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第1週: ベレシート(はじめに)

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基本情報

2023年10月8 ~14日
通読箇所

  • トーラー(モーセ五書) 創世記1: 1-6: 8

  • ハフタラ(預言書) イザヤ書42: 5-43:10

  • 新約聖書 ヨハネによる福音書 1:1-15
    (メシアニック・ジューがパラシャに合わせて良く読む箇所) 

誰が神のしもべか?
ユダ・バハナ 

現在、予備役として戦争に動員されている、バハナ師

今週から、また新しいパラシャット・ハシャブア(ユダヤ人のモーセ五書の年間通読)のサイクルが始まった。今年も共に神の言葉という大海原へと飛び込み、神の偉大なる宝と知恵とを得たいと思う。 

全も悪も創造された神ー

今週、最初のパラシャ(その週の通読箇所)は天地創造のストーリーだ。「はじめに、神は創造された」という言葉から、私たちが聖書において最初に神に関して学ぶこととは、彼が『創造主』であるということだ。彼は天と地を創造された。創造者はただひとりであり、その神は全てを創造した― 良いことも、悪いこともだ。 

そしてハフタラ(パラシャに対応する預言書)の少し後には、こうある―

わたしは光を造り出し、闇を創造し、
平和をつくり、わざわいを創造する。
わたしは主、これらすべてを行う者。

イザヤ45:7

神は良きものも悪しきものも、両方を創造されている。神以外の創造者は、存在しないのだ。 

しかし、「神が悪しきもの・悪をも創造された」という事実は多くの聖書解釈・翻訳者たちにとっては難題となっている。そこで(日本語を含む)多くの訳では、「平和をつくり、悪(悪しきもの)を創造する」というこの箇所が、「わざわい」や「闇」というオブラートに包まれた表現に変えられている。 

しかし私たちの聖書は、この宇宙・世界には神という1つの力しか存在せず、その唯一の力のみが全てを支配し、すべてはその力に従い服従している。したがって、善と悪との戦いとは存在せず、邪悪や痛み・闇や戦争などを作り出す神以外の何かが存在している訳ではない。
全てが、何かを創り出す唯一の実体である神に対して従っており、それに並ぶ者はもちろん、創り出す者も誰一人としていない。 

時間・空間を超越する神ー

(TheTorah.com より)

神は仰せられた。
「光る物が天の大空にあれ。昼と夜を分けよ。
定められた時々のため、日と年のためのしるしとなれ。

創世記1:14

トーラー(モーセ五書・神の教え)は、神の力とは時間という枠を超越していることが分かる。日・年などという時間の単位も、神が想像されたからだ。時間や空間も神による被造物であり、それら被造物は創造者が設定したルールに従っている。そして創造者である神は、時間や空間には制限されず超越している。 

ジョン・マーティン作
「太陽に止まるよう命ずるヨシュア」

ヨシュア記は、南のカナンびとの王たちとの戦いの際に起こった、奇跡に関して語っている。約束された地を占領し、入植する際のことだ。戦いが激化するなか、ヨシュアは神に対して太陽を止めるという奇跡を起こすよう頼んでいる。

主がアモリ人をイスラエルの子らに渡されたその日、ヨシュアは主に語り、イスラエルの見ている前で言った。
「太陽よ、ギブオンの上で動くな。
月よ、アヤロンの谷で。」

ヨシュア10:12

そして、これは実際に起こった。イスラエルが敵を打ち破るまでの間、太陽は1センチも動くことがなかった。
 
聖書解釈者たちのなかには、神が太陽と月の動きを止めた時にその他の天体を含む宇宙全体がその動きを止めた、という声もある。違う解釈を取る解釈者たちからは、太陽が実際に動きを止めたのではなく、神はイスラエルの子たちの上に「もう1つの光」を照らした、という主張もある。これは非常に興味深い。というのも、光が創造されたのは1日目である一方、太陽や月・星などの天体が創造されたのは4日目だからだ。神の光は、太陽や月よりも前から存在したのだ。 

聖書の最後と最後=光

創世記が光から始まっているのであれば、聖書の終わりも新しいエルサレム・天の王国を照らす神の光になっている。この王国においては太陽や月を必要とはせず、夜もなくなる。神こそが光であり、自身の王国を自身で照らす光となられるからだ。
この「ギブオンの上の太陽」の奇跡において、神がイスラエルの子の上を照らされたのがもし「別の光」であるとするならば、それは確実にメシアのことを指している。メシアもまた、光だ彼である。しかしメシアの光については、もう少し後で話したいと思う。
 
創世記と天地創造の物語に、話を戻そう。
ここで何度も出てくる単語は、「トヴ(良い)」だ。そして創造の最後には、「非常に良かった」ともある。

神はご自分が造ったすべてのものを見られた。
見よ、それは非常に良かった。
夕があり、朝があった。第六日。

1:31

最初の1章では光は闇に勝り、草花や樹木・動物たちについて目にする。天地創造は非常に良い形で始まり、全ては光に引き寄せられていた。そして1章の最後には、想像が6日間で完了したとある。

そして2章の初めはシャバット(安息日)と呼ばれる、7日目の聖別から始まっている。今日においてこの安息日とは、ユダヤ人とクリスチャンの間で議論を呼ぶトピックであり、不一致の根源にもなっている。
どちらが聖日なのか―
(ユダヤ人の)シャバットか、
それとも(クリスチャンの)日曜日か?
そしてユダヤ人ビリーバー(メシアニック・ジュー)である私たちにとって、シャバットとはどういった意味を持っているのだろうか?

私たちはユダヤ人であるため、シャバットこそが重要で大きな意味を持っている。聖書を通して神は何度も、シャバットを守ることの重要性を私たちに教えている。
 
そしてそのシャバットの重要性は、新約聖書にも何度か登場する。ルカの福音書23章を見てみよう。

それから、戻って香料と香油を用意した。
そして安息日には、戒めにしたがって休んだ。

56節

天地創造の初め、この世界の初めから土曜日(シャバット)は特別な休息の日であり、この日は私たちの霊を高める。そしてこの日は来るべき『永遠のシャバット/安息』を予期し、私たちに記憶させるものでもある。
 
創世記2章には、こうある―

3 神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。
その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。 

今日においても土曜日(シャバット)はイスラエル国家にとっては聖日ではあるが、シャバットが神から与えられたのは人生全体だ。シャバットが聖別されているのは、アブラハムやユダヤ教が成立するよりも、ずっと前だからだ。
原罪の前に、神はシャバットをエデンの園でアダムとエバに対して与えたからだ。 

天地創造に見る、私たちの役割

エデンの園

2章の真ん中あたりには、目立たない15節があるのだが、これは私たちが誰なのかという理解のためには必要不可欠なものだ。人の存在意義に関する疑問について取り上げている― 私たちは誰で、なぜここに存在し、この人生における目的は何なのか?

15 神である主は人を連れて来て、エデンの園に置き、
そこを耕させ、また守らせた。 

神は自身が創造したものたちの真ん中に私たちを置いたのだが、それは被造物を守り維持するためだ。
私たちのこの世における目的とは、「仕え手」である「庭師」だ―
メンテナンスのワーカーとして、神の創造・被造物の世話をする。

そのため、神は私たちを神のかたちにしたがって創造された。これは、私たちがとてつもない能力を有していることを意味している。環境に適応し、発明し、計算し、そして創造をも行う― そんな能力だ。
神の素晴らしい創造に対して相応しい形で仕えるため、私たちは『しもべ』として創られたのだ。 

読み進めると、私たちは善悪の知識の木から取って食べてはいけない、という禁止を受けている。最初の人が罪に落ちた、あの木だ。そして私たちは神の恵みから遠ざかり、神の王国であるエデンの園から追放されてしまった。そして私たち人類は堕落・落ち続け、神からは遠く遠くへと流されていくことになる。そしてそれが進むごとに、私たちの中にある憎悪や恐れ・絶望といった悪い感情が膨らんでいく。 

私たちは妬みや自身の無力さや価値のなさなどを頻繁に感じるが、これは私たちの持っているエゴから派生したものだ。「それは私にとってどうなのか/どういった意味・益があるのか/なぜ私ではないのか」などといった感情だ。私たちや私たちの行動は、未だにそんな自己中心的な態度と妬みによって支配されており、それがカインアベルという人類初の殺人を生んでいる。
そして今週のパラシャは、厳しいトーンで締めくくられている。人の持っている能力や才能、創造性などが全て悪い方へと向かっているのだ。 

ハフタラに見る「神のしもべ」

古代ウルの遺跡から見つかったしもべたちの様子
(britishmuseum.org より)

ここでトーラーからハフタラに目を移したいと思う。
伝統的なハフタラは5節から始まるが、この章は「わたし(=神の)しもべ」という言葉で始まる詩になっている。「神のしもべ」とは聖書を貫く主要なモチーフの1つであり、聖書や多くの聖書解釈者たちが書き残している。 

そしてこの「しもべ」が誰かということについては、ユダヤ教キリスト教では意見が割れている。

クリスチャン的視点から見れば、イザヤ書53章でも明らかになるようにメシアであるイェシュア(イエス)こそが、神のしもべだ。マタイの福音書2章には、イェシュアが「神のしもべ」と呼ばれており、これはイザヤ書からの引用になっている。
 
それとは反対にユダヤ教では、明確に誰であるかと明記されていない「神のしもべ」について、それはコレクティブとしてのイスラエルである、と考える。イザヤ49:44にはイスラエルとヤコブが「神のしもべ」と呼ばれており、それを採用するという立場だ。これは、必ずしも全てのケースに文脈・文法的にフィットするものではない。そこで多くの場合がイスラエル全体、そして時としては来るべき(しかしイェシュアではない)メシアとする― これが標準的なユダヤ教の解釈だ。 

さてこの箇所がハフタラに選ばれた理由は、神が全ての創造者であるというメッセージだ。この世界や人類、そしてその中からイスラエルという民族・国を創造されたのは神であり、そんな「主のしもべ」である目的とは諸国民に対する光となり、世界中・人類全体を神に対して近づけることだ。 

そしてセファラディー(スペインをルーツに持つ中東のユダヤ人)のハフタラは、この21節で終わっている。

主はご自分の義のために望まれた。
みおしえ(トーラー)を広め、これを輝かすことを。

世界は神について学ぶ必要があり、ユダヤの伝統的な読み方によると、世界中に神のことばを教え広めるという「神・主のしもべ」としての役割は、イスラエルに対して課されている。
 
メシアニック・ジューとして、私たちはこの一節にイェシュアを見る。イェシュアがこの召しを、過去・現在において成就しているからだ。
世界中の様々な言語にこの聖書は翻訳され普及されたが、それは全てイェシュア・メシア(イエス・キリスト)の名のもとに行われている。イェシュアによって私たちの世界は神を知り、神のことばと意志を知ることとなった。 

パラシャと新約聖書

(anglicancompass.com より)

そしてパラシャと新約聖書の関連性は、ヨハネの福音書1章を見れば明白だ― 初めにことばがあった。このヨハネ1:1は、ダイナミックな聖書の最初の1節とリンクしている。そして神はこの世界を自身の言葉を通じて創造された―

神は仰せられた… すると、そのようになった 

神の最初の言葉は、「光、あれ」だった(創1:3)。
そしてヨハネの福音書の最初も、闇に打ち勝つ光になっている。創世記では光によって世界に秩序がもたらされカオス状態に終止符が打たれたように、ヨハネの福音書では闇によって脅かされることのない光について語られている。
光は善や知恵、幸せや精神性・聖さを象徴している。イザヤ2章の有名な最後の日の預言において、イザヤは世界中から諸国民がエルサレムに上り、神について聞き学ぶと預言されている。

シオンからみおしえが、
エルサレムから主のことばが出るからだ。

3節

そしてその直後、ヤコブの家は神の光のもと歩むように言われている。

ヤコブの家よ、
さあ、私たちも主の光のうちを歩もう。

5節 

さて、「世の光」とは何・誰のことだろうか?
イェシュアはこう言っている―

イエスは再び人々に語られた。
「わたしは世の光です。
わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、
いのちの光を持ちます。」

ヨハネ8:12 

この一節は、ハフタラにあるイザヤ42:6と繋がっている。

わたし、主は、義をもってあなたを召し、
あなたの手を握る。
あなたを見守り、
あなたを民の契約として、国々の光とする。 

ヨハネ1章を読むと、イェシュアがその光であることが分かる。
彼こそが、贖いに対する神の答えなのだ。
イェシュアこそが聖書を通じて私たち全員に約束されている、その光だ。

まことにあなたは救い出してくださいました。
私のいのちを死から。
私の足をつまずきから。
私がいのちの光のうちに
神の御前に歩むために。

詩編56:13 

イェシュアという『命の光』によって、この1年間私たちが照らされるように。
シャバット・シャローム!!

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