第44週:ヴァ=エトハナン(懇願した)
基本情報
パラシャ期間:2024年8月11日~ 8月17日
通読箇所
トーラー(モーセ五書) 申命記 3:23 ~ 7:11
ハフタラ(預言書) イザヤ 40:1~ 4:26
新約聖書 マルコ 1:1~ 1:15
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所)
信仰と聖書に根ざすことが成功への秘訣
ユダ・バハナ
今週のパラシャも、内容が非常にバラエティーに富んでいる。
ユダヤ人にとっては最も重要な、①十戒と②シェマ・イスラエル(聞けイスラエル)の祈り(申命記6章)という、2つを含んでいるからだ。そしてこのパラシャット・ハシャブアは、イザヤ書 40 章のハフタラ朗読にちなんで「シャバット・ナハム(慰めの安息日)」とも呼ばれている。
応えられない祈りもある
ヴァ=エハナン(意味:そして私は懇願する)というパラシャ名は、イェシュア以外では最も偉大な預言者だった、モーセの神への嘆願にちなんでいる。トーラーは愛を込めて、モーセを次のように描写している。
そんなモーセが、イスラエルの地を見せてほしいと神に懇願した。しかし、神の答えは「否・No」だったのだ。
祈りは私たちの生活の重要な部分で、多くの人は頻繁に神に祈るので、この「モーセですら、祈りが聞き入れられない」というのを受け入れるのは、難しい。定期的に祈る人もいるし、また、必要なときに祈る人もいるだろう。
頻繁に祈る人であればあるほど、この聖句は心に響く。私たちは癒しを祈り、互いのため、祖国のため、愛する兵士たちの安全と守りを祈る。祈りは、信者である私たちの生活において重要な役割を果たしている。
そしてモーセは、約束の地に入って触れて味わいたいと懇願した。しかし、神はそれに応じなかった。イスラエルの民のために自らの命を進んで犠牲にし、民のために祈ると神はその祈りを何度も受け入れられた、偉大な指導者モーセの願いでさえ聞き入れられなかった。
イスラエルを滅ぼそうとしたときでさえ、モーセの祈りと嘆願を神は受け入れた。しかし今、それがとても個人的なことになると、神は「否」と拒否をした。そしてモーセは、この答えを謙虚に受け入れている。
私たちはパラシャット・ヴァ=エハナンからこの強力な教訓を学ぶことができる。
― 祈りに対する神の「No」を、私たちは受け入れる準備をしておく必要がある、ということだ。
イェシュアは私たちに自分と周り、会衆のために祈り続け、実際そうすべきだと教える。私たちは家族や病人のため、祈らなければならない。しかし、イェシュアによれば、まず第一に、私たちの祈りの言葉と意図は次であるべきなのだ―
神はあくまでも、自身の意志に従って世界を統治している。この事実を、私たちは認識する必要がある。私たちは神の手の中にある、道具。私たちは唯一の創作者である神の計画を、謙虚に受け入れるのだ。
別の疑問として、このモーセの長い独り語りの背後にある理由に関してさらに疑問が生じてくる。なぜモーセは、神に懇願したが彼の最後の願いは拒否され、悲しみの中で死を迎えようとしたことを、こうして書き残したのだろうか。
モーセの最後の願いについては、沈黙していた方が良かったのではないだろうか?
もし書かれていなければ、神がモーセに対して約束の地を触れるという権利を与えなかった理由について、議論を避けることができただろう。モーセの名誉のためにも、書き残さなかったほうが良かったのではないか。
モーセは荒野で40年を過ごした後、この真摯で気持ちのこもった祈りを神に投げ掛けた。
そこでは新しい世代が聖地に入るべきとの話を聞いて育ち、国としてそこに入る心の準備ができていた。38年前に、モーセがイスラエルの地にスパイを送ったことを思い出そう。彼らは素晴らしい話と、体験を携えて帰って来た。その話がどのように広まり、鮮やかな伝説になったか、容易に想像できる。
そして荒野で足を引きずりながら、長老たちの膝の上に座りながら約束の地について聞いて来た38年間の期待を経て、ついにその地が手の届く場所に見えてきたのだ!
入る前から、トランス・ヨルダンの緑と豊かさが目に浮かぶ。それだけでも、民を待つこの地の豊かさへの期待が湧き、想像がふくらむ。
モーセが望んでいたのは、そんな念願のイスラエルの地を歩き、ガリラヤの山々などの空気を吸うことだけだった。先祖が所有していた土地に触れ、ベエル・シェバの井戸を訪れ、ヘブロンで追悼の意を捧げる。それ以上― その後も指導者としての椅子に座り続けるなど―は望んでいなかっただろう。
それがモーセが神に求めたことだ。しかし神は今、「否/No」と言われている。
それは、なぜだろう?
その答えは次の聖句に表れていると思う―
ヘブライ語で「あなたのために」を意味する「レマアンヘン」の、英語の翻訳は少し違う。ヘブライ語の本文では、なぜ神がモーセの願いを許さなかったのか、またなぜモーセが実際そのことを全世界に公表したのかが説明されている。
イェシュア(イエス)のおかげで、まさにこの話も含めて聖書は世界中で知られ、出版されている。
モーセはこう言った。
このことばの意味は「あなたがたのせいで」とは大きく異なる。「あなたがたのために」は言い換えると、「あなたがたの益のために」という意味になる。
実際、モーセは次のように述べていると想像する。
このモーセの出来事は、私たちのための例となった。
モーセはイスラエルの人々に衝撃を与えるため、すべてを語り明らかにした。しかし私たちは、神と取り引きができないことを理解しなければならない。『神は私の状況を理解してくれる』というのは、イコール『神と取り引きが可能』ではないのだ。
私たちはこのモーセを見て、こんな教訓を学ぶべきだ。
前に述べたように、トーラーはイェシュアのおかげで、世界中のすべての言語に翻訳された。これはまた、完全な赦しの必要性も示している。この赦しはメシア・イェシュア(イエス・キリスト)を通してのみ、受け取ることができる。
この出来事の後、モーセは演説を続けている。
たとえ私たちが約束の地で経済的成功や、物質的成功という祝福を受け取ったとしても、神は警告している。そしてその祝福は、それ自体がある種の危険をはらんでいる。確かに、困難な時、必要な時、私たちは皆、神に祈り、助けを求めることを知っている。
しかし、平和な時代にはどうか? 繁栄し成功している時代にはどうか?
天の父に感謝することを、私たちは常に覚えているわけではない。モーセは私たちに、祝福と豊かさの源を忘れないように語っている。
成功の源とは
モーセは更に別の興味深い点に触れている。
私たちの知恵と成功の源は何だろう?それは教育か、それとも子供たちへの投資か?豊かな社会生活?私たちの兵役義務だろうか?
そのすべては確かに子供たちを豊かにし、人生経験と人生における一種の成功を与えるだろう。しかし、今週のパラシャは成功の秘訣を明確に規定している。
知恵の秘密は単純だ― 聖書と神のみことばだ。
民として、そして人間として、神の命令、法律、戒めを守り、行なうなら、私たちは祝福され、成功するだろう。詩篇 1 篇には、次のように書かれている―
成功や直感・着想・知恵の源は、神についてそして神のみことばの知識だ。自分と家族が神のみことばに根ざしている人はみな、多くの実を結ぶ。そういう人とその子供たちは祝福される。
イェシュアを信じる者として私たちは、神のみことばに信頼し、根づいていることが大切だ。神のみことばは創世記から黙示録まで、旧約聖書から新約聖書に至るまで、そのすべてが含まれている。そしてその成就でありイェシュアへの信頼は、私たちを祝福された人生に導く。しかしそれは、なにかの魔法・トリックのようなものではない。
私たちは祈りの力も奇跡の力も信じている。
神は私たち人間には理解できない奇跡と、不思議を行なわれているという絶対的な信頼を持っている。私たちは岩からの水や天からのマナ、荒野で起こった全ての奇跡を信じている。
信仰こそが私たちを成功に導き、人生に祝福をもたらすのだ。その理由は、神のみことばが私たちを公平でバランスの取れた、質の高い霊的そして社会的生活に導くからだ。信仰は自己中心や個の利益の考えを超えた、意味のある人生に私たちを導く。
イェシュアは私たちに互いに助け合うことを含めた、意味ある社会生活を送ることを求める。他の人を助けると、私たちの心はより強くなる。そして他人を助けることを子供たちに教えれば、子供たちを育て人生に意味を与える。
これが、イスラエルでは多くの人がさまざまな分野のボランティアをしている理由だ。
イスラエルでは道端で立ち往生していれば、助けにくる人々(=ボランティア)が多くいる。そして命を救う、緊急救命のボランティアも多い。これらのボランティアは人を喜ばせるだけではなく、真の自己実現感を与える。
確かにイェシュアの信仰は、私たちをボランティア活動や周囲の人々を配慮する生活に導き、それが私たちの人生に意味を与える。これがモーセが律法について、祝福された有意義な人生の源だと言ったことを意味しているのだ。私たちの知恵は、数学の学生として成功するだけではない。むしろ私たちの知恵と成功は、次のように書かれているように、神のみことばをどのように次世代に伝えるかに要約される。
イスラエルを選ばれた理由
神はイスラエルのIQが最も高いから、または最も成功したから選民として選んだのではない。むしろ神は2つの主な理由で、この民を選ばれた。第一に、私たちを愛してくださっている神の愛。そして二番目は神の誓いだ。
神は私たちの父祖に誓い、その約束を果たされている。
そしてこのパラシャは、次の考えで終わる―
7節にあるように、私たちはすべての国々の民のうちで最も数が少なかった。したがって私たちにある知恵は、私たちのものではなく内に住まわれる神のものだ。
そして新約聖書も、神は弱い者を選ばれると教えている。
なぜなら、能力や強さは私たちのものでなく、神のものであることを明確にするためだ。私たちイスラエルの周囲には、現在も私たちへの憎しみに満ちた一億以上の敵が居て、彼らに囲まれている。この弱く小さな民の中でこそ、神は際立つのだ。
敵の軍隊の規模は50倍も大きく強力だが、それでもこの小さな民を倒すことはできない。
疑いの余地もなく、神が存在し、神が私たちを守ってくださっていることは明らかだ。
新約聖書にはこう書かれている―
私たちの知恵の秘密は何か? 私たちの成功の秘密は何か? 答えは、神だ。神のみことばだ。
モーセはただ私たちに、生ける水の源を放棄しないように、生ける神のみことばを放棄しないようにと言う。
同じ一節に、次のように書かれている。
この聖句は、今週のトーラー箇所にも出てくる十戒の冒頭に似ている。生ける言葉、知恵の言葉の核心には十戒があると言えるだろう。
この十戒は、出エジプト記のイテロのパラシャで初めて書かれている。そしてここ申命記でモーセは、もう一度繰り返している。
私たちにとっての『憲法』は、解放に関する宣言で始まる。
神とは誰か?
神は奴隷制度と束縛を打ち破り、私たちに自由を与えてくれた、あのお方だ。それはまさにメシア・イェシュアに対する私たちの信仰の核心だ。
そしてメシア・イェシュアとは誰か― メシア・イェシュアは私に何をしたのか。
イェシュアはご自分の血で、私たちを買い取ってくださった。そして私たちの罪の呪いを、ご自身に負われた。
そしてイェシュアは罪を打ち破り、私たちを罪の奴隷から解放してくださったのだ。
日本の皆さまのうえに、豊かな週末があるように。
シャバット・シャローム!
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