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第42週:レエ(見よ)

シュラム師は言及されていませんが、去年神がのろいを置いたとされるエバル山で、「のろいの文書」とも呼べる考古学的発見が見つかりました。
それについては、こちらの記事で取り上げています。


基本情報

パラシャ期間:2023年8月6日~ 8月12日
 
通読箇所
トーラー(モーセ五書) 申命記 11:26 ~ 16:17
ハフタラ(預言書) イザヤ 54:11 ~ 55:5 
新約聖書 使徒の働き 13:13 ~ 52
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所) 

 ヨセフ・シュラム師と学ぶパラシャット・ハシャブア

ヨセフ・シュラム師
(ネティブヤ エルサレム)

個人的にこのパラシャ(通読箇所)は、創世記から黙示録までの中で最も重要な部分の一つだ。ここには、聖書の他の場所ではほとんど言及されていないことが取り上げられてもいる。そしてイェシュア(イエス)の教えの中には、山上の垂訓をはじめ申命記に基づいているものも多い。 

祝福とのろい― どちらを取るか?

パラシャの1節目、申命記11章26節を読んでみよう。 

見よ(ראה/ レエ)、
私は今日、あなたがたの前に祝福とのろいを置く。 

日本語などヘブライ語とは文章構造が異なる言語でも、多くの場合このパラシャでは最初の単語が「レエ/見よ」になっている。これもまた重要なサインだ。そして「見る」という最も基本的な動詞の命令形ではあるが、これは非常に重要な単語であり、一考する価値がある。 

神はイスラエル民族、そして世界中の神の子ら=異邦人ビリーバーである皆さまに対して、日々この瞬間、「レエ/見よ!!」と語り掛けている。これはこのパラシャだけではなく、創世記から黙示録までを貫く、聖書の本質だ。私たちは神からの「レエ!!」に対して、どう応えているだろうか。
そしてこの節の後半部を簡潔にすると、神はこう語り掛けている―

私はあなたに選択肢を与えている。
祝福かのろい― あなたはどちらを取るのか。

この1節は、意味を真剣に考えると鳥肌が立つものだ。 

(cacklescorner.com より)

私は現在77歳で、朝起きると頭や骨や背中・足などが痛む。イディッシュ語(ドイツ語圏のユダヤ人たちが使う言語)には、こんな言葉がある。

あなたが70歳を過ぎて朝起きた時に何の痛みもない場合、
それが意味することはただひとつ― 死である。

この言葉は全くその通りだ。
生きている証拠として私は毎朝、ここ・あそこが痛い、そして頭から背中そして足と、様々な問題と共に目を覚ましている。そしてベッドから起き上がって身支度をするが、そんな私の前には2つの選択肢が横たわっている。
この日が祝福になるのか、または私にとってのろいになるのか。
そして日々の大小さまざまな選択の場面において、そのどちらをチョイスするのか。
これは年齢や健康状態に関係なく、皆に適用される。 

聖書にはのろいのリストとなっている章が複数あり、これについてはあまり知られていないかと思う。例えば―

  • 父親や母親に対して手を挙げる者

  • 父親や母親をのろう者

  • 所有している畑の境界線を(自分に有利なように)偽り・だます者

  • 義理の母と寝る者

などはのろわれる、と聖書に書かれている。
これらをリストにしたような、のろいの章がいくつか見られる。 

もし私たちが神のトーラー(教え・律法)に逆らい、神を頑なに拒絶し、汚し、偶像を崇拝し、悪いことをしていると知りながらそれを行なうなら、恐ろしいことが私たちに起こるだろう。そしてそれは実際に、ユダヤ民族に起こったことでもある。
第1神殿は偶像崇拝によって崩壊し(前586年)、イェシュアも預言したように第2神殿は理由なき憎悪によって崩壊(後70年)、私たちは2000年近い離散を経験することとなった。このように私たちの歴史は、自分の罪のために起こった恐ろしい罰・出来事を含んでいる。 

兄弟姉妹の皆さま。まさにレエ、見て欲しい―
祝福とのろいを神が私たちの前に置かれた、ということは私たちにはその2つのどちらかをチョイスするか、という選択肢があるのだ。 

27節には、「祝福とは、私が今日あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従った場合」とある。
これは明日や昨日のためではなく、今日のために神が私たちに命じたことであり、それに私たちが今日聞き従うか否かだ。今日、私たちの前には神の御心に従って行わなければならないことがある。それを履行・不履行するかの責任は私たちの内にあるのであり、それをするならば、今日あなたは祝福される。
そして次の28節は反対にのろいについて取り扱っているが、ロジック・原理は同じである。 

ラモン・クレーターを下る国道40号線
(Youtube より)

そしてイェシュア(イエス)はこのパラダイムを、非常に簡潔なものにし説明している。彼は、二つの道があると言ったのだ。
そのうちのひとつは、狭い上り坂で進むのは困難だが、いのちにつながる道だ。それは従順、信仰、愛、希望の道であり、具体的に言うと神の御心を行いイエスに従う道だ。
もう一方は楽な下り坂の道だ。しかしそれは地獄・悪へと繋がる道であり、さらに速く滑り落ちるように油まで塗ってある。 

そんななか私たちは、神の御心を行うことで祝福を日々選び、いのちの道を進む必要がある。神がわたしたちに与えられたこと(使命)を正しく、神から与えられた才能を賢明に使いながら行うならば、私たちは豊かに祝福され、さらに多くを得ることになる。神による祝福はこの地上で増し加えられ、家族と子供たちも祝福されるだろう。成長・繁栄し、豊かな水と太陽によって育った植物のようになるだろう。 

しかしもしそれを行わず、エレミヤ書17章にあるように神に逆らい、神ではなく人に寄り頼むならば―
わたしたちは水のない砂漠に植えられた木のようになり、葉は枯れ、実を結ぶことなく、ついにはのろわれるだろう。これは恐怖心をあおるような内容なのでハッキリと話されることはないが、非常に重要なポイントだ。
永遠の命に至る狭く困難かつ挑戦的な道を、神とイェシュアとともに手を携え歩むことができるか、それは私たちの選択にかかっている。 

シェケムでの祝福とのろい―

(jerusalemchannel.tv より)

さて今週のパラシャではこれから起こるであろう、象徴的な出来事が預言されている。
イスラエルの子らはヨルダン川を渡り、エフライムとユダの丘陵地帯を征服し、相続地とするだろう。しかしその前に、ゲリジム山に祝福エバル山にのろいを置くこととなる(29・31節)。

このゲリジム山とエバル山とは、シェケムの南北に位置する2つの山。シェケムとは神がヨシュアに対し、レビ人を住まわせるようにと言われた町だ。またそれより前の父祖時代には、シェケムを治める王の息子だったハモルによってヤコブの娘ディナが強姦され、その後ヤコブの子らが復讐を行った。
そんなシェケムは渓谷になっており、その南側のゲリジム山には祝福、北側のエバル山にはのろいがおかれることになった。 

それはなぜだろうか?
これには地理学的な答えがある―
イスラエルでは雨雲は全て西の地中海で発生し、海岸部の平野・低地とユダやサマリアの山地に雨を降らせながら東に進む。そしてシェケムのあたりで雨雲から全ての水(雨)が無くなり、ユダ砂漠と同様に雨の少ない砂漠気候になるのだ。シェケムはのあるサマリヤ山地と砂漠気候のヨルダン渓谷の、境界部にあるのだ。 

そんな命(祝福)と死(のろい)を分ける分水嶺とも言える場所を、神は選ばれた。
そしてヨシュア記に入ると実際、この2つの山に自然のままの石の祭壇が建設され、イスラエルの半分がゲルジム山・もう半分がエバル山に立ち、イスラエルの民は祝福を受けている(8章)。

エバル山で発見された、祭壇跡
(inn.co.il より)

ちなみにその祭壇の1つである、エバル山の祭壇は考古学的にも現存している。15年ほど前にパレスチナ人はその遺跡の破壊しようとしたが阻止され、今も山腹に建っている。ヨシュアの時代のものだという考古学的証拠もあり、グーグルで簡単に検索できる。 

神はモーセに、のろいとなる山が一つ、祝福となる山が一つあると言われた。
そしてヨシュア記の場面では2つに分けられたイスラエル民族の間、シェケムの谷の真ん中にレビびとたちが立って祝福を宣べ伝え、民は「アーメン」と言った。その後彼らは祝福のゲリジム山、のろいのエバル山でそれぞれ犠牲を捧げた。
これはイスラエル民族にとっては、非常に重要な出来事だった。 

この象徴的な出来事は、サマリヤのシェケムの上で起こった。
レビ人を真ん中にして、イスラエルの民の六つの部族がこちら側に、そして残りの六つの部族があちら側に立ち、彼らは祝福とのろいの契約をそれぞれ受け入れた。
受け入れるとは、彼らが神によしとされた正しい行いを重ねると祝福される、その契約を承認するということだ。具体的には父・母を敬い、安息日を守り、家族や神との時間を楽しみ、低俗なことではなく神や信仰などについて瞑想する。これらは神だけではなく、私たちにとっても良いことだ。

ご存知の通り、ユダヤ人は今も安息日を守っている。大多数の人々は現在でも、(世俗的なイスラエルのユダヤ人でさえ)安息日には働かない。多くの会社や職場、店が閉まっている。多くは家族とともに過ごし、散歩や遠出をするかもしれないが、多くは仕事には行かない。 

しかし反対に、もしあなたが神に対して不従順になり故意に創造主に背くならば、神の怒りが下る。これはトーラーの中心的な教えだ。
そして12章は、それらのリストになっている。偶像崇拝や、血を食べること、殺人などが禁止されており、私たちはこれらを避けて正しい行いを重ねなければならない。 

血を食べることの禁止―

肉のコシャー認定の様子。血の有無をチェックしている。
(aliya.org.il より)

さて数々ある戒めのなか、12:25からは血について語っている。

血を食べてはならない。
あなたも、あなたの後の子孫も幸せになるためである。
あなたは主の目にかなうことを行わなければならない。

血は食べるべきではないというこの戒律(ミツバ)は、イスラエルそして現在のユダヤ民族のみに与えられたものに思える。したがって異邦人ビリーバーであるクリスチャンは、この命令を守らなくても良いだろうか。
しかしこれは申命記だけではなく、新約聖書にも書かれていることだ。使徒の働き15章のエルサレム会議で、パウロ、バルナバ、ヤコブ、ペテロなどの使徒たちとエルサレム教会の長老たちが、「異邦人の兄弟たちはどうすべきか」を話し合った。 

エルサレム会議
(rcsasouthernsuburbs.com より)

初代教会の大半はユダヤ人だったが、地中海世界の多くの異邦人が主の福音を受け入れ、神に命を捧げることで加わった。すると「彼らに割礼を施し、ユダヤ教に改宗させるべきでは」という議論になったのだ。しかしここでは、ユダヤ教に改宗すべきではない、という結論に至った。
それは、なぜか?

イザヤ書66章、アモス9章、ゼカリヤ書、エレミヤ書などの預言において、異邦人が異邦人として加えられるいう素晴らしい約束があり、ユダヤ人になる必要はないからだ。神はすべて肉体を持つ者の神だ。だから使徒たちは異邦人の兄弟たちについて、創世記9章の最初でノアを通じて全人類に与えられた戒めのみを守るよう命じるべき、と取り決めを行った。 

28 聖霊と私たちは、次の必要なことのほかには、あなたがたに、それ以上のどんな重荷も負わせないことを決めました。
29 すなわち、
偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、淫らな行いを避けることです。
これらを避けていれば、それで結構です。 

ラビたちはノアに与えられた三つの戒めを解釈し、そこから何を守らなければならないか明確にするため、カテゴライズし7つに枝分かれさせるように分割した。対照的に使徒たちはこの3つの戒めに1つ足すような形で、4つ挙げている。 

おそらく使徒たちは、『血』ということばの持つ2つの意味に着目したのだ。流血=①人の血を流し殺す・傷つけることと、② 血を食べることとに、分けて解釈したのだ。
ここでは「絞め殺したもの」と表現されているが、絞め殺す方法での屠殺では動物のからだから血が流れ出ておらず、肉と一緒に血を食べることになる。なので申命記12章の「血を食べてはいけない」と、同義になるのだ。 

このように使徒たちは血を2つの意味として捉え、「血を食べること」だけでなく「血を流させること=流血」についても、イェシュアを信じた全ての人々に命じている。そしてこの解釈も非常にユダヤ的なものだ。
というのも、「流血=他人の命を傷付け・奪うことを行うな」という命令をラビたちは「人を傷つける行為の禁止」と解釈、そこから細分化させていくつもの禁止事項が含まれているとした。

例えば嘘をつく行為や、正当な理由なく人を非難したり、陰口やうわさ話をしたりする行為だ。口から出ることばは他人の評判・名声を傷つけたり、時には人格を破壊する。SNS社会である現在では「言葉が人を殺す」というのが、実際起こっているのではないだろうか。
こうしてユダヤの伝統では肉体・霊的に、感情的または経済的に、あるいはそのほかの方法で「人を傷つける=血を流させること」を、ユダヤ人だけでなくノアの子たち=全人類に対して禁止した。 

少し説明が長くなったが、使徒たちは私たちメシアニック・ジューだけでなく、日本や世界中のビリーバーに対しても「血を食べること」と「流血」を禁じている。
そしてそのエルサレム会議のベースには、今週のパラシャ『レエ(見よ)』があるのだ。 

イザヤ書の預言―

イザヤ書も預言したバビロニア捕囚

最後に皆さまと、ハフタラ(パラシャに対応する預言書)になっているイザヤ書について分かち合いたい。イザヤ書54章では、預言者イザヤが大きな困難の時代のなかイスラエルに対して語りかけている。
この預言の背景は、ネブカドネザルのバビロニア軍がすぐそこのエルサレムの門の近くまで来ており、イザヤはユダ王国がこの戦いに負け王国は滅亡し、多くがバビロニアの捕囚につくことを知っていた。預言の中でイザヤはすでに、ユダの民たちを「捕囚の民」として見ているような箇所もある。
そんななか預言者は、神の御名によってこう預言している。 

「子を産まない不妊の女よ、喜び歌え。
産みの苦しみを知らない女よ、喜び叫べ。
夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ。
──主は言われる──
あなたの天幕の場所を広げ、住まいの幕を惜しみなく張り、綱を長くし、杭を強固にせよ。
あなたは右と左に増え広がり、あなたの子孫は国々を所有し、荒れ果てた町々を人の住む所とするからだ。

イザヤ書 54:1~3

ここの文脈は、イスラエルと共に異邦人が神に加えられるというものだ。
兄弟姉妹の皆さま、日本をはじめアジアや世界中の兄弟姉妹は、神がイスラエルに与えたこの預言の成就なのだ。
イザヤ書後半は慰めの預言になっており、神はイスラエルに対して「絶望してはならない」と呼び掛けている。

あなたがたは今、小さくて弱いと感じているかもしれない。しかし人類全体を巻き込んだ大軍が来て、イスラエルに加わる。そしてそれは、神の御子・ダビデの子、そして信仰の父アブラハムの子孫である、メシア・イェシュアを通じてなのだ。
神が日本の兄弟姉妹を、豊かに祝福するように。
 
シャバット・シャローム!!

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