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第41週:ピネハス

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基本情報

パラシャ期間:2024年7月21日~ 7月27日 

通読箇所

トーラー(モーセ五書) 民数記 25:10 ~ 29:40
ハフタラ(預言書) 列王記第一 18:46 ~ 19:21
新約聖書 ヨハネ 2:13 ~ 2:25
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所) 

 全ての上にあるべき、愛
ユダ・バハナ 

ユダ・バハナ師
(ネティブヤ エルサレム)

今週のパラシャ、『ピネハス』はさまざまな物語で構成される、まるでカラフルなモザイクだ。ピネハスは先週のパラシャから、主人公として描かれている。イスラエルの子らは、死海の北東約10キロにあるシティムに宿営していた(民数記25:1)。そこでは、モアブの娘たちがイスラエル人を偶像崇拝に陥らせた。 

イスラエルはシティムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと、みだらなことをし始めた。
娘たちは、自分たちの神々にいけにえをささげるのに、民を招いたので、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。こうしてイスラエルは、バアル・ペオルを慕うようになったので、主の怒りはイスラエルに対して燃え上がった。

民数記 25:1~3 

その悲惨な結果としてして、24,000人の命が奪われるという惨劇が引き起こされた。そこで祭司エリエゼルの子ピネハスが、ミディアン人の女性とシメオン部族の族長を殺害したところ災いは収束した、という物語だ。

ピネハス(のルーツ)について 

そしてその直後から始まる今週のパラシャは彼にちなんで、ピネハスと名付けられており、彼の行動に対する神の反応から始まっている。その後、人口調査や各部族の規模に応じた土地の分割など、さまざまなトピックについても語っている。またツェロフハデの娘たちの平等に関する主張も、このパラシャで登場する。さらにヨシュアがモーセの跡を継ぎ、イスラエルの次の指導者に任命される。その後、安息日、過ぎ越しの祭りや初穂、新年に贖罪の日、仮庵の祭りなど、聖書の例祭とそれぞれの犠牲についての記述がある。
このように、ピネハスのパラシャはさまざまな話題に触れている。 

最初の話に戻ろう。
レビ族の祭司が、シメオン族の代表を殺した。この出来事は、暴力的で嫉妬深いヤコブの二人の息子、レビとシメオンに戻る。この息子たちは、妹ディナの名誉のためにシェケムで虐殺を行い、暴力で復讐を果たした。その行為はヤコブを非常に怯えさせ、彼らから相続権を取り上げている。
 
この話は、エジプトでのヨセフを思い出させる。兄弟たちのうちシメオンは逮捕され、エジプトの刑務所に投獄された(42:24)。そうなると、ドタンの谷でヨセフを殺すよう他の兄弟たちを説得したのは、シメオンだったのかもしれない。結局兄弟たちは、ヨセフを奴隷としてエジプト人に売ることで妥協し、手を打っている。
 
今回のパラシャは、ある宗教的に熱狂だった人間の名前が付けられており、この複雑で物議を醸す彼の行為については、多くの議論がなされている。しかし私たちのほとんどは、宗教的な熱意・過激性という概念を、恐ろしく否定的なものと感じる。それは人間の命とその価値を無視する、無分別な狂信者と捉えるからだ。 

イェシュア(イエス)とピネハスに見られる共通点

新約聖書を読んでも、時として熱心・熱烈さが入り込み時には暴力的になる可能性があることが分かる。イェシュア(イエス)が神殿に入った時、神の家が強盗の巣になり、人々の金銭への欲望が見えた。神殿の中庭は市場と化し、ゴシップや両替をという神殿には相応しくない露天商たちで賑わっていた。商人はお守りや土産物、さらにはいけにえさえも販売し、商売にしていた。
 
そこにあったのは経済的な利益のみを突き詰める姿で、そこに神は無く、忘れ去られていた。神殿は神はもちろん人でもなく、金が中心となっていた。私たちは純粋さと聖さを持ち、無心になって全能の神の御前に立つということを完全に忘れていた。貪欲さや禁欲が神殿を汚した時、神聖さとそれが醸し出す雰囲気は、腐敗に変わったのだ。
 
そしてイェシュアは自分が見たものに動揺し、愕然とした。彼は鞭を手に両替商の台をひっくり返し、行商人を追い払った。最上の犠牲を捧げ、愛と忠実な心で喜んで神に仕えることこそが、この神殿という場所では大事だったのではなかろうか?
 
少し考えてみよう。
私たちの配偶者は、たくさんの贈り物か愛する人の温かい存在や気配り・愛情の、どちらを好むだろうか。私たちは配偶者からの贈り物という物質的なものか、愛情から来る充実した時間を2人または家族で過ごしたいと願い―この2つのどちらを好むだろうか?
答えは明白だろう。
 
イェシュアの行動を考えてみよう。
彼は鞭を取り、テーブルをひっくり返した。ピネハスが槍を手に取り、二人を刺し殺したその反応を分析してみよう。この二人は一見罪を犯し、他の人々にも罪を犯させている。今日、そのような行動を支持することはできないだろう。
 
このピネハスから何をどう学ぶかで、私たちは最も恐ろしい道を進むか否かが変わってくる。神への純粋で聖い熱意を持つことと、熱狂的な原理的宗教家になることは、紙一重だからだ。 実際のところ「敬虔な熱意」と狂信的になる間の境界線は、どこにあるのだろうか?そして、誰が私たちを神の守護者に任命したのだろうか?
ここで強調したいのは、一定の権威ある立場から行動する人と、法律を自らの手に(し解釈してそれによって恣意的に行動)する人との間には、大きな違いがあるということだ。
 
イェシュアについては、こう記されている― 

御子は、見えない神の形であり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。
なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も、支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。

コロサイ 1:15~16 

イェシュアはこの世界を創造されたのであり、ご自分のものを思いのままに扱うことができる。
 
それと同様に、ピネハスも聖域で奉仕する祭司だった。
彼はアロンの子孫で祭司、人の上に立つ霊的指導者だ。彼の仕事は、公の場で起こる神の御名に対する最も深刻な冒涜を阻止することでもあった。
しかしピネハスの介入の直後、神はモーセに次のように告げている。 

それゆえ、言え。
『見よ。わたしは彼にわたしの平和の契約を与える。』

民数記 25:12 

ここに「平和の契約」という言葉が出て来る。ユダヤの聖書解釈者たちは、これら 2 つの言葉の組み合わせ、そしてそれを組み合わせて、神がピネハスに約束した「平和の契約」の意味を理解し解釈しようとする。
 
その中の視点の一つとして、国家や民族というコレクティブではピネハスのような暴力を伴う熱意や理想を政策とし、適用することはできないという理解がある。多くの解釈者たちは、「平和の契約」という表現を、神のピネハスに対するメッセージ、または熱狂的に燃えていたピネハスに対する「平和を自分のものにしてほしい」という要求である、とさえ解釈している。
あたかも神が、こう言っているかのようだ― 

「暴力的なほどのその熱意は、その瞬間にはふさわしいものだった。
ただし宗教・信仰的な熱意を、政策に反映させることは禁じられるべきだ。」

多くの解釈者たちはこの平和の契約から、最終的に世界は平和的な方法で統治されなければならないことを思い出させるものだ、と論じている。

宗教とは良いものか、悪いものか? 

カイサリア国立公園内での、ユダヤ教に基づく結婚式。
世俗派であっても、ユダヤ教に則った結婚式を挙げる場合が大半。
(parks.org.il より)

このパラシャでは必ず「宗教的熱意」という言葉がメインテーマになるが、多くの人にとって「宗教」という言葉には否定的な意味合いが含まれている。では、宗教とは何を意味しているのだろうか。宗教は必ずしも否定的なものではなく、むしろ私たちの人生をオーガナイズし、様々な境界線を設定し、整理するシステムでもあるのだ。
そしてコミュニティーとしての生活と、その中での相互関与を促進させる。宗教によって何が許可され何が禁止されているかが定義・共有され、時には個人を制限することにもなるがコミュニティー全体はそれによって保護されるのだ。
 
健全な宗教制度は、保守性とリベラル性によってバランスが保たれている。
保守的側面とは、事態が複雑・困難になったとしても古代の伝統を守り、現代の進歩に対処するという課題に直面する。一方リベラル的側面は、(誰にも迷惑をかけないとしても)伝統の大部分を廃止しようとする。
 
この両極が天秤のようにバランスが保たれている限りその宗教は機能し、非常に多くの様々な人々を包み、居場所を与えることができる。しかしそのバランスが極端に保守的な方向に傾くと、(例えばイスラム教に見られるような)暴力を伴う過激主義に繋がることとなる。また反対側に傾きすれば、それは正しい宗教像ではなくなってしまう。
 
一般に宗教とその枠組みは、良いものであり重要だ。
私の意見によれば、神は私たちの古代の伝統とともに、私たちユダヤ人が2000年にわたって世界中に離散していた時、私たちのアイデンティティを保つために『ユダヤ教』という宗教とそのシステムを利用した。歴史学的には、祖国を失い離れた多くの民族はたいていは五世代の後には、アイデンティティと自己決定権を失っていると教えている。そのような国々は周囲に同化し、民族としては姿を消していった。
 
しかしユダヤ人は言語や指導者、国旗や祖国、そして自治権も特定の領土もなく、2000年間の間『亡命生活』を送っていた。にもかかわらず、千年の時を越えてアイデンティティを保ち続けた。国から国・場所から場所へと追放され、世界中に追われるように散らばって行った。神は伝統や宗教を通して、私たちのアイデンティティを保って下さったのだ。

ユダヤ教という『宗教』があったからこそ守られた 

過ぎ越しの祭の種なしパンを密かに焼く、
ベルモンテのマラーノ(隠れユダヤ人)たち。1988年。
(kedem-auctions.com より)

2005年に私は、ポルトガル・ベルモンテにあるユダヤ博物館が開館した。そこで私は、その町に住んでいたマラーノ(異端審問から逃れるためにユダヤ的信仰を隠していた、『隠れユダヤ人』)の生活に関する、展示品や写真を見た。展示品にはマラーノが過ぎ越しのマッツァ(種なしパン)を二枚の屋根瓦で焼いて作る様子が、展示・紹介されていた。
 
またさまざまな種類・形をした、「携帯メズザ(門中にある祈りの文書が入った箱)」もあった。ユダヤ人の印とも言える家の門柱にメズザを置くことが禁じられていたため、メズザをポケットに隠して持っていたのだ。ユダヤ人たちは異端審問官による調査・捜査の、裏をかかなければならなかったのだ。
そこで彼らは、メズザの巻物を配置した小さな笛を発明した。マラーノの家族たちは突然の異端審問官の捜査で捕まるのを恐れたため、過ぎ越しの祭の当日・前日ではなく3・4日目に、誰にも見られない地下室で種なしのパンを焼いた。また大贖罪日には、祈るのために集まったのだが、まるでトランプをするふりをしていたりもした。
 
彼らは外からは見にくい飾り棚の中で安息日のろうそくに灯したり、鏡の前で1本のろうそくに火を灯してまるで(安息日に必要な)2本のろうそくがあるような細工をした。彼らは秋になれば、家の中に仮庵(スカ)を建てた。マラーノのユダヤ人は、私たちが知る中で最も困難な時代を生きた同胞のユダヤ人だ。彼らは私たちの先祖や母親の伝統を、命の危険がありながらも守り続けた。あらゆる逆境に抗い、ユダヤ人の持つ火花・DNAを維持、継承することに成功したのだ。
 
これもまた、ユダヤ的な信仰が宗教や伝統といったシステムになっていたからであり、宗教や伝統の重要性と必要性を示している。
 
したがって多くのユダヤ人と同様に、私は宗教と伝統をとても尊敬している。

細かすぎる戒律によって、本質を見失う危険性

パリサイ派に語り掛けるイェシュア(イエス)

宗教は重要で、ユダヤ人としてのアイデンティティを維持するうえで宗教は必要不可欠だった。それにもかかわらず聖書を読めば、ユダヤ教がさまざまな狂信的な指導者によってあまりにも簡単に利用され、過激化していったことがわかる。
そしてそれらの度が過ぎれば、私たち全体に災いがもたらされた。
 
イスラエルでは大きな町であれば、宗教的に最も厳格な『超正統派ユダヤ教徒』たちが住む場所がある。エルサレムであれば、町の中心部から歩いて数分のメア・シェアリームだ。彼らの地域には独特の雰囲気があり、そこには極端かつ過激な要素が見られ、それによって全体の雰囲気が支配されているのを感じることが出来る。
そして多くのユダヤ・イスラエル人は、こうした環境の一部になりたくないと思っている。
 
超正統派の地域では服装や持ち物などを皆が『慎み深さ』の基準に沿っているかを確認し合い、それぞれがそれぞれに対しての警官のような形になっている。例えば女性が肌が少し露出した半袖やショートパンツを着て行けば、白い目や軽蔑するような視線を投げ付けられるだけでなく、注意はもちろん最悪の場合は脅迫し傷つけられることもある。
また内輪であったとしても、自分たちの信仰や慣習に対して疑問を抱き、それに対して勇気を出して質問したというだけの理由で、その人は一夜にして同胞から『異端者・裏切り者』に変わり、さらには(家族を含めて)迫害されることさえある。
そして異端者・裏切り者に対する迫害を行う彼らの理想像こそが、ピネハスなのだ。
 
こういった場所では、非常に細かいユダヤ法のさらに細部にまでわたって忠実に従おうとする努力が、馬鹿馬鹿しいほどにまで強くなっている。そしてこれはまさに、イェシュアが警鐘を鳴らしていたものだった― 

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。
おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。

マタイ 23:23 

私たちはさらに『宗教的』になる必要があるだろうか?もちろん違う。イェシュアは私たちに、神を愛することと隣人を自分のように愛することを含む、純粋で善良な信仰に立ち返るよう求めている。
この聖句の正しい解釈は、神のトーラーを私たちの心に書き記すことだ。たとえそれが神聖なものであっても、冷たい石板の上にのみ書き残しておくのではない。むしろ、それが私たちの心と魂に浸透し、とどまるようにしなければならない。
これがメシア・イェシュア(イエス・キリスト)に対する私たちの信仰だ。
 
実戦的なレベルで、イェシュアは何と言っているのだろうか?
私たちはパリサイ人や律法学者以上に、細かい点に至るまで戒めを守るよう努力する必要があるのだろうか。答えはNOだ!
イェシュアがここで律法への極端で過激的で熱烈な固執は、神の言葉や愛・喜びから私たちを遠ざけるからだ。
 
イェシュアは、私たちの態度について語っている。宗教とは異なり、信仰は隣人や神に対する私たちの態度や関係に焦点を当てるものだ。
そしてイェシュアは、戒めを守る=宗教だけでは十分ではないと教えている。私たちは、雑用をこなすかのように戒めを行なっているのではない。神は、私たちの心と意図に対して関心を持っておられる。そして私たちは喜びとともに、神に仕えることが求められている。宗教的な怒りや、原理主義的な熱心さではなくだ。
 
新約聖書の中で最も重要な教えの一つ、山上の垂訓の中でイェシュアは、心の大切さについて教えている。すべては、私たちの心に帰結するのだ!
これは私たちを愛という最高のレベルに導く。一方、最も低いレベルであるが重要なレベルは宗教だ。そして愛のない宗教は、必ず私たちを危険な過激主義に導くだろう。一方、信仰は私たちに喜びと愛を持って神に仕えるようにさせる。
 
最高のレベルは愛だ。パウロは次のように教えている― 

愛は寛容であり、愛は親切です。また、人をねたみません。
愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
愛は決して絶えることがありません。

1 コリント 13:4~8 

宗教の枠組みは、私たちの生活を保護するために越えてはならない制限・境界を設定することを目的としている。
一方、信仰によって、私たちは愛と喜びを持って神に仕えることができる。宗教的(例えばキリスト教的な宗教さはそこま)でなくても、強い信仰(神とイェシュアへの信仰)を持つことは可能だ。そして信仰は宗教よりも偉大で、宗教の境界や定義によって制限されることはない。
 
すべての中で最も偉大なのは愛であり、イェシュアが神のみ言葉全体を愛に置いているのは偶然ではない。信仰から来る愛、アブラハム・イサク・ヤコブの神が源である愛、愛はすべてを高め、完成させるからだ― 

こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。
その中でー番すぐれているのは愛です。

1コリント 13:13 

日本の皆さまのうえに、豊かな週末があるように。
シャバット・シャローム! 

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