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第37週:ピネハス

基本情報

パラシャ期間:2023年7月2日~ 7月8日

通読箇所
トーラー(モーセ五書) 民数記 25:10 ~ 29:40
ハフタラ(預言書) 列王記第一 18:46 ~ 19:21
新約聖書 ヨハネ 2:13 ~ 2:25
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所) 

ヨセフ・シュラム師と読む
パラシャット・ピネハス

ヨセフ・シュラム
(ネティブヤ エルサレム)

今週のパラシャの背景―

イスラエルの民を望む、バラム(左)とバラク(中央)

今週のパラシャ(通読箇所)は「ピネハス」、ヘブライ語ではピンハスと発音する。ここは民数記の中で、私の最も好きな箇所のーつだ。さて、内容に入る前にこのパラシャの背景について考えてみたい。
 
先週のパラシャは「バラク」だった。そこではモアブの王バラクが、自身の国を通り抜けてヨルダン川からカナンの地に向かっていたイスラエル人を、呪いによって妨害している。そのためにバラクは、魔術師だったバラムをメソポタミアからヨルダンに呼び出した。
ちなみにバラクは、現在における私たちの現在の敵(=イスラエルに敵対するアラブ諸国)がまだ理解していないことを、十分理解していた。 

それは、
神はイスラエルと共におられ、
イスラエルとの間の約束を必ず守られる
ということだ。

それがこの私たちが生きる時代か、または数世紀後になるか― それは分かり得ない。しかし聖書の中の全ての約束、あの有名な乾いた枯れ骨の復活を含む、イスラエルに対する神のすべての約束・預言は、遅かれ早かれ成就する。
私たちはこの21世紀初頭、その一端を目にしているが、それはまだ全て・完全な姿での成就ではない。
いずれ、全世界からユダヤ人がイスラエルの地に帰還した後に定住し、この土地が繁栄し、敵に打ち勝ち、平和が永遠に保たれる。聖書に約束されているこれらは全てがいずれ現実になることであり、実際にその一部分はすでに始まっている。 

ちなみに先週のパラシャで呪いのために呼び出されたバラムは、黙示録2・3章など聖書に何度か言及されている。バラムは、聖書全体で最悪の敵のなかの一人として描かれるなど、非常に奇妙な人物だ。
その一方でバラムはイスラエルの全能の神と会話をし、神に従った。神がするなと命じれば、バラムはそれをしなかった。彼は王であるバラクに対して、呪うことはできないと答えた。そしてバラムは、神がせよと言われたことはしなければならないと答えた(民数23:12など)。
しかし同時にバラクは、約束された金銀のためバラクに助言を与えた。

彼は、イスラエル人に勝ちたいのならば、彼らに美しい娘を送れと言ったのだ。モアブの美しい娘たちにイスラエルの男性を誘惑させよ。彼らは堕落し、罪を犯すだろう。そして神はそれを敵視し、怒りを発する。そうすればあなたは、イスラエル人に勝利することができるだろう、と。(民数記31:16・25:1~4) 

バラクはその助言に耳を傾け、イスラエルの男たちを誘惑するため美しいモアブの娘たちを送り、そしてそれは成功した。
実際、モアブの王の娘、ミデヤンの氏族の長の娘・王女コズビを送り、イスラエルの部族の長の息子の一人、シメオン部族の長サルの子ジムリの誘惑に成功している。 

そして目をおおうような光景が、繰り広げられることとなる。白昼堂々、人々はもちろん神の前である神の幕屋の入り口で、彼らは淫らなことを行ったのだ。
しかしモーセはレビ人や祭司・長老たちと共にそこに立ち、ただそれを見ながら手をこまねいていた。
モーセは神にこう嘆いたことだろう― 
「神よ、私には何ができるというのでしょうか? 」

そんな時、律法によって任命されていなかった若者が、律法を自らの手に取り、過激な行動を行った。アロンの子、エルアザルの子ピネハス、彼は祭司の子だった。
ここからが、今週のパラシャ「ピネハス」だ。 

現在では「テロリスト」と呼ばれる、ピネハスの行為―

ジムリ・コズビとピネハス

ピネハスは、モーセをはじめイスラエルの指導部が無力で、何もせず、手をこまねき、神に向かって泣いているだけという光景を見た。コズビとジムリは、主の前で淫らなことをしている。
すると、このピネハスは立ち上がり、槍を取ってこの二人の腹を刺し通した。槍は地面に、泥の中に突き刺さったことだろう。 

さてここで注目すべきなのは、

  1. 彼のしたことは律法に反するということ

  2. 彼自身が律法であったり、律法の枠組みを超えた存在では決してない

というポイントだ。
彼は誰か他人の命を奪うことを、神を含め誰にも許可されなかった。
そして彼は、モーセによって任命された存在でもなかった。言い方を変えれば、彼は神からの律法を自分勝手に解釈し、それを実行に移したのだ。

今日イスラエルをはじめ現代国家でそんなことをしたなら、刑務所に収監されているだろう。
実際にイスラエル人兵士を殺害し、さらに他の兵士たちを危険にさらしたアラブ人テロリストを、ある兵士が将校の許可なしに射殺した事件が数年前に起こった。そしてその兵士は逮捕・起訴され、(現在は釈放されたが)刑務所に入れられた。 

他方、イスラエルと敵対しているアラブ諸国やパレスチナでは、ユダヤ人を殺せば報酬を得ることができる。もし当人は射殺されたとしても、彼の家族は残りの人生で特別な給付金を受け取り続ける。現実、パレスチナ自治政府の国家予算において、それは大きなウェイトを占めている。
したがってピネハスが現代で同じことをしていたら、ユダヤ人テロリストとなっていただろう。
しかし神は、ピネハスが何をしたかを見た。
民数記 25: 11だ―

祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスは、イスラエルの子らに対するわたしの憤りを押しとどめた。彼がイスラエルの子らのただ中で、わたしのねたみを自分のねたみとしたからである。
それでわたしは、わたしのねたみによって、イスラエルの子らを絶ち滅ぼすことはしなかった。

 これが神の言葉だ。神はイスラエル(ジムリ)の罪に対して、そして指導者たちの無力さに対する自身の怒りを、ピネハスの狂気じみた行為を目にしたことで収められた。
この若者の熱意がイスラエルを救い、神自身の心を変えた。神はイスラエルの子らの無力さ・行動を起こさない様子に腹を立てていたが、ピネハスがすべてを変えた。
彼は結果的にイスラエルを、この大きな恥から救った。
イスラエルが、部族の長であるジムリに、神の霊(昼は雲の柱・夜は火の柱)が臨在する神の幕屋の入り口で、モアブ人の王女と淫らなことをするのを許した、というその大きな恥・罪からだ。 

そしてピネハスは神に罰されずに、それどころか報われた
律法を(まるで神の手から取り)自分の手に取り、無視し破ったことに対して、神は彼を祝福した。 

見よ、わたしは彼にわたしの平和の契約を与える。
これは、彼とその後の彼の子孫にとって、永遠にわたる祭司職の契約となる。それは、彼が神のねたみを自分のものとし、イスラエルの子らのために宥めを行ったからである。

民数記 25: 12-13

神は12節で、この若者に平和=シャロームの契約を授ける、と言われた。
法律を自分の手に取った(無視した)彼を罰する代わりに、平和の祝福を与えた。
なぜこのような永遠の強力な契約を、ピネハスとその子孫にされたのだろうか?
彼には熱意があり、その熱意がイスラエルの罪・弱さを贖ったからだ。 

そして次の14節は、ピネハスが槍で地面に刺し通した2人について記している。

  • ジムリ= シメオンの部族の長サルの子

  • コズビ=ミデヤン人の王女、ツル(岩の意、ペテロも岩という単語から派生)の娘

の2人だ。

ペトラ(この町の名も岩から派生)はモアブの首都だった。インディ・ジョーンズのロケ地にもなったここは、現在でも世界中から観光客を迎える、非常に興味深い遺跡として知られている。

ペトラの遺跡

そして16節で、神はモーセに向かいこう語っている。 

「ミディアン人を襲い、彼らを討て。
彼らは巧妙に仕組んだ企みによって、ペオルの事件であなたがたを襲ったからだ。ペオルの事件の主の罰の日に殺された彼らの同族の女、ミディアンの族長の娘コズビの一件だ。」

民数記 25:17~18

あなたはイスラエルに、ミディアンびとを憎み、攻撃し殺すよう命じなければならない。
先に言及しなかったが、モアブのこれらの娘たちがイスラエルに来て、イスラエルの人々を誘惑したとき、疫病がイスラエルを襲った。これは「ペオルの災い」と呼ばれている。 

「ペオルの災い」が何を意味するか、学者・神学者の間では議論がある。だが、ペオルはミディアンの神々の1人で、その神を崇拝する方法とは、神殿という公の場での性行為だったと言われている。

古代ギリシャ・ローマが最も知られているが、
それ以前から中東をはじめ古代世界においては盛んに行われていた神聖・神殿娼婦。

ヘレニズム(古代ギリシャ)や古代ローマでは、神聖娼婦と呼ばれる祭儀として売春が神殿で行われていた。これは古代世界においては広くあった習慣であり、異教・偶像崇拝の世界では珍しいことではない。性交が夫婦生活だけではなく、偶像の神々への献身を表す、1つの方法として考えられていた。 

法・常識からの逸脱ー

社会の枠組みを逸脱した行動を起こした、ピネハス。

もう少し、法・律法とそれを逸脱した行為について、考えてみよう。
私たちは現代社会の常識から、法律は絶対に破ってはいけないもの、という教育を受けている。 

しかし歴史では、その時の状況から法を自ららのものとして、手に取り、時には無視するような、英雄的行為で満ちているというのも事実だ。
そんな場合彼らは自身は責任を負うべき立場ではなかったり、法的にその任務や状況のために任命されていなかったとしても、そこに必要性を見た時、法を逸脱した行為を行い、なおかつ彼らはそれに対する責任を取った。

例えば『良きサマリヤ人の譬え』は、それを最も明確に教えている例だ。 

サマリアびとの譬えも実は法や常識を逸脱した行為―

良きサマリアびとの譬え

殴られて、道路の脇で血を流している人を見た時、レビ人と祭司は自身を(祭儀的観点から)汚したくなかったので、通り過ぎて行った。汚れてしまえば、その日は神殿で奉仕できなくなり、助ける行為の中で他人の血に触れ儀礼的汚れを身に受けたくなかったのだ。

しかしユダヤ人を憎み、ユダヤ人から憎まれていたサマリヤ人は、そのけが人に対する法的責任も発生しておらず、(レビ人や祭司と違い)他に対して仕えるというような任務・立場に任命されていた訳でもなかった
しかし倒れている人を見て、そのサマリアびとは重傷者を懸命に助けたのだ。
彼はその人宿に連れて行き、元気になってそこから出ることができるまで、かかった費用をすべて支払うと宿主に言った。彼はそうする必要はなかったし、それが彼の仕事でもなかった。
サマリアびとはそうする必要が全くなかったのにかかわらず、そうしたのだ。
そしてイェシュアはこの行為を褒め、たとえとして語った。

有名ラビがイエスの譬えをTVで言及ー 

積極的にTVなどのメディアで、聖書やユダヤ教について分かりやすく語ることで知られる、
ラビ・ベニー・ラウ(右)
(DemocraTV Youtubeチャンネルより)

私はある日、ユダヤ教正統派のなかで有名なラビが、テレビでこう言っているのを観た。
ベニー・ラウと呼ばれるとても有名で革新的かつ影響力のあるラビで、彼の叔父であるイスラエル=メイール・ラウは、イスラエルのチーフ・ラビを10年間務めるなど、ラビ一家だ。

そんなベニー・ラウがテレビで、
「聖いとはどういうことか」
との質問を受けた。レビ記19:1~2には、「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない」とあり、そこから出てきた質問だった。 

インタビュアーは彼に
「ラビ・ベニー、聖いとはどういう意味ですか?」
と問いかけた。
すると彼はなんと、

「良きサマリヤ人のようになることだ」

と答えたのだ。

するとインタビュアーはすかさず
「あなたはイエス(イェシュ)から引用していることを、理解した上で言っていますか?」
と投げ掛けたのだが、するとラビ・ラウはこう返した。

「私にとってイエスは、重要なラビの1人だ」 

兄弟姉妹の皆さま、
これがここイスラエルでゆっくりではあるが起こっていることだ。

さて、このパラシャの名前になっているピネハスは、私たちに大きな教訓を与えている。
法律や常識を守る、という選択肢が私たちの手のなかにない場合もあるのだ。そして時には、神の御心を行なうために、それらを逸脱し、破らなければならないこともある。 

諸国民の義人たちも法律を逸脱した結果―

イスラエルでは毎年、ホロコースト記念日があり国中で喪に服す。600万人もの、私たちの父祖であるユダヤ人が犠牲になったからだ。
ネティブヤがあるエルサレムには『ヤッド・バシェム』というホロコースト博物館があり、そこでは「諸国民の中の義人」と呼ばれる、命を掛けてユダヤ人を助けた非ユダヤ人たちについても紹介され、彼ら1人1人のための木が植えられている。
日本の外交官だった、杉原千畝も「諸国民の中の義人」の代表的な1人だ。 

何千人もの異邦人がいたが、その多くはナチス統治下に信仰を守り続けたカトリックの司祭・修道士たちだ。
彼ら・彼女らは聖書で禁じられている①嘘や②盗みを犯し、ユダヤ人の子供たちを修道院や教会に隠まって命を救った。 

現在はもちろん退役しているが建国当初のイスラエルには、カトリック司祭によって救われ13歳までカトリック教徒として育てられ、その後帰還しイスラエル軍の将校になったのが、何人かいた。
またカトリックとして育てられる中でカルメル会の修道士となったダニエル・ルファイゼンや、同様にドミニコ会の修道士となり、その後イスラエルで初めてのユダヤ人とアラブ人が共存する村を立ち上げた、ブルーノ・フッサール司祭など、偉大なユダヤ人でありながらイェシュアの信仰を貫き通した、親愛なる兄弟姉妹たちもいる。

彼らはイスラエル国家にとって偉大なことをした、偉大な真のシオニストだ。 

26章の軍創設=古代イスラエルの屋台骨

the Torah.com より

バラムの助言によって、モアブはイスラエルに勝つために自分たちの女性たちを送り込んだ。そしてそれに対して神は、祭司エルアザルとモーセに、20歳以上の者で軍隊をつくるように命じている。
エジプトから出てきた20歳から50歳までを数え、イスラエルの歴史の中で初めて軍隊を創設した。これが今週のパラシャの続きにあたる、民数記26章だ。 

そして彼らは神の言葉に従って、イスラエル軍を立ち上げた。そしてこれが、彼らが後にヨルダン川を渡り、神がアブラハム・イサク・ヤコブに与えられた土地を手にすることになる、その素地となっていった。 

例えば約束の地の中で最初に与えられた町は、エリコだ。エリコの占領は超自然的な形であり、軍隊の必要性は最小限だったが、それ以降の町・土地はリアルな戦争によって勝ち取ったものが大半だ。そしてそのためには、軍隊が必要不可欠だった。

テル・エリコ(エリコ遺跡)
beinharimtours.com より

このように、今週のパラシャにある軍創設がイスラエル民族の定住というためだけでなく、偶像崇拝と異教の神々から土地をきよめるための、約200年掛かった遠征・戦争の屋台骨となった。
そしてダビデの時代にはイスラエルはそのミッションに概ね成功し、多かれ少なかれ土地を清めることができた。 

神は人のために律法を変えることもー

モーセに嘆願する、ツェロフハデの娘たち

最後に少し飛ぶが、27章の特殊なエピソードに目を向けたい。 

さて、ヨセフの子マナセの一族のツェロフハデの娘たちが進み出た。
ツェロフハデはヘフェルの子、ヘフェルはギルアデの子、ギルアデはマキルの子、マキルはマナセの子であり、その娘たちの名はマフラ、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァであった。

1節

ヨセフの部族のツェロフハデという人には、娘だけで、五人の娘がいた。しかし、ツェロフハデ氏は、相続する息子がいないまま死んでしまった。
モーセがシナイ山で与えた律法(トーラー)によると、相続権を持っているのは男子だけだ。
娘は男性と結婚すると、夫の家族に加わり父の家を離れることになるため、息子だけが相続することができ娘は相続することができない
これが、シナイ山で与えられた相続法の、ロジックだ。 

しかし、このツェロフハデの5人の娘たちはモーセのところに来て、それは公平ではないと言った。自分たちの父には息子がおらず、娘しかいない、自分たちも父から相続したい。

ここで、もしモーセが政府の役人や大臣あるいは首相・大統領のようであったなら、
「規則は規則、法律は法律。不可能だ」
と言い、一蹴していたことだろう。
しかも神自身がモーセに対して、「娘は相続しない、受け継げない」と命じている。

しかしモーセはここで、このシステムに不公平があることを理解し、彼女たちの身になって、(神/神の律法に対し)疑問を感じることができた。
 そこでモーセは彼女たちの言い分を、正当な主張だと神に対して提示した(5節)。

すると神は、どうされただろうか。神は彼女たちの言い分を正しいものと認め、トーラーをすぐに改正・書き換えられたのだ。
ツェロフハデの娘たちのような相続権を持つ男子がいない場合には、娘たちに相続させると。

この、

「神は人側の必要性を感じ、律法を変えられることもある」

というポイントも、今週のパラシャが教える重要なレッスンだ。
娘たちが相続できないのは公平ではない― この彼女たちの言い分は、正しかったのだ。
そして神は、相続法の改正を決断された。 

愛する兄弟姉妹よ、これは素晴らしいストーリーであり、私たちにとっては大きな励ましだ。神はマフラをはじめ5人の娘たちの声に耳を傾け、トーラーの問題を理解された。彼女たちのケースに関して、トーラーは公正で正しい答えを出せていなかった。

多くのクリスチャンは旧約・新約聖書のコントラストを強調させるため、旧約聖書やトーラーを「新約とは対極にある、愛や思いやりのない律法主義が具現化したもの」のように捉える傾向がある。

しかし神は旧約の時代から、常に私たちの必要性や希望・要望・心の叫びに対して耳を傾け、時としては神側のルールを変えられる、柔軟な頭の柔らかい方なのだ。 

そんなお方に仕えられていることに感謝しつつ、皆さまと共に神に仕え続けて行きたい。
シャバット・シャローム

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