:5)
この箇所を見ると物質的な奉納物・捧げ物に目が行くが、幕屋建設のための捧げ物で最も高価なものは、金・銀や宝石ではなく人の奉仕の心だった。民の真摯な心こそが、神の幕屋を建てた一番の素材だったのだ。
 
イスラエルの民は、まさに奉仕の心と寛容さからの捧げ物で幕屋を建てた。実際、イスラエルの民は幕屋の建設に向けて非常に多くのものを捧げたため、モーセはもう充分だとストップをかけなければならなかった。 

モーセに告げて言った。
「民は何度も持って来ます。主がせよと命じられた仕事のためには、あり余るほどのことです。」
それでモーセは命じて、宿営中に告げ知らせた。
「男も女も、聖所の奉納物のためにこれ以上の仕事を行わないように。」
こうして民は持って来るのをやめた。手持ちの材料は、すべての仕事をするのに十分であり、あり余るほどであった。

出エジプト記 36:5~7

地域社会において奉仕の心と惜しみない心から出る捧げもの(やその行為)は、人間社会における礎のーつだ。それは責任をもって行うべき行為であり、社会に変化をもたらす力を持っている。幕屋建設はその素晴らしい例だ。私たちの父祖たちの捧げ物は私たち同志を互いにつなぎ、また私たちと神とを繋いだ。 

『見せかけの行為』がもたらす結果

ここで、新約聖書のアナニヤの寄付の事件に目を向けたい。
使徒の働きの5:1~10を読んでほしい。これは理解するのが難しく、とても挑戦的な話だ。 

ところが、アナニアという人は、妻のサッピラとともに土地を売り、妻も承知のうえで、代金の一部を自分のために取っておき、一部だけを持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
すると、ペテロは言った。
「アナニア。なぜあなたはサタンに心を奪われて聖霊を欺き、地所の代金の一部を自分のために取っておいたのか。
売らないでおけば、あなたのものであり、売った後でも、あなたの自由になったではないか。どうして、このようなことを企んだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
このことばを聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。これを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。

使徒の働き 5:1~5

まず、この献金が必須だったかどうかさえ明らかではない。初代教会のビリーバーたちは自分の財産を売り、すべてを共有していたのだろうか。
この場合の罪は、一体何なのだろうか。
 
私は、このアナニヤ夫婦の献金は必須ではなかった、理解している。強制ではなく、自身の判断によりしなくても良かった。そしてこの結果として、アナニヤの罪には二つの説明ができる。
 
不信や疑いは、罪になり得る。神が自分たちの必要を満たして下さるという信頼を、彼は持っていなかった。彼は自身の所有物を手放したが、経済的に何かが起こり金銭が必要になるのではないかと不安になったのだろう。そこでアナニヤは念のため、自分の分を残しておいた。
 
また財産を捧げたことにより、彼は共同体の中で信用と名誉を得ることとなったのだが、それは本当の名誉ではなかった。アナニヤが所有物を寄付することを決めたのは、ちょうどイスラエルの民が自由意志で幕屋建設のために捧げた、出エジプト記の構図と同じだ。
したがってアナニヤは、自分が決めた金額を捧げることができた。これは、ペテロの言葉からも分かる。 

売らないでおけば、あなたのものであり、売った後でも、あなたの自由になったではないか。

5:4a

土地を売却してできたなかから多く捧げることも少し捧げることも、捧げたい金額を自分の心に従って決定し、献金することができたのだ。
 
私の考えでは、アナニヤの犯した最大の罪はいくらかを残しておいたにもかかわらず、まるで売ったお金の全額をコミュニティーに捧げたかのように、嘘をついたことだった。問題の核心は、見せかけの行為だった。彼は周りには全てを捧げたと言ったため、それに応じた信用と名誉を勝ち得たが、それは実際に彼らに値する以上のものだった。
彼は私財を全て売って捧げた自身が真摯で惜しみない心を持った聖徒として、人々の目に映りたかったのだ。しかしそれは見せかけであり、彼は自分のためにいくらかを残していた。
 
この事件は私たちに対する警告であり、仕事場や家庭、コミュニティーや社会の中でどう行動すべきかについて教えている。私たちは注意しなければならない― 自分に値しない偽の名誉を受け取らないように。
 
例えば、あるプロジェクトに関わったことで上司や周りから褒められ賞賛を浴びた際、自身が携わっていた以上に見せ、実際に値する以上の名誉・賞賛を受けてはいけない。
また家庭において妻から子供を見ておくように頼まれた際、子供たちにはテレビを見せたりゲームをさせていたにもかかわらず、妻が帰宅する直前に子供たちを外に連れ出して遊び、まるで自分が子供たちとずっと時間を過ごしていたかのように振る舞ったりしないよう、注意しなければならない。「ずっと遊んでてくれたんだね」と妻から大いに感謝された時、見せかけの行為という誘惑に流されず、「いや、さっき遊び始めたところだったんだよ」と言うのは、なかなか難しい。
 
コミュニティの中で私たちが偽の外観を装ったことも、これは罪になる。これは共同体を共に築いている兄弟姉妹を欺き、だまし取った名誉だ。たとえ名誉が値する行為を行った場合であっても、イェシュアは人からの栄誉を受けると神から受けられないと、天に宝を積むようにと教えている。人から得た賞賛・名誉には、神から祝福を受けられないという代価が生じ得るのだ。
 
もし私たちが偽物の外観を装い、実像より義人であるかのように見せた時― それは高い基準を設定することになる。そして賞賛・名誉をさらに得る、または維持するために欺きを重ねるが、多くの場合は真実が明らかになってメッキが剥がれ、他の人々を傷つけることになるだろう。 

信頼は最も小さなことから始まる

まさに、神は細部に宿る。
(nationalgeographic.com より)

私たちは、互いに信頼することができる土壌を作る必要がある。1つの嘘や欺きは、築いてきた多くのものを壊し、関係性が崩れ、最悪の場合は共同体として再建不能な状態になってしまう。
 
これは大きなことだけではない。信頼の構築は最も小さなことが重要で、そこから始めなければならない。小さなことにおいて信頼することができなければ、仕事場や家族・教会やコングリゲーションのなかで、神は私たちを信頼することができないのだ。
 
例えば、人を癒す力がない人があるふりをすれば、多くの人々はそれに引かれてついて行くことになる。しかしそれが幻想・欺きだと分かった時、純粋に信じた人々は傷つき彼らの信仰が壊れ失われる危険性もある。
または預言という賜物を持っていないにもかかわらず、預言者と称し神の言葉を聞くことができると言ったならば… これもまた同様の事が起こり得る。
 
ここでペテロは、私たちビリーバーに警告を与えている。
アナニヤとサッピラが偽りを装って献金を捧げた時、彼らは主なる聖霊とそれに属する主の共同体を欺いたのだ。彼らは信頼できる人物ではなく。聖なるコミュニティーに所属するべきではない。もちろん結末はあまりに極端なものだったが、神は「死」という罰を持って欺く者だったアナニヤを、主のコミュニティから取り除かれたのだ。 

あなたの足はアクセル上か、ブレーキ上か

雲の柱と火の柱

今週のパラシャで私が好きな箇所は、出エジプト記を締めくくる言葉だ。 

旅路にある間、イスラエルの全家の前には、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があった。

出エジプト記 40:38 

私は本当にこの箇所が好きだ。この箇所は私に、生活の中では何事もバランスが大切だということを教えてくれている。
人生の中のすべての事には、アクセルとブレーキのどちらかを踏むかというのが基礎にある。
 
私たちが情熱的になり、または霊的に盛り上がっている時には、たくさんのエネルギーがみなぎって心のエンジンに火がつき、アクセルを常に踏んでいる状況になりがちだ。しかしそんな時こそ、私たちは静まらなければならない。しかし反対に私たちが精神・霊的に眠くなったような状況で、惰性走行のように半分の力で走っている時は、濃いコーヒーを飲んで目をさまし、アクセルを踏み直さなければならない。
 
限界まで行ってしまったら、少し緩める必要がある。だが、緩めすぎると今度は元に戻すのが難しくなり、しなければならないことができなくなる。私たちが雲の中にいるような有頂天の時は、かえって地に足をつけなければならない。しかし落ち込んでいる状態ならば、私たちは少し立ち上ってアクセルを踏んで走り出し、問題を克服するよう努める必要がある。

旧約聖書時代の天秤の復元。皿の部分は実際のもの。
何事もバランスが大事。
(imj.org.il より)

イスラエルの民は、この聖句にあるように雲と火の柱と共に歩んだ。
火の柱は暗い荒野の夜の寒さの中、灯りと暖かさを与えてくれた。そして反対に雲の柱は、昼間の灼熱の陽を遮り疲れを癒す日陰を与えてくれた。人生はこんな矛盾・コントラストの連続だ。そんななかいつ・どれだけブレーキを踏み、いつ・どれだけアクセルを踏むか、その確かな感覚を養うことは重要で、この聖句からイスラエル民族はそれを学んだのだと私は察する。
 
これは霊的な生活にも大いに関係することだ。霊的そして肉体的な側面に関してもそれは二元論、二者択一ではない。霊的なことばかりに注力し、実際の(肉的な)生活を完全に無視することは、霊的な意味でも健康的ではない。
ここもまたアクセルとブレーキ同様、車を走らせるがごとくバランス良く両方使わなければならないのだ。 

結語

今週は出エジプト記の、壮大な結末を目にした。
イスラエルの民が心からの捧げ物・奉仕をして神のために建てた家に、主ご自身が降りてきて住まわれた。万軍の主・全ての創造主が、人と共に住まわれる。この結末が私たちに告げているのは、私たちが心から望んで働き、細部まで気を配って熱心な仕事の後には、神が私たちの間に住まわれるということだ。臨在が地上に起こるという霊的な最高到達点は、奇跡ではなくあまり見栄えせず、いたって平凡な「人による真摯さ・惜しみない心を持った働き」によって起こった。一見地味で地道なことにこそ大きな意味がある― これは、重要なポイントだ。
 
このメッセージが日本の皆さまを強め、励ますことが出来ればと願う。
来週から私たちはレビ記に入るが、これからも神のトーラー(律法・モーセ五書/教え)を共に学んでいければと思う。
日本の皆さまに、平安の安息日があるように。
シャバット・シャローム。

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