第24週:バ・イクラ(呼んだ)
基本情報
パラシャ期間:2024年3月17日~ 3月23日
通読箇所
トーラー(モーセ五書) レビ記 1:1 ~6:7(ヘブライ語聖書では5章最後)
ハフタラ(預言書) イザヤ 43:21 ~ 44:23
新約聖書 ヘブル人への手紙10:1 ~ 18
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所)
犠牲を捧げる人の人格は重要なのか
ユダ・バハナ
今週私たちは、新しい書『レビ記』に入る。バ・イクラのパラシャは、主へのいけにえの律法と規則を扱っている。イェシュアが昇天してから約 40 年後の西暦 70 年に第二神殿は破壊され、それ以降全てのいけにえの制度はユダヤ民族にとっては「過去の物」となった。そんな神殿と、そこでのいけにえをはじめとする祭儀を失ったイスラエルの賢者たちは、民の祈りがいけにえに取って代わると取り決めた。
これは、次のホセア書のみことばに基づいている。
私たちにはくちびるのいけにえ=祈り・賛美があり、これは祭壇でのいけにえよりも神の目にかなう、価値があるのだ。ユダヤ人の伝統的な祈りがいけにえの法則に従って構成されているのは、まさにこのためだ。
そして敬虔なユダヤ人は毎日、3度祈りの時を持つ。
朝― シャハリット
午後― ミンハ
夕方― アルビット
これは毎日のいけにえのスケジュールに対応しており、それぞれの祈りも呼び名もいけにえと同じだ。まさに祈りは、いけにえの代わりとして捧げられている。シャバット(安息日)や祭りでの追加の祈り「ムサフ」も、安息日に捧げる特別・追加の犠牲にちなんで名付けられている。
このようにいけにえの記憶と意図は、私たちの祈りとシナゴグでの朗読の中に、日常的に存在している。
いけにえの意義・必要性
しかし、より根本的な疑問について考えてみよう。
いけにえを捧げる理由は、何なのだろうか?
なぜ人々はそれを捧げるのか?
三つの角度から、説明を試みてみよう。
最初のアプローチはいけにえを象徴・シンボルとして見る、というものだ。
いけにえを捧げる人は、その動物が屠殺・解体され、祭壇で焼かれるのを自らの目で見る。または見なくても、少なくとも動物が屠殺されることを知っている。自分の罪の為に動物が命を落としている―そんな経験・事実は、強い印象を人の心に残すだろう。
罪のない動物が罰を受けて苦しみ、私たち罪人に取って代わる。その瞬間に私たちは自身の罪と、自分が御前に立つに値しないということを痛感する。
ヨム・キプール前の贖罪の伝統にも、同じ考えが見られる。ユダヤ教の宗教的な人々は頭上で生きている鶏を振り回し「これが私の贖罪です」と告白する(カパロット 写真下)。その後、鶏は屠殺され、罪人は平穏な生活を続けるのだ。
個人的に私は動物の苦しみを考えると、この伝統に反対だ。またそれ以上に私は、イェシュアによる贖いを信じているため、この意味をなさない伝統には反対だ。
もう二つの説明は、互いに矛盾するものになっている。
第2のアプローチは、異教を防ぐために犠牲が与えられたというものだ。いけにえを捧げたくなったイスラエル人は、聖書の神の神殿でそれを捧げることができるため、異教の神殿に行く必要はない。もし聖書が当時一般的だったいけにえを全面禁止にしていたら、彼らは「他の民族と同様、いけにえを捧げたいから」という理由で、偶像崇拝に落ちて行ったことだろう。
したがっていけにえの命令は、異教に向かうことを妨げる予防策とも見れる。しかしこのアプローチのみを採用すると、レビ記の中やその後のラビ文献で主要なウェイトを占めるいけに関する戒めは霊的な意味・意義を持たず、異教から守るための予防策にすぎないことになる。
第3のアプローチは、いけにえは人々を神に近づけるためのものというものだ。神への礼拝やより能動的ないけにえという行為は、それと行う者の心を整え、私たちを神に近づける。いけにえには「偶像崇拝に陥らないため」という現実的な理由だけでなく、霊的な意味がしっかりあるというのが、このアプローチだ。
神を愛しているのならば、その神に何か捧げようとするのは自然な心情だ。
いけにえ・捧げものは聖書を貫くテーマ
イェシュア(イエス)をメシアと信じるビリーバーとして、私たちは最初の説明・アプローチに同意する。いけにえは象徴であり、その目的は罪の赦し・贖いだ。私たちはいけにえが罪人に取って代わると信じている。私の代わりにいけにえが殺され、解体され、焼かれていく。
新約聖書を見ると、血が流されない限り贖いはないとある。
そして、いけにえが特定の罪のために捧げられた場合、または罪が神によって赦された場合、いけにえを捧げる理由はない。ヘブル書に書かれている通りだ。
ただこれはいけにえに対する1つの面であり、全てのいけにえが「罪の赦し」のためだけに捧げられるのではない。
今週のパラシャをはじめレビ記には、多くの異なるいけにえが取り上げられている。全焼のいけにえ、和解のいけにえ、罪のためのいけにえ、罪過のいけにえ・・・神がさまざまな時・理由に応じ、さまざまな種類のいけにえを要求しているという事実は、神の目にいけにえが重要であることを意味している。
いけにえとささげ物は聖書の冒頭から現れ、新約聖書の終わりまで続く。そして新約聖書全体は、すべての究極の犠牲である神の子イェシュアに基づいている。
創世記ではカインとアベルの物語で、人から神への最初のいけにえが登場する。
この犠牲はまた、最初の嫉妬とそれに続く最初の殺人でもある。なぜなら、嫉妬がカインを弟アベルの殺害へと駆り立てたからだ。そしてこのカインの捧げ物の物語は、次のような疑問へと私たちを導く。
いけにえの品質は重要か?
いけにえを捧げる者の人格や心は、重要か?
捧げ物か、捧げる人か
神はなぜ、カインのささげ物を拒んだのか。
一部の注解者は、アベルが「初子の中から肥えたもの」という最高・最良のものを神に捧げたのに対し、カインについては「地の実」と、必ずしも最高のものではなかったと説明している。したがって私たちが持っている最高、そして最初のものを神に捧げる必要があると結論付ける。
ここから「ビクリーム」または「収穫の初物」という言葉が、最高の収穫物を神に捧げる際に使われている。
しかし、このカインとアベルの物語を別の角度から解釈する人もいる。
聖書は神がアベルが捧げた『ささげ物』をカインの捧げた『ささげ物』よりも好んだ、とは言っていない。神は『アベルと彼のささげ物』を好み、『カインと彼のささげ物』は神の目にかなわなかった、とある。ここからささげ物ではなく、それを捧げたアベルとカインの人間性や霊的状態といったところに違いがあったのでは、と考えられるのだ。
神はカインを目に留められなかったので、彼が携えて来たささげ物を拒否した。その反面、アベルは神の目に適っていたため、そのささげ物を(そのささげ物自体の質に関係なく)受け入れられた― こう読み解く、聖書解釈もいる。
私は2人が捧げた『物』と捧げた2人の『人』の、両方に違いがあったと考える。上記2つのアップローチを組み合わせた考えだ。神はささげ物も、それを捧げる人も、双方を注意深く見ておられる。
『物』は関係なく『人』だけだという考え方は、今週のパラシャを読めば間違いであることが分かる。傷や欠陥のある動物をいけにえにすることは禁じられており、「傷のない」と言う単語は今週のパラシャの中だけで10回以上も使われている。また捧げるものだけでなく、祭司も身体に障害があれば神殿で奉仕することはできない。
しかし他方、いけにえを捧げる人間側の状態や性格・心持ちも重要だ。その人がどんな人間で、なぜ、そしてどのような霊的状態でこの犠牲を捧げるのか?動物または穀物を携えて来た際、彼または彼女の心には何があるのか―
特にメシアのビリーバーである私たちは、贖罪つまり罪の赦しをもたらすことが目的であり、いけにえを象徴・シンボルとして見る傾向が強い。いけにえが上質であればあるほど神を満足させ、神は私たちの罪を赦してくださる。そしてイェシュアによって神は、常に私たちの犠牲を受け入れてくださると考える。
しかし、いけにえは全体像の半分に過ぎない。神は捧げる私たち人の心も望んでおられる。旧約聖書の中ではささげ物の質も確かに重要だったが、いけにえを捧げる人の霊的状態ほどではなかった。神はまず私たちの心に目をやり、時として試し、その心が目に適えば、いけにえを受け入れられた。
カイン以降も神は、人からの捧げ物を拒むことができるだろうか?
私たちの祈りを聞き入れることを、拒否できるだろうか?
それは、もちろん出来るし起こり得る。
預言者イザヤは、私たちの心が正しい場所・状況にない時、私たちの断食やいけにえ・聖日などのすべてが無駄で、神はそれを望んでおられないと教えている。
完全なるいけにえであるイェシュアと、私たち
神の御前に来、私たちの祈りと捧げ物を神に差し出す前に、そして「メシア・イェシュア/イエス・キリストの御名によって」と言う前に、私たちは自分の心が正しい状況であるか、確認しなければならない。自身の神と周囲への態度や心を修正するために全力を尽くし、悔い改めてから、神の御前に来なければならない。そして神にいけにえや祈りをささげる前に、他の人に対する態度を改善し、正さなければならない。
イェシュアは私たちに次の重要なルールを教えている。
新約聖書は、人の内なる本質と心の重要性を教えている。
人は捧げ物を幕屋や神殿、現代であれば教会やシナゴグに持って来て捧げることができる。上質の牛やヤギ・穀物、現代であれば多額の献金を捧げ物/いけにえとして捧げる人は、神に対して最善を尽くしているように見える。では自動的・無条件に神はそんな捧げ物を、受け入れるだろうか?
その答えは、それを携えやって来る人の霊的状態による。イェシュア・新約聖書は、完全な悔い改めと清い心の重要性を指摘している。私たちにはささげ物を用意する前に、内なる変化が求められているのだ。
そしてイェシュアはそこから、さらにもう一歩踏み込んでいる。
罪を犯し神に対してゆるしが必要になった際― 私たちは「神からの赦し」に気を取られ、「人からの赦し」を疎かにする性質・弱さがある。神と和解しようという正しい意図を持ったのであれば、まずは人との和解に目を向ける。イェシュアが神への捧げ物の前にまず行って、兄弟姉妹と和解すべきと教えている通りだ。
今日はささげる『物』とそれを捧げる『人』― これは100・0の二元論ではなく、両方が重要であることを学んだ。しかし旧約においてはイザヤの警告などからも、捧げ物ではなくそれを捧げる人=私たちに、より目を向けるべきであることが分かった。
そしてイェシュアの十字架以降を生きる私たちには、生ける神の子であるメシア・イェシュア/イエス・キリストという完全かつ究極のいけにえが与えられている。
ささげる『物』はこれ以上ないもの。あとは私たちがそれをどのような心をもって携え、捧げるかだ。
レビ記では、多くのいけにえや祭儀における規定が続き取っ付きにくい部分も多いが、日本の皆さまと喜びをもってパラシャット・ハシャブアの旅路を進めていきたいと思う。
日本の皆さまに、平安の安息日があるように。
シャバット・シャローム。
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